日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

(歴史を知らざる者は本当の人間では無い!―金子堅太郎)

異常な猛暑が続く一方で、短期集中豪雨が各地を襲っている。誌面を借りて、被災地の皆さんには心よりお見舞い申し上げます。日本の政治指導者たちの不快な言動がとまらない。よけい暑くなる。それでも、日々、日本一新の会事務局から届く報告に勇気が湧く。誠実に日本を考え世界を考え、人間を考えている人たちが「このままではダメだ。何かしなくては!」と、自ら動き始めているからだ。

そもそも政治とは集団行為であり、政治家ひとりで活動できるものではない。政党はそのためにあるわけだが、ここで政党を論じるつもりはない。それなりの政治家には、それなりの有識者がブレーンとして、さまざまなアドバイスをしている。政権を担当する政治指導者の場合、各省庁という組織に支えられているが、側近とか有識者のブレーンの役割は大きい。

安倍総理や麻生副総理の言動が、しばしば問題になる。両氏の祖父や、父親から知っている私としては、個人の思想や識見など無関係で、歴史の進歩を妨げようとしているグループに操られている犠牲者だと思っている。

このことを前提にして、どこに問題があるかを考えた場合、政治指導者の有識者ブレーンの資質にあると思う。それは、知識はあっても思想が欠如していることだ。そこで明治憲法を創ったブレーンたちが、どんな思想を持っていたかを伝えておきたい。

〇憲法夜話 5)伊藤博文の側近、金子堅太郎の思想!

明治憲法が、天皇絶対の欽定憲法であったことは時代の制約によるものであり、今の私の立場で批判するつもりはない。大事なことは事実上の制定作業にあたった開明有識者の、ものの考え方・思想を知ることだ。

憲法夜話3)で、明治憲法発布の直後、伊藤博文の側近たちが、伊藤の地方官会議での演説を批判して「大臣の責任は法理上は天皇にたいして負うとしても、実際上は議会を通じて国民に負わなければならない」と、喧嘩をふっかけたことを紹介した。彼らの識見はどんな思想から学んだのか、金子堅太郎の例をみてみよう。

金子は嘉永6年(1853)、福岡藩士の家に生まれる。奇しくもペリー来航の年だ。修猷館(藩校・現福岡県立修猷館高等学校)に学び、論語を得意とした。明治の初め岩倉使節団に同行し、明治9年ハーバード・ロウ・スクールに入学。帰国後、東京大学予備門の教員を勤めた後、元老院に出仕し、各国の憲法の調査にあたる。明治18年には伊藤首相の秘書官となり、憲法などの起草に参加する。明治23年初代の貴族院書記官長となる。貴族院議員に勅撰され、伊藤内閣の農商務大臣や司法大臣に勅任した。大正・昭和初期にかけて「維新史料」や「明治天皇記」などの編集事業に参加し、昭和17年5月に89歳で死去した。晩年の金子堅太郎は日米開戦を憂慮していた。

明治憲法は国民の国会開設運動によって導入されるが、明治政府はその準備を迫られたもうひとつの理由に、不平等条約の改正問題があった。欧米諸国はその条件に、近代憲法に基づく議会制度を導入することを強く要請していたからだ。

議会制度がキリスト教文化で成り立つことを知っていた金子たちは、著名な宣教師を招いて学ぼうとした。ところが、正統派のキリスト教宣教師たちは、日本の文化をまったく評価せず西洋文化の優位に固執した。日本の関係者は困り果て、金子たちが考え出したのは、他宗教や異文化に寛容で理解のあるユニテリアン教会なら、物真似でない日本の真の近代化に役立つと期待した。

「ユニテリアン信仰」とは、正統派キリスト教徒が信じる三位一体を否定し、神の唯一性(Unity)を信じる人々(Unitarian)だといわれている。万人救済を教義とし、人類愛や隣人愛を主張する。異教徒間の文化活動に積極的で、自由と理性と寛容を重んじ、権威への盲従を嫌う。歴史的には、西暦325年の宗教会議で決定した「三位一体説」に反対し、キリストを神の子と認めない人たちを発祥としているため異端視されていた。

信者として知られているのは、ラルフ・ワルド・エマソン(米 思想家・詩人)、ウォルト・ホイットマン(米詩人)、アイザック・ニュートン(英 物理学者)、ベンジャミン・フランクリン(米政治家・科学者)、トーマス・ジェファーソン(米大統領)、チャールズ・ダーウィン(英生物学者)、フローレンス・ナイチンゲール(英看護婦)である。

日本人の信者第一号は、幕末に漂流して米国捕鯨船に救助され、米国で教育を受けたジョン万次郎(中浜万次郎)が、正統派教会から排除され、ユニテリアン教会の信者となる。帰国後、英語と西洋事情を幕末の若者たちに教えるなかで、ユニテリアンの精神を伝えている。

明治時代になって、欧米との交流が自由になると、ユニテリアン信仰に関心を持つ有識者が多くなる。矢野文雄(郵政報知新聞副主筆、改進党幹部)が、英国滞在中に興味を持ち、明治20年頃教育界や言論界に拡げる。政府内部では、森有礼が米国公使のとき、ユニテリアン思想を知り、その合理性、人類的発想と実効性を評価して、日本への導入を考えていたといわれる。

政府高官でもっとも強い関心をもっていたのは、金子堅太郎であった。ハーバード大学に在学中にユニテリアン思想を知った。明治11年(1878)、東大の教員になった頃、ハーバードで同窓のフェノロサが東大で哲学、理財学を教えることになり親しくなる。

フェノロサ教授は、エマソンの「東西文化の融合」を研究テーマとし、東洋の高い文化を西洋に伝え、エマソンやホイットマンの全人類救済主義の夢を実現しようとした。仏教に改宗するが、ユニテリアンの支援は続ける。金子堅太郎はフェノロサ教授から大きな影響を受ける。明治22年(1889)、日本で議会政治を翌年から発足させる時期、議会制度研究のため米国を訪問する。ボストンの米国ユニテリアン教会本部で、「現在の仏教は腐敗していて望みはないが、最高形能の仏教とユニテリアン主義は変わらない。ユニテリアン教はどの国よりも日本で未来がある」と、講演している。

明治20年前後、ユニテリアン思想に関心をもったのは、金子堅太郎だけではなかった。福沢諭吉のユニテリアンにかける思いは普通ではなかった。明治21年にはボストンからナップ宣教師を呼び、慶應義塾にユニテリアン思想を教える神学部をつくることを構想していた。

この時期、ユニテリアンの協力者は、東大総長の外山正一、加藤弘之、『自由の理』の著者中村正直、副島種臣、杉浦重剛らの政治家・学者、そして文学界の幸田露伴、北村透谷らであった。

明治憲法や議会制度準備し発足させた明治20年前後の有識者たちの、国や社会、そして人間を思う感性と努力、その思想哲学は、高く評価すべきである。金子堅太郎は、議会政治に「自由と理性と寛容」を期待していたのだ。彼の思想と行動を、現代の有識者たちはどう感じるだろうか。アベノミクスのブレーンたちの顔をテレビで見ると、人間に対する思想や哲学を持っているとは思えない。マネーゲーム資本主義のマフィアで、人間の歴史を知らない類人猿の顔だ。

さて、明治時代の日本でのユニテリアン活動は、日清戦争を機に急速に醒めていく。それは日本の資本主義が、排他的所有欲を持つ人間によって支配されることで始まった。彼らは歴史を忘れ、歴史を無視することで、欲望を果たそうとする。

私の手元に金子堅太郎が83歳の時、母校『修猷館』で講演した要旨がある。21世紀の今日こそ、肝に銘ずべき真言である。

『歴史というものは、国の将来を指導するものである。歴史は再び繰り返す。歴史を知らん者は必ず誤る。歴史を知れば即ちその人の精神も確かになる。歴史を知らず日本の将来の政治をしようとした所で、それが良いものではない。歴史は即ち将来を導く為の力である。歴史を知らず国勢を左右しようとか、国を発達させようというた所が、それは一生役立たぬ。あなた方は歴史を知らずして政治家になっても、実業家になっても何の役にも立たぬ。歴史を知らざる者は本当の人間では無い。』
(了)

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