「日本一新運動」の原点(238)ー日本国憲法と「国連の集団安全保障」(15)

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○国民生活を崩壊させ国を滅ぼす消費税再増税の責任を問う!

安倍政権は11月4日から、消費税再増税問題について有識者ヒアリングを始めている。同月17日には7月~9月期のGDP統計が発表されることが決まっているはずだ。何故、統計発表を待ってヒアリングを始めないのか。消費税10%の増税は既成事実と言われても仕方がない。GDPで最悪の統計が出る前に再増税への有識者の意見をまとめておけば、政府の責任は軽くなるとの思いだろう。

これは性の悪いカラクリ政治である。さらに悪質なカラクリがあった。たしか平成24年8月に成立した「消費税増税法」は、民主・自民・公明の3党合意では「税と社会保障の一体改革」ということであった。それが安倍政権に政権交代してどうなったか衆知のことで、改めて説明するのも腹立たしいが、自公民3党の責任を明確にするために確認しておく。

「税収アップ分は公共事業と法人減税に消える」方向が明らかだ。社会福祉の拡充はゼロとはいわないが削減した部分を比較すれば、約5兆円の消費税増税に対して社会保障につかう分、僅か500億円だ。例えば、「地域医療・介護総合確保推進法」の成立で、介護施設に入るには「要介護三以上」となり、要支援の訪問介護などは市町村に丸投げとなった。何のことはない民衆からの消費税を増税して搾りとり、大企業や金持ちのために浪費させ、挙げ句の果てに政治献金までかすめ取るというカラクリ政治となった。何故こうなったのか。それは政治家や大企業経営者・有識者が、税制と消費税の本旨に無知で、財務官僚のロボットになり下がったからだ。

(国民を欺く税制は国を滅ぼす!)

敗戦時の大蔵省主税局長であった前尾繁三郎という人物は「税制の神様」と関係者から呼ばれていた。戦時中、東条内閣で東京税務監督局の部長時代に、高級料亭の課税が安く公平さを欠くと徴税を強化したところ、陳情を受けた東条首相が特例をつくるよう指示したことを拒否した。そのために、南方の戦地に左遷された官僚である。戦後に衆議院議員となり昭和48年に議長に就任した。天命により、私が約4年間秘書役を務めたが衆議院事務局として異例の人事でもあった。人生の恩人である。

前尾議長は「税制」について、公平さと国民の理解を絶対要件とし、常日頃「あまりにも国民を欺く税制は、税務の威信を一朝にして崩し、国を滅ぼす」と語っていた。また、戦後続いていた「シャープ勧告」による、直接税中心の税制を早急に是正しなければならないとし、経済の構造変化に対応して福祉社会を向上させるため「一般消費税制度」の導入が必要であるというのが重要な政治課題であった。

最近の報道によれば3党合意の当事者である、野田前首相・谷垣前総裁・山口代表は、藤井元財務相に誘われて、消費税制度の功労者を大平元首相と仰いで、生誕日などで飲み会をやっているという。大平さんは消費税導入の功労者などではない。宏池会会長の先輩である前尾さんの説得で昭和54年の総選挙に「一般消費税制度導入」を公約したが、与野党の反対に遭い、途中で公約を引っ込めたのである。そして翌年6月の総選挙中に急死するが、消費税から逃げた政治家だといえる。

福祉政策の整備からいえば、昭和50年代の前半には、消費税の導入が必要であった。国民の理解不足もありできなかった。前尾さんは昭和56年に死亡する10日前、私に「福祉社会のため消費税はどうしても必要だ。その時は衆議院事務局の立場を超えて成立に協力するように」と指示した。これが前尾さんの私への遺言であった。

昭和63年に、竹下首相は実に丁寧に国民への理解に努め消費税の欠点である「逆進性の改善」(貧しい人への配慮)福祉目的として、財政赤字のための増税は絶対にすべきでないなど、公正さを主張した。竹下政権の消費税導入の苦難の道程は、拙著『消費税国会の攻防』(千倉書房)を、お読みいただきたい。

10月末に行われた朝日新聞の世論調査によれば、消費税10%への引き上げに反対が71%、賛成は22%となった。そんな矢先の10月31日、日銀は意表を突いて金融の追加緩和を発表した。アベノミクスの失敗を見込んだ景気低迷へのてこ入れだ。それは消費税10%実行へのてこ入れでもある。これで株価を高騰させ、一段と格差を増大させることになる。民衆からは「どん底」の悲鳴が聞こえる。何時まで「危険ドラッグ資本主義」を続けるのか。私には、日本崩壊への地獄の入り口が見えてきた。

○日本国憲法と「国連の集団安全保障」(15)
(自民党単独政権時代の終わり)

平成5年の春「金丸問題の発覚」で、宮沢自民党政権は、政治改革にようやく本気で取り組むことになる。その矢先の4月8日、国連カンボジア暫定機構選挙監視団の日本人ボランティアが銃撃されて死亡するという悲劇が起こった。日本からのPKOが始めて派遣された地域でもありPKOへの批判が少し起こったが国民の大勢は理解してくれた。5月11日にはモザンビークでのPKOに参加する自衛隊の先発隊が出発した。

宮沢政権のPKO参加活動は順調に進んでいたが、問題の政治改革では、共産党を除く野党の結集と、与党自民党内の改革派による攻勢に宮沢首相は立ち往生することになる。国民世論は宮沢首相と自民党の守旧派に厳しい批判を行うようになり、5月末、宮沢首相はテレビ朝日の番組で、田原総一朗キャスターの質問に答えて「この通常国会中に改革を必ず成し遂げる」と、国民に向かって公約した。

ところが、6月に入って自民党の梶山静六幹事長が、経団連の朝食会で、「政治改革は100メートル先の針の穴に糸を通すようなものだ。参議院選挙と同時選挙をやってからだ」と宮沢首相の国民への公約を否定してしまった。野党(共産党を除く)は、「宮沢内閣不信任決議案」を衆議院に、「宮沢内閣問責決議案」を参議院に提出した。同18日、衆議院で宮沢内閣不信任決議案が自民党改革派(羽田―小沢グループ)の35名が賛成し可決されて解散となった。 

政局は激動し、宮沢内閣不信任決議案には反対したのに、かねてから自民党を離れようとしていた武村グループは10名で「新党さきがけ」を結成した。一方、不信任案に賛成はしたが、自民党に残って改革しようとしていた、羽田―小沢グループは「新生党」を結成し、自民党は分裂した。

6月27日、新生・社会・公明・民社・社民連の5党首会談が開かれ、選挙協力と政権交代の合意事項ができた。この5党首会談に、日本新党と新党さきがけは参加しなかった。自民党と連立の二股をかけていた。武村新党さきがけ代表は「カレーライスを食いながら1時間で決めた軽薄なもの」と酷評した。とんでもない話でこれをまとめるのに4日間かかった。その中で最も議論があったのは、「外交・防衛など国の基本政策は、これまでの政策を継承する」との項であった。社会党久保書記長は「それはのめない」と拒否、代替して「政策を尊重する」が限界と主張した。

小沢新生党代表幹事は「これまでの政策を維持する」を譲るなと指示して、私は調整役として苦労した。小沢代表幹事は「外交・防衛で『尊重する』では政権は運営できない。政権を獲ることは責任を持つことだ」と一歩も退かない。そこで「政策を継承する」と表現を丸くして小沢代表幹事を説得した。社会党の久保書記長は納得したが、意図的に社会党役員会に諮らず、「尊重する」を説明してウヤムヤにした。私としては、PKO活動に支障が出ないかとハラハラしていた。

7月18日に行われた総選挙の結果は、評判の悪かった自民党は追加公認を含め228名で、単独過半数を得ることはできなかったが、第一党として善戦した。この総選挙は社会党の一人負けで、誰もが自民党がどこかと連立して政権を継続するものと予測した。ところが予想を違えて奇跡的なことが起きた。小沢新生党代表幹事の活躍で、社会・公明・新生・日本新党・民社・新党さきがけ・社民連・民主改革連合の、8党会派による非自民細川連立政権を発足させた。

8党会派による連立政権は世界的で、ギネスブックもので異様なこと。私が、ここでもさんざん苦労したのは政策合意であった。まとめ役の私にとっては生涯の苦い思い出である。この中で国連やPKOに関する事項を取り出すと、

1)連立政権樹立に関する行為事項では、(ニ)連立政権は、わが国憲法の理念及び精神を尊重し、外交及び防衛等国の基本政策について、これまでの政策を継承しつつ、世界の平和と軍縮のために責任及び役割を担い、国際社会に信頼される国づくりを行う。とし、(五)当面の重要政策課題の(10)に「PKO等の国際貢献」を入れた。

また、「8党派の覚え書き」の中で、〈協議すべき当面の重要政策の課題〉として、(10)国連を中心とする国際平和の実現に取り組み、PKOを含め国連への協力を進める。また、国連改革に取り組む。を入れた。

こうして、平成5年8八月5日に召集された特別国会で、細川非自民政権が誕生し、38年間政権交代なく続いた自民党単独政権は幕を閉じた。(続く)

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