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生活の党・小沢一郎代表の憲法論(総論)


来る7月21日投開票の参議院議員選挙の最大の争点は、憲法96条の「改悪」をテコに、憲法の改悪を許すか否か、が最大の争点である。自公+みんな+維新+腰砕け民主が参院で三分のニの多数を確保すれば、96条の「改正発議要件」を緩和することをきっかけに、必ず憲法が改悪され、日本の経済社会は民主主義社会とは無縁の統制経済社会体制に移行する。アベクロノミクスの破綻による経済社会の悪化は必至なだけに、これは必然的である。そこで、憲法の在るべき姿について、関係各位の了解を得て、日本の政治家でもっとも理論面、実践面で詳しい生活の党の小沢一郎氏の試論(サイト管理者は正論であると理解する)を紹介させていただくことにした。厚く御礼申し上げるとともに、憲法改悪阻止の一助となれば幸いである。

憲法の改正論、憲法審査会でもいろいろと始まるということですが、私がいつも申し上げておりますのは、旧来の護憲、改憲の決まりきった論議というのは全くとは言わなくとも、あまり意味がないと思います。これから話しますが、憲法は私たちがより幸せに、より安全に生活するために、共同体のルールをみんなで定めたものでありますので、必要ならば変えればいいし、必要でなければそのままでいい、ということだと私は思っています。

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まず憲法9条がどうの、何がどうのという前に、憲法の本質、基本的な理念、今日近代法に至る歴史的な経過、そういうことをわからないで議論していても、議論はいいものにはならないと思います。

中世・古代に遡る必要はないのですけれども、国家というのが、特にヨーロッパ世界で、現在の国家と似たような形をとってきたのは近世の絶対王政の時代なわけですけれども、この時代は国家の、共同体の、統治権と言ってもいいし、支配と言ってもいいのですけれども、その権力の依ってくるところは、王が(権力を)天から、神から授かったものだ、という、王権神授説という当時の論理に支えられて、(王は)それ(統治、支配)を正当化していたと言われております。神様から与えられた権力ですから、一般国民、人民、庶民は関係ないということになっていたのが近世の絶対王政の時代であったと思います。

そこから血なまぐさい革命を経たところもあるし、少しずつ少しずつ、市民のあるいは商人であったり地主であったりしますが、力が強くなって、民主主義へ向かって既成の事実を積み上げてきて、ほとんど流血の革命なしに民主主義を作り上げてきたのがイギリスの歴史であります。典型的なのはフランスのブルボン王朝からフランス革命。みなさんご承知のことでありますが、この論理は王権神授説と呼ばれるものから、いわゆる社会契約説という思想に裏付けられたものであって、それが市民革命につながった、ということであります。

この社会契約説、社会契約論で日本でも知られておりますのは、ジャン・ジャック・ルソー『民約論』。中江兆民が明治時代に『民約論』の解釈論を出しております。明治時代は天賦人権論という言葉もありましたが、とにかく社会契約論という中で、新しい近代の市民革命と市民国家になってきたということであります。

この社会契約論が何かといいますと、社会共同体国家、これはそれを構成する個人個人が、自分たちの自由な意思、自由な議論によって合意を得て共同体国家を作り、もちろん国家を作れば憲法等ルールが必要になりますから(憲法が)できたという議論であります。個々人が自分たちで話し合って、その結果の結論が国家であり、国家共同体を規制する憲法以下の法律になりますから、結局それは個々人が最終的な判断、権限を持つ、いわゆる国民主権の原理になるわけであります。そういう意味で国民主権というのは、近代の市民革命の時には、社会契約論的な考え方に裏打ちされて、絶対王政から新しい近代の国家へ移ってきたということです。

だから今、日本国憲法の理念という時の根本は国民主権ですけれども、国民主権とはそういう考え方のもとで、国家というもの、共同体が形成されたのであるからして、その決定権があるのは国民、人民であると。すなわち主権者は国民だ、という考え方になるわけでありまして、その共同体、国家と、構成する人民、国民が自分たちの生活を守り、よりよくするために作った最高の法規が憲法ということになります。それで憲法のもとでいろいろな原理原則に基づいた法規が作られていく、ということになるわけです。

さらに社会契約論の個々人、個人個人が、独立した個人個人が意見を交換して合意を得る。そして共同体を作り上げる、ということの、その個人に焦点を当てて掘り下げてみますと、それは個人の意思表示の自由という本質の原則に突き当たる。自由な意思表示を個人個人が行って、そしてそれをみんなが合意してまとめる。本質の問題は自由な意思表示ということが最前提であり根底にあるわけです。

それが誰かによって誘導されたり強制されたりしたのであっては、自由な市民、自由な国民の意思の表示とは言えませんから、従ってそれは国民主権というわけにはいかない。あくまでも人民がそれぞれの意思に、自由な意思に従って自由な議論の結果ルールを作る、ということになるわけであります。ですから、そのことを原理的な側面からのみ追求、切り口をそこにあてていますと、鈴木幹事長がいつかの時に、私(小沢代表)の論文の中に憲法無効論の話がある、と言いましたけれども、これは純粋憲法法律的に言うと、という前提での話でございます。なぜかと言いますと、これは安倍晋三さんも彼自身論理矛盾だと思うのですが、占領下だから変えなければならないのだ、占領下だからどうだと。それでは日本国憲法はどうなのだというと、いや、いいところは残せばいいと。では占領下でもいいところはいいと言えばいいではないか、という話になって、ちょっと論理矛盾するのではないかと僕は思いますけれども、それは別問題として、自由な意思表示をできる条件、環境の中での意思表示でない限り、それは無効で効力を持たない、というのは当然の帰結になります。

フランス憲法、ドイツのボン基本法、ここには憲法の明文として、「第3国の占領下において作られた憲法をはじめいろいろな法規制度はすべて効力を有しない」という規定があります。これは彼らがしょっちゅうやったりやられたりしていましたから、負けて占領されているときに相手方がやったことは認めない、ということなのですが、簡単に言えば。少し難しく理屈を言えば、自由な意思表示が制限されている状況において作られたものは、約束としての効力を持たない、ということなのです。

だからその意味で日本国憲法を、占領下にあったからという理屈を立てると、これはフランス第5共和政憲法、ボン基本法の条文が示す通り、占領下での日本国憲法ですから、無効ということになります。効力を有しないということになるのですが、もちろん法律論と同時に、実態社会で果たしてそれを理屈で押し通すことがいいかどうかということについては別問題でありますが、法律的にはそういうことになります。これはいわゆる契約自由の原則という近代法の根本の前提条件であります。


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