「日本一新運動」の原点(257)ー平成の「日本改革の原点」 

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観
○ 〝小沢政治塾15周年〟の記念講義
3月16日(月)、日本青年館で開催された〝小沢一郎政治塾〟で「平成の『日本改革』の原点」と題して講義をした。その要旨は「小沢塾長を中心に行われた平成改革の原点を確認して、その過程で実現した改革の評価と、実現に至らなかったために生じた諸問題を検証する」と、大見得を切ったのだが、分かり易く言えば諸々の裏話であった。敢えて強弁すればものごとの原点や本質はその方が理解しやすい、と私は思う。

安全保障と政治改革について、私が直接関わった問題の裏話が主であるが、安全保障でいえば、小沢自民党幹事長の発想による「国際平和協力に関する合意覚書」(平成2年11月・自公民3党によるPKO合意)の立案過程の裏話と、四国西南地域に「ジョン万次郎記念国際貢献PKO訓練センター」の設置で、沖縄の基地一部移転を構想し、自社公民の賛同と地元自治体の誘致決議もあったが、自民党国会議員の利権による妨害や、自民党執行部の不誠実が重なり実現しなかった経緯を話した。これが現在につながる〝辺野古問題の悲劇〟の原因であると論じておいた。

政治改革については、時間の制約もあり、用意していたことを十分に話することはできなかった。竹下首相がリクルート事件の責任をとって退陣するとき、自民党で党議決定した「政治改革大綱」を、3回の国政選挙で公約しながら、その実現を自民党自身がつぶした経過も説明。その後非自民細川連立政権を成立させて、一部ではあったが改革を実現させた苦労話をし、このとき、政治改革の形だけの法制度はつくったものの、並行して日本の政治は劣化し始め、政権交代をぎこちなくできるようになった途端に、現在のような議会民主政治を忘れた国会となった原因も論じた。

塾生の質問もそこに集中し、私自身の反省もこめて『日本の議会制度は英国をモデルにしているが、宗教的背景もあり、日本には、英国のように、健全な議会政治を支える文化が未熟である』と答え、私たちの〝改革論〟が上からの目線であったとしこれからは『民衆の魂を共鳴させる』活動が必要であると結んでおいた。

講義の枕で「政治塾での講義は5年ぶりだ。私も歳だから次の5年があるかはわからない。従って今日の講義は私の遺言と理解して欲しい」と話を始めた。会場には塾生に混じって政治塾OB、元・前議員など口さがない人たちもいて、終わった後の雑談で、「ずいぶんと元気溌剌・意気軒昂な〝遺言〟でしたね?」との評を頂戴した。

(民衆の魂を共鳴させた海舟・万次郎・龍馬)
逆順になるが、3月6日(金)の夕刻、墨田区内のホテルで開かれた「柳家海舟改名・真打ち昇進」披露パーティーに顔を出した。私は数年前に、勝海舟顕彰会から依頼され『勝海舟』という唄を作詞していた。廣田健史会長の発想で、海舟と改名して真打ちに昇進した記念に自分が唄う「勝海舟」のCDを出すことになり、その発表会でもあった。

勝海舟といえば、万次郎に草の根デモクラシーを教わり、龍馬を指導して徳川幕藩体制を改革しようとしたことで知られている。3人に共通するのは出自が庶民で、江戸の下町の人々と縁が深く、そして星を信仰していたことだ。星信仰といえば妙見信仰である。それは「民衆の福寿が国の安寧をつくる」という思想である。現代では『国民の生活が第一』ということになる。

東京の下町にはいまは忘れられた妙見信仰の面影が遺っている。「柳家海舟」といえば、姓も名も妙見そのものである。落語の、「柳家」といえば、亀戸にある「柳妙見」と深い関係がある。「勝海舟」といえば、本所の「能勢妙見」に命を助けられたことで知られている。性が柳妙見、名が能勢妙見という大変な改名である。本人も気づいていないが、パーティーに参加した人たちも知らない。

実は江戸時代まで日本の全国の民衆は、神仏混合の中、妙見北辰という信仰で心理的安定を保っていたと私は推察している。明治維新による〝近代化〟で忘れられたようだ。否〝廃仏毀釈〟として排除されたともいえる。「民衆の福寿」を実現するためには「民衆の自立と共生」が必要である。現代の日本で「国民の生活が第一」の政治が実現しないのは、民衆側にも問題がある。

新しい民衆のための妙見運動が必要である。パーティーの帰り、JR常磐線で「スカイツリー」を見て気がついた。「これが現代の妙見・星信仰のシンボル」だと。そこで『スカイツリーは星の宿』の詩が浮かんだ。「すみだの夜空 妙見星光る 民衆(たみ)の福寿を護る星・・・・」。7月20日、海舟記念行事で発表の予定だ。

○平成の日本改革の原点(第2回)
(昭和天皇の崩御)
消費税制度の導入を成功させた直後の竹下首相は、長期政権を展望しながら、昭和63年12月27日、内閣を改造した。リクルート事件の余波が残る同月30日、就任したばかりの長谷川峻法務大臣が、リクルート社から政治献金を受けていたことが報道され辞任した。竹下首相は、昭和64年の年頭会見で「政治改革元年」を宣言するなど、盛んに国民の気を引く活動を行った。

1月7日(土)の早朝、衆議院議運委院長室の土田君から「天皇が危篤」との電話で、直ちに自宅を出発した。地下鉄丸ノ内線の国会議事堂前駅を出たところで、官邸の弔旗が見えた。天皇の崩御を知り弥富事務総長らと国会の諸準備について協議に入った。

最初の問題は、共産党が本会議に出席して、弔詞に反対する方針を決めたことだ。委員部副部長の私が、事務総長の指示で東中議運委員を説得に行く。共産党は「憲法上、弔詞奉呈を行うべきでない」ことを理由にしていた。全国民の弔意に水を差すことになる。本会議を欠席することで対応してはどうか」と進言。共産党は幹部会が了承して収まった。

もうひとつの難題は、自民党から「弔詞奉呈の本会議で黙祷をすべきだ」と、議運理事会で突然提案が出された。与野党議論になって収まらない。私が提案者の耳もとで「神様に黙祷となると失礼になる。拝礼となると一礼二拍手で宗教行事になる」と囁くと、「何故早く言ってくれないか」と文句をいう。常識のない政治家はいつの時代にもいるものだ。元号は7日午後2時半『平成』と決まった。

(天皇の崩御で起こった心理的退行現象?)
1月末になると天皇崩御の行事が一段落する。とたんにリクルート事件が再燃する。原田憲経企庁長官がリクルート社の政治献金問題で辞任する。1ヶ月に2人の閣僚が辞任することで、竹下政権は窮地に立った。竹下首相から「政権運営に率直な意見を欲しい」との連絡があり、メモを届ける。『昭和天皇の崩御で国民全体が心理的退行現象発生し、竹下政権に霧がかかっている状態になった。これに対応するには理屈や数字といった意識の世界の発想では解決しない。また、竹下政権を支える人たちの心理状態が、無意識層から意識層に流れるエネルギーの不調が目立つようになった。

竹下首相がいくら地方創生を叫んでも、国民はバラマキ政治としか受けとらない。政治改革を唱えてもリクルート隠しとしかとらない。総理が政治生命を賭けているという実相を示し、国民がそれを魂で受け入れる情況をつくってこそ、政権運営が安定するのだ。「大喪の礼」が終わったところで、ぜひ出雲の故郷に帰られ、先祖の墓参と故郷の山川の霊と心理的に交流することを薦めます。総理の無意識をパワーアップする方法です。故郷の自然や先祖の墓参は、必ず何かを教示してくれると思います。』 との「まえがき」で、当面の政治改革について、実現できない綺麗事より政権政党たる自民党として、実現可能な党改革を国民の前に具体的に示し、実行すること。

そして例えば、1)自民党国会議員の資産公開 2)自民党内に政治倫理委員会の設置 3)パーティーによる資金集めの自粛 4)候補者を公認する際の倫理審査などを挙げておいた。

(平成元年2月7日、私の日記より要旨)
2月16日から衆議院予算委員会の総括質疑が始まり、野党側は中曽根前首相の証人喚問と竹下首相の政治資金パーティー疑惑などを追及し、総予算の衆議院通過の見通しがつかなくなった。私が進言した「竹下首相の故郷の先祖参り」も実行できなかった。そんな中、中曽根前首相と竹下首相の対立をめぐり、自民党内は熾烈な抗争が始まる。竹下政権の総主流派体制が崩れ窮地に苦境となる。
(続く)

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