「日本一新運動」の原点(242)ー幻の新党結成騒動!

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

(幻の新党結成騒動!)

 11月11日(火)の午後、突然、村上正邦元参議院議員から携帯にかかった電話に驚いた。「民主党の若手が野党はまとまって総選挙に臨むべきとのことで、党に拘る執行部の方針に反し、離党して野党超党派の新党をつくる動きがある。亀井静香氏が世話役になっている」とのこと。亀井氏に電話を代わって貰って状況を聞くと本物になりそうな動きだった。「平野さんに生活の党の小沢代表を説得して欲しい」との話。「明日(12日(水)午前中に亀井事務所で会いましょう)となった。
当日、亀井氏の話によれば「民主党執行部の自己中心の選挙体制づくりに反発した篠原孝氏と玉木雄一郎氏が、共産・社民を除く野党有志で、新党をつくりたいとのこと。それに次世代の党の今村洋史氏が相談に乗っている。政策も、新自由主義のアベノミクスに反対し、里山資本主義構想などだ」との話。亀井氏が昨日午前中に小沢代表に説明したが、政党のつくり方について意見の差があったようで、私から、改めて説明と説得をしてくれという依頼だった。

同日午後3時半、小沢代表に会い亀井氏からの話を具体的に説明したところ、「亀井さんから新党結成のメンバーも政策も説明がなく、意図が不明だったので話が中途半端になっていた。玉木君がリーダーとは驚いた。本気なら協力する。玉木君なら保守本流の大平正芳元首相の血筋で、財務省出身のイケメン。これなら政権交代が可能だ」となった。本人と接触することについては、亀井氏との調整があったが、18日(火)に決意を発表するので、長老組はそれを待とうとなった。

その後長老組として情報を共有しいかなる協力体制をつくるか、意見を交換するため15日(土)午後六時に、小沢・亀井・鈴木(宗)・村上・平野・南丘(月刊日本)が集まった。亀井氏から経過説明があり小沢代表から「生活の党として参加協力する」との話。鈴木大地代表から「大地としても協力する」とのことで、支持組織や資金についても話し合った。週が明けて17日(月)の午後には玉木・篠原両氏らの呼び掛けで50名の集会が開かれ、にわかに新党への期待が高まった。

ところが、19日(水)の午後になって、突然、玉木・篠原氏らによる新党結成構想が腰砕けとなった。理由はわからない。引退を表明していた石原慎太郎氏が再出馬することになったので、今村氏が新党参加をやめたとの話が聞こえてきた。その夜、小沢代表と次善の新党をつくる計画を立てて翌20日(木)午後2時、亀井氏と相談したが、時間が足りないことで諦めることにした。亀井氏と会った後、日枝神社の隣りにあるパレロアイアル永田町の村上事務所に、雨の中を報告に寄った。

 〝わびしさや 日枝の坂の 紅葉雨〟

(死に花を 散らすや みちのく 総選挙)

新党結成が白紙に戻り、生活の党では一部の立候補予定者を民主党に移行し、第1次公認候補がまとまる。20日午後9時半頃、帰宅したところに小沢代表から「四国ブロック比例単独で、若い候補者を探してくれ」との要請。翌朝から四国の関係者に要請したが、適当な人材がいない。逆に「故郷に帰って死に花を散らせろ」と、私の戸籍謄本まで送りつけてきた。

小沢代表に「どうしても四国比例から出せというなら、責任を負って、私が出る」というと大慌て・・・・。結論は「北海道と四国は出さない」となった。私も言いだした手前格好がつかなくなり「東京の選挙区2人の下に比例代表3番目として出してくれ。東京から安倍首相の『権力犯罪的政治』を国民に訴える」と要求。そして、事務局から尻を叩かれた経緯もあって「ボケくらべ 慎太郎さまと 総選挙」の川柳を紹介した。

その後もなんだかんだあって、最後に落ち着いたのは「福島原発問題が争点になっていない。これに挑戦してくれ!」との小沢代表のひと言で、東北比例ブロックで出馬を決意した次第である。まさに、『七十八歳にして立つ』(卑猥な意味では決してない?)である。

○消費税制度物語  (1)

安倍首相の「自暴自棄自爆解散」で、12月2日公示、14日総選挙が決まった。解散の大義名分がなくても、「消費税増税」が政治的に利用されていることは事実である。つれづれに考えてみるに「消費税制度」をつくりあげた苦難の道をどれほどの人々が理解しているのか疑問である。この機会に、参考になればと、連載で記してみたい。

お断りしておくが、私は財政、ことに税制の専門家ではない。どういう天命の悪戯か消費税について、2冊の枕のような書物に関係している。『消費税制度成立の沿革』(竹下登・平野貞夫監修、平成5年5月、ぎょうせい)と、『消費税国会の攻防 1987―88』(平野貞夫衆議院事務局日記、平成24年5月千倉書房)である。

前者は原案執筆者が私で、当時は衆議院事務局委員部長であったために実名を出さないことで作業を始めた。原案の検証を石原信雄氏(内閣官房副長官)が引き受けてくれた。監修が元首相の重要な役割であった。ところが皇民党による「ホメ殺し」が行われる時期と出版が重なったため、竹下元首相から「平ちゃん君の名前は出さない約束だったが、参議院議員になったのだから共同監修で名前を出して欲しい。私の名だけでは印象が良くない。それにしても皇民党には困ったよ。毎日毎日のホメ殺しだ。この書物のワープロミスを訂正することに熱中したので、精神的に助かったよ」などの経過があった。

後者は私が昭和60年から日記を付けていたことを知った赤坂幸一氏(九州大学大学院准教授・憲法専攻―当時―)と、奈良岡聰智氏(京都大学大学院准教授・政治学専攻―当時―)が、消費税に関係する部分を校訂・解題していただき刊行したものである。平成24年に野田民主党政権は消費税を10%に増税する法案を準備して、財務省に騙されて民主党内の反対論を切り捨て、最後は自民党の増税派にも騙されて、民・自・公3党合意で2段階の増税と社会保障との一体改革を実現すると公約して法律を成立させた。実現したのは8%の増税だけで、国民が待望した国会議員の定数削減など、身を切る改革は〝政治廃棄物〟と化した。

 平成24年9月上旬、当時民主党政権で国対委員長だった山井和則氏に招かれて懇談した際「平野さんの消費税についての2冊の書物を徹底して勉強しました。お陰さまで消費税増税ができました」と礼を言われて驚いた。実は民主党内が紛糾し始めたころ、民主党に所属する知人に「反対派の勉強会に私を呼べ。消費税導入の立法過程でどんな問題があるのか、直接かかわった私が説明して、増税をさせない方策を提案するので、その機会をつくれ」と何度も言ったが梨のつぶてに終わった。

税制の抜本改革を行うには、20年ぐらい先の世の中の状況を推定して、国民を納得させるため、どんな政策と方策があるか、慎重で大胆な大智恵が必要だ。単純な官僚発想の形式論が通用するはずはない。その点、菅・野田と続く単細胞政権で消費税を倍にする超重大税制改革ができるはずはない。彼らの責任は重大であるが、民主党内の反対派の近視眼抵抗にも、それを阻止し得なかった責任がある。

野田民主党政権が、消費税増税法案を国会に提出するかどうか最終判断した平成24年3月中旬、民主党の城島国対委員長から相談を受けた私は「法案提出を1年間先送りし、まず増税に民衆が耐え得る政策と、国会議員の身を切る改革に着手した後、増税法案を提出してはどうかと話したところ「小沢さんと輿石幹事長との話し合いをしてもらおう」となった。

増税法案が提出された後も、6月にかけて小沢―輿石会談を続けた。野田首相と小沢さんとの会談も数回行った。話し合いは行き詰まり、最後に小沢さんが伝えたのは、「わかった。自分が協力する条件は、消費税増税法案を成立させた後、増税が必要である理由を国民に説明し、公約を破った責任は重いとして首相を辞めることだ」といったが野田首相は「政治責任の重大性」を理解しなかった。11月15日(土)小沢さんは私にこう語った。「これが実行されておれば、民主党は立派な政党として成長できたと、残念でならない。」
(続く)

 

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう