「日本一新運動」の原点(260)

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○沖縄の米軍基地問題の根本を考えよ!

4月5日(日)午前、菅官房長官と翁長沖縄県知事が初めて会談した。昨年秋、翁長知事が辺野古への基地移転に反対する県民の圧倒的支持を受けて当選して以来、四ヶ月のときを経て初めての安倍政権との会談である。これまでも、再三にわたって会談を求める翁長知事への不誠実な安倍政権の姿勢に〝それでも日本人か!〟と、強く抗議しておく。


管官房長官は「国と県が話し合いを進めていく第一歩になった・・・」と会談後に語っている。これに歩調を合わせるように、同日のテレビ朝日報道ステーション・サンデーで、コメンテーターの後藤謙次氏が「「これで両者が土俵に上がった」と評価し、政府ベースの展開に仕立て上げる世論の擦り込みに懸命であった。

翁長知事は会談で、菅官房長官の発言に抗議しているが、私にとっては涙が出る思いだった。「沖縄県が自ら基地を提供したことはない。私たちの思いとは全く別にすべて強制接収された。『お前たち、代替案を持っているのか』と。『日本の安全保障をどう考えているんだ』と。こういった話がされること自体が日本の国の政治の堕落だ」(朝日新聞4月6日付朝刊)と。まさしくその通りだ。普天間から辺野古問題に至る沖縄県民の苦悩は、「日本政治の堕落の歴史」によるものに間違いはない。

何故こういう事態になったのか。それは平成9年の沖縄基地継続使用の特別措置法改正案の国会審議で、時の梶山官房長官が政治生命を賭けて、沖縄基地の県外移設をやろうとした歴史を梶山静六を自らの師と自称する菅官房長官が知らないことによる。知っていてこのような態度を続けるなら、我が師への冒涜といえる。

(沖縄基地問題の混迷は、自民党が新進党との合意を反故にしたことが原因だ!)

何故、私がここまで断言するのか。それは平成9年に沖縄基地問題をめぐり、梶山官房長官と小沢新進党党首の激論の中でいかにして問題を解決するか、非公式に合意文書の作成に関わったのが、当時の与謝野官房副長官と新進党党首補佐役の私であったからだ。この経緯については、読売新聞(平成9年4月5日・朝刊2面2頁)に詳しく解説されている。関心のある方はご覧いただきたい。

平成9年といえば、朝鮮半島での緊張が続き、「自社さ」橋本政権は安全保障問題でしばしば窮地に立った。その最大の問題が沖縄特措法改正案の国会審議であった。与党である社民党が反対で参議院での否決が確実されていた。当然、野党との提携が必要であった。当時の民主党は態度を決めきれず、新進党の小沢党首と橋本首相の会談で合意ができ、決着することになる。

 小沢党首の主張は、
1)安全保障は国の責任であることを明記すべし
2)沖縄基地の移転縮小は、法律をもって国の責任を明らかにすべし 
3)社民党・さきがけ両党から離れて新進党と政策協議して合意すれば協力する。ということ。

橋本首相は「1)については了承 3)は自民党内を説得し、9月の内閣・党人事改造で実現する 2)は法律の制定は無理」との回答であった。梶山官房長官は自民党内で反対する加藤紘一・山崎拓氏らの説得に当たる一方で、2)についての妥協案をつくるべく、小沢党首に「平野を貸せ。与謝野と二人で智恵を出させる」とる。

そこで私が与謝野氏と会い、「沖縄の基地使用にかかわる問題は、県民の意思を生かしながら、基地の整理・縮小・移転などを含め、国が最終的に責任を持つ仕組みを誠意をもって整備するものとする」などを提案して合意した。この文意は、平成9年9月には「自社さ」政権を解消して、自民党と新進党の協力で普天間基地を県外に移転させる、との密約があった。

移転先については、小沢党首と私の腹案は細川政権時代に共産党以外の各党が推進していた「PKO訓練・国際貢献センター」の候補地、地元も誘致運動をしていた高知県西南地域であった。その後、自民党がこの「橋本・小沢合意」を反故にしたため沖縄基地問題を解決する機会を逃したのである。

(辺野古問題は米国と再交渉すべし!)

今日の国際情勢は、平成9年時代とは大きく変化している。普天間基地を辺野古に移す合理的理由は無くなっている。
 その根拠は、
1)米国政府内は世界戦略について、国防省とCIAが対立するなど複雑である。沖縄基地問題は県民の意思を説明すれば、米国側に理解する政治家や有識者もおり再交渉の余地がある
2)日本政府が辺野古へ強行移転する背景には、麻生政権時代の日米合意した時期に、埋め立てなど石材業者が利権がらみで暗躍していたことを私は知っている。〝高知県の石材業者を紹介してくれ〟との依頼を受けた記憶がある。政治家がらみの疑惑話も聞いた。その後始末の〝強行移設〟とは思いたく  ないが・・・・ 
3)安倍政権が何が何でも辺野古への基地移転を強行する理由に、法と行政で決まっていることを根拠にしているが、議会民主政治では「法と行政」は絶対ではない。それは健全な民意が支えてこそ正当化できるものだ。東アジアの緊張を少なくするためにも、米国内でさえ評判の悪い、アメリカンハンドラーからの決別をすべきだ。

〇 平成の日本改革の原点 (第5回)
(小沢自民党幹事長の覚悟)

海部首相のさわやかさで内閣支持率も回復に向かった平成元年8月24日、山下徳夫官房長官の女性問題が報道され後任に森山真弓氏が決まった夜、小沢幹事長から赤坂の〝浅田〟に呼ばれた。公明党の権藤恒夫衆議院議員も一緒で、小沢氏が議院運営委員長時代(昭和58年12月~同60年12月)、権藤氏は理事、私が衆院事務局の担当課長で、3人は何かと馬が合い竹下首相から「兄弟のようだ」といわれた仲であった。

会談の要旨は、

〇小沢 私が幹事長になったのは、ポストを求めたのではない。竹下さんは反対したが金丸さんから強く言われたからだ。国際 情勢も変化し、自社55年体制で政治をやれなくなった。大変化の時代だから引き受けた。これからもよろしく頼む。
〇権藤 わかった。
〇平野 これまでのように個人的意見を言うわけにはいかない。与党の幹事長だ。
〇小沢 自民党には、僕の考えをわかる人は少ない。なんとしても自民党を改革したい。言いたいことがあれば、今言ってくれ。
〇平野 政治改革が大事だと言って『政治改革大綱』をつくっても放りっぱなし。解党的改革をしないと、国民から見捨てられますよ。
〇小沢 このままなら、2年に1度、派閥のボスは捕まるだろう。僕は、総理になるためのカネ集めをする能力はない。総理になるつもりもない。自民党の解党的出直しをしたいのだ。もし、それができないなら、自民党を潰す。国家国民のために必要なのだ。ぜひこれからも相談に乗ってくれ。

田中角栄・金丸信・竹下登らが肥大化させた自民党を潰そうという話だ。この小沢幹事長の真剣な話に、私は後に引けなくなり、小沢一郎さんとのつきあいは天命だと腹を固めた。私にとっては人生の岐路となる夜だった。

9月25日、衆議院事務局の人事異動で国会運営(委員会中心主義)の現場責任者である委員部長に昇格した。副部長から7部ある筆頭の委員部長への昇格は明治以来初めてで、こんな異例な人事は官僚組織としてはあってはならないこと。参議院が野党多数の国会では年令順とか出身大学名など通用しない状況であった。

ベルリンの壁の崩壊を機に、東欧の社会主義国は次々と体制を移行させた。そんな中、小沢幹事長は、伊東正義・自民党政治改革本部長・後藤田正晴・同本部長代理に説得を続けた。その趣旨は「リクルート事件により選挙制度の改革を行う最後のチャンスがきた。さらにベルリンの壁の崩壊である。日本が責任ある政治を行うためには、派閥解消をいくら叫んでも駄目だ。選挙制度を改革して、政権が交代する仕組みを作らない限り、日本の政治は腐敗を続ける」というものだった。

伊東・後藤田両氏は納得し、11月末自民党政治改革推進本部は「選挙制度改革要綱」を発表した。その内容は小選挙区比例代表制を柱に、政治資金の規正、政治倫理の確立など「政治改革要綱」を実現することであった。年明けに予定されている衆議院総選挙での公約とした。

12月2日、地中海のマルタ島で、ブッシュ米大統領とゴルバチョフソ連書記長による米ソ首脳会談が開かれ、東西冷戦を終結させた。国際情勢の激変は、わが国の政治に大きな影響を与えた。冷戦で支えられていた、日米安保体制の見直し、バブル経済に浮かれた日本人の驕りをどう反省するのか、課題は山積していた。

小沢幹事長が最初に要請したのは、「日本が明治時代に議会制を導入して以降、世界政治の大変動によって日本の政治構造がどのような影響を受けたか調査してくれ」であった。調査の結果は「世界で政治が大変動した時、わが国では政党再編が起こる」ということであった。(続く)

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