従って、問題は何故日本国政府が対米追随、対米隷属教を信奉するようになったのか、ということである。この問題を真に解明するためには、1945年9月2日の敗戦から1960年1月19日の日米新安保条約の締結に至るまでの戦後史の本質を解明する必要がある。この戦後史の詳細を一次資料の資料批評に基づいて詳細に分析された研究者として、京大法学部卒業、元関西学院大学教授の豊下楢彦(とよした・ならひこ)氏がおられる。

また、豊下氏の諸論考(「安保条約の成立」①、「昭和天皇・マッカーサー会見」②、「昭和天皇の戦後日本」③)の他に、外務省国際情報局長、防衛大学教授を歴任された孫崎享氏の「戦後史の正体」、沖縄国際大学教授の前泊博盛(まえどまりひろもり、前琉球新報)の「日米協定入門」などがある。

これらの好著を拝読させていただいた結果、サイト管理者の私見であるが、日本の対米従属→対米隷属体制の基礎を築いた超一級の人物として、①東京裁判における起訴と処罰を恐れ、天皇制の廃止を大きく懸念した②同じく、国際共産主義による間接侵略および直接侵略による自身と皇統の将来に対する不安・天皇制の廃止を恐れたー昭和天皇その人ではないか、と思えるようになってきた。

この昭和天皇の恐怖感を察知したことと昭和天皇の権威を占領政策に生かすため、昭和天皇を東京裁判に起訴させず占領政策に一定の成果を収めたのが、ほかならぬダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官総司令部である。また、1950年5月18日、フランクリン・ルーズベルトの急死(1945年4月12日)後、副大統領であったために大統領に就任したハリー・トルーマン米大統領から対日講和条約の責任者に命じられ、後に国務長官に昇格したジョン・フォスター・ダレスは、昭和天皇の申し出で同天皇と深いパイプを形成。そのことによってダレスは、講和条約締結の狙いであった「我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望むだ期間だけ駐留させる権利を獲得」(豊下②)するという目的の達成に成功したのであった。

詳細は、これらの超一級文書に記されているが以下、サイト管理者の私見を述べさせていただきたい。第一は、敗戦直後の1945年9月27日に行われた昭和天皇とマッカーサー総司令官の第一回会談にかかわることである。この会談についてマッカーサーは晩年の回顧録で次のように記している。

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−−転載開始−−
私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないかという不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強く上がっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。(中略)しかし、この不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにお尋ねした」。私は大きい感動に揺さぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでも揺り動かした。(「マッカーサー回顧録」下巻、142頁)
−−転載終わり−−

これに対して豊下氏は、①極東軍事裁判所(東京裁判の舞台)は1946年1月19日に、マッカーサー本人による憲章によって設置が決まったのであって、第一回会談時には何も存在しない②日本の皇室に信頼関係の厚かった英国はもとより、ソ連も昭和天皇を戦犯リストに載せた事実はない。リストに掲載したのはオーストラリアであったーことを挙げ、挙行だと指摘している(豊下③)。

大日本帝国憲法には第4条において、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と定めているが、第11条では「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、第12条では「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」としている。つまり、日本帝国陸・海・空軍の最高責任者の位置づけがなされている。私見では、やはり戦争責任を免れないところだ。

これに関して、豊下②は、「昭和天皇がこの『独白録』(寺崎英成によって作成されたもの。昭和天皇の免訴が最大の狙いと見られる)」で触れていない憲法上の重要な問題がある。それは、天皇が統帥権を掌握している、ということである。いかに参謀総長(軍部制服組の最高責任者)や軍司令部総長の補佐を受けるとしても、天皇は統帥命令を発する大元帥であり、この点が、英国の立憲君主制との決定的な違いである」(200頁)。これはこれは、日本帝国の陸・海・空軍を統括する大元帥としての昭和天皇(事実、軍人としての教育を受けてきた)に太平洋戦争開戦の責任があるということを間接的に述べたものにほかならない。

ところが、昭和天皇は起訴されなかった。これについて、豊下③は、詳細な史料評価の後、「(マッカーサーにとって)マッカーサーの権力と昭和天皇の権威という”両輪”でもって」円滑に占領(政策)を遂行することが至上命題であった。だからこそマッカーサーは、憲法問題に介入して天皇制の維持をはかり、昭和天皇が東京裁判に訴追されないように奔走したのである。問題は、”美談”の世界ではなく、両者(昭和天皇とマッカーサー)の関係は極めてリアリスティックなものであった」(78ー79頁)と結論づけている。

その間の経過については、豊下の著書に当たっていただくしかないが、「東條英樹非難」(76頁)、つまり、忠臣であったはずの東條に責任を負わすという形で戦争責任を免れようとしたことが詳細に分析されている。

第二に、現行日本国憲法について、「押し付け憲法であるから、改憲しなければならない」という「意見」が3後を断たないが、これは現憲法策定過程を知らない者の言う言葉である。日本帝国が受諾したポツダム宣言には第13条で「我々は日本政府が直ちに日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、日本政府がそれを保障することを要求する。そうでなければ日本はすぐに壊滅されるだけである」と記されており、マッカーサーには日本軍の解体処理の任務しか負わされていなかった。そして、第10条で「我々は日本人を奴隷にしたり滅亡させようとする意図はないが、我々の国の捕虜を虐待した者を含む戦争犯罪人に対しては厳重に処罰する。日本国政府は民主主義を推進しなければならない。言論、宗教及び思想の自由、基本的人権の尊重を確立しなければならない」と記されている。

このため、日本の国家体制を抜本的に改革する極東委員会が東京に設置されることになり、1946年2月27日が設置予定日になっていた。このため、27日が来れば、マッカーサーが日本の国家体制に口を差し挟むことはできない情勢にあった。このため、マッカーサーの軍事秘書であったボナー・フェラーズの提案で、突貫作業でGHQが日本国憲法の起草をすることになったのである。これは、昭和天皇と天皇制を守ることがひとつの需要な任務であった。なお、日本側でも憲法起草作業はなされていたが、およそポツダム宣言とは相容れないものであった。こうして27日ぎりぎりの時点で、幣原喜重郎内閣が草案を受け入れ、間に合ったのである。

朝鮮戦争の遂行(北朝鮮を追い込みすぎて中国の参戦を招いたことなど)をめぐってトルーマン米大統領から解任され帰国する前夜の1951年4月15日、マッカーサーとの最後の会談(第11回)に臨んだ昭和天皇は、「戦争裁判(東京裁判)に対して貴司令官(マッカーサー)が執られた態度につき、この機会に謝意を評したいと思います」と語っているのである(62頁)。昭和天皇は、マッカーサーの下でなされた東京裁判に感謝しているわけで、この点、「東京裁判」を否定する論者は「親の心、子知らず」というべきである。

第三に、昭和天皇とマッカーサーの間は、共産主義の脅威と日本国憲法について次第に意見が合わなくなったということである。豊下①③はこのことを詳細に分析しているが、転機を迎えたのは1947年5月6日に行われた第4回会談である。マッカーサーは日本国憲法第9条について、あくまでも国際連合による集団安全保障を前提としたものであることを昭和天皇に説明するが、国際共産主義の脅威に怯える昭和天皇はこれを受け入れなかった。このため、昭和天皇はマッカーサーとは別に、ダレスとの直接の交渉パイプを築き、天皇制維持のためにダレスの要求、つまり、「我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望むだ期間だけ駐留させる権利を獲得」したいとの要求を受け入れたのである。

なかったことである。これに関連して、孫崎①によると、敗戦後、昭和天皇の側近となった外務省出身の寺崎英成が米国側に対して、昭和天皇の沖縄メッセージを伝えた(87頁)

−−転載開始−−
天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄その他の将来に関する天皇の考えを私(マッカーサー政治顧問・ウィリアム・シーボルト)に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると言明した。(略)

さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)に基づいてなされるべきだと考えている」(1947年9月20日)
−−転載終わり−−

つまり、昭和天皇は国際共産主義勢力による廃位、天皇制(国体)の廃止に脅え、米軍による沖縄の長期占領を求めたのである。いわゆる、「昭和天皇の沖縄メッセージ」である。同メッセージはその存在の有無をめぐって論争が続いてきたが、宮内庁が総力を挙げて編纂、刊行が続いている「昭和天皇実録」に明確に記載されている(豊下③102-103頁)。豊下によるとこれは、昭和天皇自らが、マッカーサーの政治顧問であったシーボルトを通じて、沖縄の帰属をめぐる米国の国務省と国防総省との対立を克服する提案を行なったものである。

結局、ダレス側との交渉パイプもあってこの「沖縄メッセージ」は実現されることになったと思われる。事実、1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約の第三条で、「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」と決まったのである。

豊下③は、「そもそも米国は信託統治を提案する意志が全くなかったため実際には米軍による沖縄の全権支配が可能となり、他方で、講和会議において対日講和の責任者であるジョン・フォスター・ダレスが『日本に沖縄に対する洗剤主権を残す』と言明したことで、『領土拡大』の非難をさけることができるようになった」(104頁)と記している。

【サンフランシスコ講和条約でのジョン・フォスター・ダレスと昭和天皇の臣・吉田茂首相】

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しかし、この昭和天皇の「沖縄メッセージ」が「沖縄に基地が集中した問題」のひとつの大きな契機になったことは間違いない。また、この1951年9月8日は昭和天皇の二重外交(昭和天皇・ダレス間のパイプ)の最大の成果である「旧日米安保条約」(日本側が米国に頼んで在日米軍基地を維持してほしいと頼み、米国側がその要請に応じ、米軍が治外法権を得たうえで永遠に在日米軍基地を維持・発展させる、という内容。国家主権の放棄に等しい)が締結された日である。前泊①によると、米軍に事実上の治外法権を与える日米行政協定が先にあり、そして旧日米安保条約→サンフランシスコ講和条約の位置づけになるという。

亀井静香衆院議員(元自民党政調会長、元国民新党代表)が、「サンフランシスコ講和条約を調印して日本は独立したことになったとされているが、実際は独立したわけではなかった」と述べているゆえんである。この構造が日本国の戦後体制、つまり「米国の植民地化」の「基礎」である。付け加えると、豊下は①③で昭和天皇の二重外交を詳細に分析し、その問題点を鋭く指摘している。なお戦前、日中戦争を推進した吉田茂は戦後、最終的に昭和天皇ーダレスのパイプに乗り、「不平等条約」との批判を免れない旧日米安保条約締結に、日本国の全権大使としてはただ一人で署名した。

第四に、「象徴天皇」であるはずの「昭和天皇」のこうした政治・外交活動をどのように判断すべきか、という問題がある。「憲法違反」との指摘がなされようが、やはり、「共産主義」を超克する理念が日本の天皇制には存在しないということの表れ、と見るべきと思う。戦後、「進歩的文化人」と揶揄された人物の限界は、欧米文明の根幹をなすユダヤ・キリスト教に対する対決がなかったことである。

 

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