「日本一新運動」の原点(268)ー戦争法案廃案の死角(その3)

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○安全保障法制関連法案を廃案にする〝死角〟がありますよ!3

5月30日(土)夕刻、所用があって柏市のJR柏駅に出かけた。東口の広場で年配のご婦人約50人ぐらいが署名運動をやっていた。「戦争法を成立させてはならない」という訴えで、多くの市民が署名に参加していた。市民の間には「安全保障法制」への危険性が理解され、時とともに拡がり深まっていることを実感した。


衆議院では、5月26日(火)から審議が始まったが、なにしろ二大野党の民主党と維新の党内が、この違憲立法に意見が割れており、政党としての統一した対応がとれていないことが歯痒い。戦後最大の憲法崩壊の危機に、この調子だとこの国に将来はない。本来なら審議に入る前に、「安全保障法制」の違憲性を指摘して、国会提出前に立憲主義とはどのようなことか、国会の権威を冒涜していることに強い抗議活動があってしかるべきだ。主要野党がまとまらないことが国会内で抗議活動ができない理由だろう。

しかし、党がまとまらなくても活動はいくらでもできる。「立憲主義の確立」に政治生命を懸ける国会議員が党派を超えて結集すればよいことだ。

26日の趣旨説明に対する質疑で、民主党の枝野幹事長は「立憲主義を破壊する法案を数で押し切ろうとするなら遠からず歴史に断罪されるだろう」といっているが、法案が成立することを前提にした評論家のような発言だ。数で押し切る安倍首相も歴史に断罪されるだろうが、それを阻止できない側の責任者である枝野幹事長も歴史から断罪されるのだ。

今からでも遅くない。まず「安全保障法制整備関連法案は違憲で廃案とすべき」と思う国会議員が党派を超えて結集することだ。有志が声をかければ100人が結集でき、廃案に追い込むことが可能である。率直に言って違憲立法の阻止を妨害しているのは野党内の柵(しがら)みである。野党内の柵みを解消するために何をすべきか。それは共通のテーマを見つけることだ。「安全保障法制関連法案」の場合、二つのテーマを指摘できる。第一は「憲法九条と立憲主義に違反」することだ。第二は「戦前の軍事国家に回帰する政策」だということだ。

『戦前の軍事国家へ回帰する政治を阻止する議員連盟』(仮称)を結成し、国民運動を盛り上げるべきだ。歴代内閣法制局長官や憲法・政治・社会学者などに呼びかけてはどうか。専門家を国会に招致し、徹底的に意見を聴くこと。与党が国会招致に反対して実現しないなら、議員連盟の主催で議員会館の会議室での『憲法オンブズマン・民間公聴会』を開けばよい。有名人に参加してもらえばマスコミも放ってはおけない。各論ではなく本質論で国民運動を盛り上げるべきだ。

衆議院の安保法制特別委員会で審議が始まり、本質論抜きの各論が始まった。まず問題は、安倍首相が辻元委員に対して「早く質問しろよ!」とヤジを飛ばしたことである。その陳謝発言で、「延々と自説を述べて、私に質問しないのは、答弁をする機会を与えないと言うことである」と言っている。この発言こそ大問題である。

委員会における質疑は質疑委員が自説を述べることから始まる。答弁は質疑者の要求で行われるもので、答弁の権利はない。閣僚は答弁とは別に国会で発言を求める権利を持っているが、これは議長なり委員長の許可がいる。辻元委員は自説だけ述べ「答弁はいりません」という終わりかたもできるのだ。要するに安倍首相のヤジは、議員の質疑権に対する干渉であり、妨害である。院の秩序を乱すものとして「懲罰の対象」とすべきことなのだ。

この他に、所管閣僚の不誠実な答弁も国会始まって以来のこと。これも一定の段階で、集中審議などで徹底的に追求すべきだ。このくらいのことが、野党共闘でやれないようでは、国会は〝脳死状態〟といわれても仕方なかろう。

ところで「あべこべ」という言葉があるが『広辞苑』によれば、「物事の順序や位置が、本来のあり方と逆であるさま」とのこと。何か「安全保障法制整備」の立法化で、立憲主義と憲法のあり方が逆になっている安倍首相の考え方とそっくりである。「あべこべ」に当たる漢字を探したが見つからない。そこで私がお得意とする造語一発。「安倍呼屁憲法」、その意味は、安倍が「憲法」を屁理屈で崩壊させていることである。
(続く)
〇 平成の日本改革の原点 (第11回)
(宮沢政権と政治改革) (1)

平成3年11月5日に宮沢内閣が発足して、自民党内ではまず、衆議院議員の定数是正を先行すべきではないかとの議論が、改革慎重派から出てくる。その一方若手は「政治改革を実現する若手議員の会」を結成し公明党・民社党の若手同調者と提携した活動を始めた。

ところが第122臨時国会の途中で宮沢首相のリクルート疑惑が再燃する。政治改革の動きよりも宮沢首相への追求が野党の主力となる。宮沢内閣は海部内閣から引き継いだ「PKO関連法案」を、衆議院で通過させることが精一杯であった。

平成4年が明け、第123常会召集の直前、宮沢派の元国務大臣・阿部文男が共和事件で受託収賄の疑いで逮捕され、国民の政治不信が再燃する。2月にかけて同じ事件で、鈴木善幸元首相や塩崎元国務大臣の関与が報道され、野党が証人喚問要求を行うようになる。総予算が衆議院を通過したのが3月10日、参議院で成立したのが4月9日と、国会は大荒れとなる。

4月20日には、政治改革に消極的な宮沢政権に圧力をかけるために経済界・学識者・マスコミ有識者・労組幹部による「民間政治臨調」が発足する。この時期宮沢内閣の支持率は33%、不支持率は51%であった。私は、7月の参議院通常選挙で高知地方区から立候補するため、高知県内の有力な自民党支持者へ挨拶回りをしていた。ほとんどの自民党支持者が、政治改革の実現を熱望していた。

5月に入り、細川熊本県知事が日本新党を結成し、政治改革のため7月の参議院選挙に臨むと表明した。6月になると参議院で審議中の「PKO関連法案」などが、大紛糾の末に修正議決、衆議院に回付され成立する。この国会での政治改革論議には、何の成果もなかった。

7月26日に第16回参議院通常選挙が行われ、日本新党が比例区から4名当選し話題となる。私は保守系無所属(自民・公明推薦)で当選できた。翌27日朝、小沢さんに電話して「当選の挨拶回りで、しばらく上京しない」というと、「直ちに上京しろ」とのことで、上京して夕刻事務所で会う。小沢さんとの話は、

「社会党が惨敗して、若手から〝自己改革できないので新しいグループをつくりたい〟と相談があった。離党―新党の可能性がある。情報の収集と取り組み方の研究が必要だ。すぐに動いてくれ」
とのこと。

東京を中心に猛暑のなかを動き回っていた8月22日、金丸自民党副総裁が佐川急便ルートで、5億円の政治献金があったとの情報が入った。朝日BSテレビで、国正編集委員と「政治資金規正法の改革」の議論を中継している時だった。政界は大騒ぎとなり、社会党若手の新党づくりどころではなくなった。

27日には、金丸副総裁は報道を認め副総裁を辞任する。かくして経世会は問題処理をめぐって大紛争となる。10月14日、金丸氏は経世会会長と衆議院議員を辞める。経世会会長の後継者をめぐって、マスコミは「サル山のボス争い」と揶揄したが問題の本質はそんなことではなかった。

日本政治は、昭和52年12月の福田自民党政権以来、田中角栄に繋がる派閥が事実上15年余も支配していた。その経世会が解体的危機に立ったのである。問題の本質は羽田―小沢グループが、経世会を解体的に改革して、政治改革の先頭に立とうとした。これに対して、竹下元首相をバックに梶山国対委員長らは「自民党を潰す気か!」と猛反発した。

10月16日午前、小沢経世会会長代行に呼ばれて、事務所に顔を出すと、「竹下さんは政治改革や経世会のあり方について、僕の話を耳に入れなくなった。平野さんは僕より古い付き合いで、いつも話に出てくる。ひとつ僕の考えを説明にいってくれないか」とのこと。

「小沢の代わりというと竹下さんも話を聞く気にならんでしょう。私も2人のおかげで国会議員になれた。私の意見を申し上げに行く、ということでどうですか?」 というと「結構だ」ということで、竹下元首相に会いに行くことになった。
(続く)

 

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