「日本一新運動」の原点(252)ー憲法9条の下でも米軍撤退は可能

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○日本一新運動・新年会報告 (3)
新年会における私への質問2)は「戦後日本を考えると『すべての軍事力と交戦権を放棄した憲法9条』と、『人類史上最大の攻撃力を持つ米軍の駐留』という矛盾を内包したまま国家権力構造が確立した。護憲派の『9条を守れ』の主張だと、永遠に米軍を撤退させることができないが、どう思うか」というものだった。

(憲法についての直近の世論調査)

2月1日(日)の朝日新聞に、興味ある世論調査が載っていた。『憲法について』で昨年暮れの総選挙の立候補者と有権者を対象としたものだ。

それによると「憲法改正」について、有権者の33%が賛成、(9条・31%)、当選議員の84%が賛成(9条・19%)とのこと。憲法9条の理念を変更する改正には、有権者では3分の2以上が反対だ。当選議員の80%近くが反対である。自公の当選者に慎重な意見を持つ議員があるためだろう。安全保障の優先順位についての調査では、有権者も当選議員も圧倒的にまず「米国」である。これを見ると日本人の多数は、憲法9条と米軍駐留の矛盾を抵抗なく受け入れ、それが惰性化しているといえる。

沖縄をはじめ基地問題を抱える地域にとっては許せない問題だ。となると、戦後70年の日本の安全保障を検証する必要がある。敗戦直後、平和憲法の制定時は「国連憲章」のユートピア思想が、世界規模で〝瞬間的〟に存在した。しかし、米ソ冷戦が始まると共産圏からの侵略と国内で武力的に革命を行うという政党や勢力が安全を脅かした。米国は平和憲法を越えた防衛体制を強要してくる。講和条約・日米安保条約で独立した日本には変化が起きる。それは、共産圏から日本を護るために憲法9条を改正して、再軍備を行うべきだと主張する保守右派の岸信介グループだ。米国の国家戦略は共産圏対策のためこの勢力を支援する。

米国追随といわれながら、占領から講和独立を成し遂げた保守リベラルの吉田茂は岸グループの動きを戦前の軍事国家への回帰とした。昭和29年暮れに衆議院解散か、吉田自由党内閣総辞職かを迫られたとき、吉田首相は「軍事国家への芽を摘むまで辞めない」と反発する。世論は、長期化した吉田政権から離れていた。その吉田首相を説得したのが、従兄弟で腹心の林讓治であった。「国民を信じましょう」と。これは林讓治本人から、私が直接聞いた話だ。吉田退陣後、鳩山・石橋・岸と政権が続く。社会党など革新派が勢力を伸ばす中で、保守合同により「自由民主党」が憲法改正を党是として結成される。かくして昭和32年に成立した岸内閣は、憲法改正と日米安保条約改定を公約し、前者は実現せず、後者は成功した。この時期、米国では日本について対立した意見が出る。

日本を軍事的に強化すると戦前回帰の政治になるとの意見と、共産圏に対して強い防壁にすべしとの意見である。岸内閣の安保強行改定後、米国では日米安保体制を共産圏への対抗だけではなく、日本の戦前軍事国家への防御として位置づけるようになった。かくして米軍の長期駐留と憲法九条の妥協が固定化する。

これでは我が国の真の独立は永久にない。だがしかし、憲法9条のもとで米軍の駐留をなくする方策を考えた政治家がいた。小沢一郎氏である。きっかけは平成元年12月の米ソ冷戦終結で、毎日のように私は議論に巻き込まれた。冷戦終結から湾岸戦争に至る国際政治の構造変化の中で、当時の自民党幹事長・小沢一郎はこのままの混乱が続けば、西暦2020年までに国連を改革強化して、国連警察軍を創設して世界の秩序を維持する仕組みをつくらないと世界は大混乱になるとの意見。現在の中東問題を予言していた。日本の国権の発動とならない、自衛隊とは別組織の国連の指揮下で活動する〝国連警察隊〟を設置し自衛隊は国内の災害・治安などに専念するという構想だ。

また、PKO訓練センターを日本につくり国連への協力を行い、そこには各国からの国連協力隊に参加してもらうとの発想もあり、米軍基地は順次撤退していくということであった。歴史とは不思議なもので、現在米国オバマ政権が一番に警戒しているのが反米テロであり、2番目は日本の戦前回帰である。最近では、米国の「安保マフィア」の心配もそこにあるとの声が聞こえてくる。

○ 消費税制度物語  (11)
(税制改革協議会と竹下内閣成立)

国会の裏話には、その国の政治文化の特長を物語るものがある。「売上税関係法案の廃案」は自民党国会議員が人間の心情を大事にしようとする「縄文型」と、人間を論理で規制しようとする、「弥生型」で争われたことに気づいた私は、次のような怪図表をつくってみた。

             官 僚 政 治
帰化人・騎馬民族    帰化人・徳島忌部族    吉備族
   ↑            ↑         ↑ 
天津神(中曽根首相) 国権派(後藤田官房長官・宮沢大蔵大臣)
   ↓
  出雲族(竹下幹事長)
   ↑
国津神(金丸副総理) 民権派(原衆議院議長)
     ↓       話 合 政 治
↑  原日本人      
     ↑
須佐之男命(小沢一郎)

この怪図表を某記者に渡したところ、おもしろがって国会全体にばらまいてしまった。これを手に入れた後藤田官房長官が「徳島忌部族」を見て怒ること、怒ること。記者懇談会で「今回の売上税法案をめぐる事態の収拾で、原議長や竹下幹事長に対し役職のない人間(小沢一郎)や、議員のバッジをつけていない人間、(弥富事務総長や私)が影響を与え重要法案を廃案にしたことは、議会主義に反する」と発言した。

この記者懇に出ていた記者から「後藤田さんは相当に怒っていた。報復があるかも知れないので、気をつけろ!」との注意があった。その後報復はなかったが、平成16年、私が参議院議員を引退するとき「小泉首相が一番嫌がる質問をするのが平野だ。引退するな!」と、後藤田さんからの伝言が届いた。褒められたのか、貶されたのか未だにワカラン。

もうひとつ最大の難題は、竹下幹事長が中曽根首相を説得することであった。「言語明瞭意味不明」を得意技とする竹下さんを心配した金丸さんの提案で「説得の練習」をすることになった。小沢さんが中曽根さんの代役で、私が書いたシナリオでリハーサルを何回もやった。同席した弥富事務総長と私は、笑うこともできず、日本の議会政治の現実を噛み締めていた。

昭和62年5月25日税制改革協議会が発足する。座長に自民党の伊東正義氏が就任した。協議は順調に進まず、野党は減税先行を主張し自民党はマル優など「利子課税制度の廃止」の先行を主張し対立が続いた。妥協の見通しがつかなくなり、竹下幹事長が苦境に立った。竹下さんは小沢さんに公明党の説得を要請する。そして私に「一郎は平野君に相談すると思うので頼むよ。ただ、私には結論しか報告しないので、君から状況を教えてくれ。ワシも心配なんだ・・・」と。この時、竹下・小沢の微妙な関係が何となくわかった。

8月に入って税制論議を促進させるための与野党国対委員長会談が不調となる。同月4日頃、小沢さんは公明党の盟友・権藤恒夫衆議院議員と二見伸明副書記長を向島の〝波むら〟に招き私も参加して4人で協議を始めた。このとき私が竹下幹事長に会合の場所を教えた。竹下さんから「赤坂の〝満賀ん〟で待っているから、一郎に必ず報告させてくれ」と厳命があった。4人の協議は30分で終わった。冒頭、小沢さんは「国と地方併せて2兆円の減税を先行させる」と先手を打った。

権藤・二見両氏は「それなら矢野委員長を説得して社会党を引っ張り込む。8日までに幹事長・書記長会談をやるようにする」と話はすぐ決着した。その後は、飲めや唄えの大騒ぎとなる。午前0時すぎ、竹下さんから、〝波むら〟の座敷にいる私に電話があった。「誰からの電話だ」と小沢さん。「竹下さんからだ」と私が応える。「誰が教えたのか」と怒り出す。「私が教えた。小沢に報告させてくれと頼まれていたことを忘れていた」というと、「そうだ、竹下さんに報告に行くよ。ありがとう」とまことに素直であった。

この協議が「減税とマル優等利子課税の廃止」について、7日の幹事長・書記長会談を合意させた。9月に入り「マル優国会」が召集され「国と地方税で2兆円の減税が実現し、税制改革の入り口となる。税制改革協議会は税別の直間比率の是正を引き続き協議することになった。これで竹下幹事長はポスト中曽根を確実なものとし、消費税導入への道を歩むことになる。10月20日、中曽根自民党総裁の裁定を受けて竹下幹事長が自民党総裁に就任。11月6日召集の第110臨時国会で竹下内閣が成立した。
(続く)

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