明治維新は、日本が近代化を出発するための開発独裁体制(経済発展の為には「政治的安定」が必要であるとして、国民の政治参加をある程度制限し、政府による上からの近代化を正当化すること。また、そのような政治運営を通して達成した経済発展の成果を国民に分配することによって、支配の正当性を得る体制のこと。アジア諸国の近代化路線を政治的に述べるとこうなる)を築いたことにとどまる。

このため、明治維新以降の過程で、立憲民主化運動が起こり、今日に至っている。民主化あるいは資本主義市場経済体制の確立については、講座派から独立した大塚久雄の大塚史学に詳しいし、その元祖であるマックス・ウェーバーらを紐解く必要がある。これについては、ウェーバーの「辺境革命論」を再掲したい。

ところで、今回問題にしたいには、民主主義・憲法を守るとしている日本共産党が、あいも変わらず党綱領で、「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」と記していることである。

現代資本主義市場経済体制では、経営権を保証する株式制度が中心になっている。生産手段を「社会化」するというのも具体的にはよく分からないが、強権を発動して株式を取得する以外に不可能であろう。仮に、株式制度を廃止するとなると、スターリン型の「社会主義社会」しか思いつかない。これは、林道義が「スターリニズムの根源」で指摘したように、「古代化社会主義(古代統一国家、経済的にはオイコス経済、家産官僚制度)」への大反動でしかない。これはまた、日本国憲法に定められた「第29条 財産権は、これを侵してはならない」に著しく反する。

国民がこうした日本国憲法の「改正=壊憲」を承認するとは思えない。とすれば、やはり「暴力革命」しか思いつかないが、これは誰がみても不可能である。暴力革命を取り続けてきた新左翼各派が雲散霧消に近い状態になっていることをみても明らかである。あの、中核派でさえ、東京都杉並区を拠点とし、選挙に専念している。ということで、日本共産党は唯物史観や唯物論、資本主義崩壊論などは捨て去り、バート・ゴーデスベルク綱領などを参考にして、社会民主主義政党に「自己止揚」なのである。

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