もともとはマルキストであり、「共産主義というなの宗教」、「マルクス主義と宗教」などを著したロシアの哲学者・ニコライ・ベルジャーエフ(1874ー1948)はマルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン主義を批判、否定したことはよく知られている。こうしたいわゆる「共産主義」体系の批判は跡を断たなかった。共産主義は無神論・一党独裁・権力独占を帰結する、近代社会の「鬼っ子」である。その中から誕生したのが、英国での社会改良主義や特にドイツを中心に欧州で誕生、普及し、定着した社会民主主義である。

社会民主主義については、WikiPediaに次のような解説があるが、あながち、的外れではないだろう。

1914年の第一次世界大戦勃発と各国の社会民主党が自国の戦時体制を支持したことによる第二インターナショナルの崩壊後(「城内平和」)、各国の社会民主党から左派が分離し、ロシア十月革命の影響によって生じたボルシェヴィキとの繋がりから新たに共産党を名乗る一方、右派は引き続き社会民主党を名乗った。ここにおいて修正主義、民主社会主義、社会改良主義の流れを汲むものが「社会民主主義」と呼ばれるようになり、革命主義的マルクス主義としての「共産主義」と対比されるようになった。

「民主社会主義#社会民主主義との関わり」も参照
第一次世界大戦から第二次世界大戦に至るまでの間、解散した第二インターナショナルの流れを汲む社会民主主義者とソ連系の第三インターナショナル(コミンテルン)への帰属意識を表明する共産主義者は、険悪な関係にあることが多かったが、最終的に、第二次大戦後の社会主義インターナショナルによる1951年の『フランクフルト宣言』[1]では、『民主的社会主義の目的と任務』が採択され、議会制民主主義に立脚した修正主義的、非ソ連型の民主的社会主義の路線を採ることを明確にした。

戦後は、東西ドイツに分割された状況下で、ドイツ社会民主党は激しい党内論争の結果右派が勝利し、1959年に『バート・ゴーデスベルク綱領』[2]を採択し、プロレタリア階級を基盤とする階級政党から西ドイツ国民の国民政党に脱皮、社会民主主義が同党の公的方針となった。また、フランス社会党も1971年の『エピネ宣言』の採択などで、同じく社会民主主義政党に脱皮を遂げた。現在の社会民主主義思想や政策は、西欧ではドイツ社会民主党の『バート・ゴーデスベルク綱領』及び、フランス社会党の『エピネ宣言』以降定着した。

欧州の社会民主主義政党は、1962年の『オスロ宣言』[3]で共産主義と完全に決別したが、日本社会党は左派の反対で採択に参加せず[4]、1966年に綱領的文書『日本における社会主義への道』でプロレタリア独裁を肯定するなど共産主義政党と類似した主張を行い続けた。1986年に至って『新宣言』を採択しマルクス・レーニン主義を放棄はしたが、その後も綱領には「社会主義革命」の文言は残った。

1989年にドイツ社会民主党は、緑の党の進出などエコロジー意識の高まりなどに強く影響された『ベルリン綱領』を採択。20世紀初頭のフォルマル思想や社会地域中心主義などにも目が向けられるようになった。

ところが、日本ではこのような意味での社会民主主義は定着していない。日本の場合、理論的には明治維新をめぐって、ブルジョア革命とする「労農派」と絶対主義体制の確立とみる「講座派」の対立から、前者を基盤とする日本社会党、後者を理論的支柱とする日本共産党が誕生し、それぞれ、一段階革命と二段階革命を主張した。これは、史的唯物論では「国体=天皇制」を解明できなかったからである。

その後、日本社会党は自民党との馴れ合い政治を行い、国民の支持を失って徐々に崩壊して実質的に消滅した。「社会民主党」が存続しているが、理論的な深さはない。一方、二段会革命を党是とした日本共産党は民主主義革命、次いで社会主義革命という路線を党是とし、この線に沿って戦後の現代経済学、政治学を着用し、よりましな政権として「民主連合政府」構想を打ち出し、欧州で定着した社会民主主義路線を突き進む形になっている。しかしながら、社会主義革命路線を放棄したわけではない。

このため、無神論の強要や民主集中制(意見を異にする党内政策集団の存在を認めない)、一党独裁、立法、行政、司法の権力独占(三権分立)、株式市場制資本主義経済体制の否定は捨てていない。このため、国民や他の健全な野党(民進党や希望の党などは「ゆ党」でしかなく、自公政権の補完勢力)との連携が出来にくくなっている。

日本共産党の理念・政策・歴史についての記述は今後の課題とするが、資本論の研究で知られる不破哲三前常任幹部会委員長や志位和夫委員長は、「日本型社会民主主義」を打ち出す必要に迫られている。

 

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