日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

〇憲法夜話 8)明治憲法での初めての衆議院解散と選挙大干渉
「市民が国家=資本家を監視するのが、市民革命以後の民主主義なのでしょうけど、20世紀末以降になると、高度に発達した株主資本主義によってその基本前提が崩されています」 これはエコノミストとして知られている水野和夫氏の発言だ。(『資本主義という謎』大澤真幸氏との対談、NHK出版新書)正しい歴史観である。最近のわが国の議会民主政治を、この視点で分析するとよくわかる。


いくら秀れた議会制度を持っていても、21世紀の劣化・変質した資本主義によって、本来の民主政治が機能しなくなることを、水野氏は指摘している。この問題を少しでも解決するためには、歴史に学ぶしかないが、明治の議会政治発足時の政治状況が参考になる。

(初めての衆議院解散) 第1回議会は、薩摩と長州を中心とする「藩閥政府」対自由党や改進党を中心とする「民党」の対決であった。藩閥政府は、明治憲法下の第1回議会で、まったく想定外の「予算修正」で敗北した。民党は板垣退助(自由党)が大隈重信(改進党)を訪ね、ますますの協力団結を相談した。板垣が土佐藩、大隈が肥前藩で、かつての薩長土肥が分裂した形になった。

第2回議会は、民党の団結という藩閥政府にとって都合の悪い状況で始まった。松方内閣は海軍の整備を中心に予算案を提出したが、議会は削減の議決をする。さらに、私鉄買収や鉄道整備費のための公費支出法案を否決。頭にきた海軍大臣・樺山資紀は衆議院本会議で「薩長政府とか何政府というても今日国家の安寧を保ち、四千万生霊(当時の日本の人口)の安全を保ったということは誰の功であるか(笑声罵声)。お笑いになるようなことでは御座いますまい」と“藩閥政府擁護論”をぶった。

これを民党は「蛮勇演説」として糾弾した。議会対策に失敗した松方首相は、明治24年12月25日、「議会が憲法を勢力競争の愚と為し、其の国運を発達するに於いて殆ど慎重の顧念を欠くものの如し」と、天皇に奉請し、明治憲法第七条「天皇は衆議院の解散を命ず」により、初めての衆議院解散となった。

松方首相が奉請した「議会が憲法を勢力競争の具に為し」とは、まさに議会政治の本旨であるが、当時の藩閥政治家はこのことがわからない。民党では当然の行為と毅然と政府を追及する。これが明治議会政治のスタートであった。

(わが国の選挙不敗の原形は内務省が作成!) 明治23年7月1日に行われた初回の衆議院総選挙(戦前の制度は、任期満了等定例の選挙を“総選挙”と呼称し、解散後の選挙を“臨時選挙”と呼称していた)は、政府の選挙干渉はなく、平穏に行われた。しかし、第2回目の衆議院臨時選挙は、藩閥政府が議会での民党の抵抗に遺恨を持ち、徹底した選挙干渉を行うことになる。

内務大臣・品川弥次郎は、内務事務次官・白根専一を総指揮とし、地方長官(官選知事)を集めて訓示した。趣旨は、第一議会以来、政府に反対してきた議員に対抗しうる有力者で、政府に賛成する者を候補者として選び、地方官はこれを応援すること。政府に反対する議員の立候補に対しては、当選を妨害することなどであった。

品川内務大臣の選挙干渉の特徴は、1)投票の前日に、民党派の候補者を告発し、その情報を選挙区に流布。2)選挙の当日、民党派の選挙人が投票所へ行くのを妨害する。警察官はこの妨害を取り締まらず、それを援助。3)投票の買収。4)巡査の戸別訪問。5)取締り営業者に対する警察官の勧誘。質屋・料理店などの営 業者に政府党候補者に投票するよう勧誘。6)国費の配布を口実にした勧誘。土木費などの支出に手加減を  加える利害誘導。7)法律を乱用して有識者を告発。民党候補者の選挙文書の印刷・配布を出版条例違反として告発。等々である。

わが国の国政選挙における「腐敗選挙」の方法が、政府側、即ち選挙を管理する内務省でつくられたことに注目したい。120数年経った今日、このノウハウは消滅するどころか、益々進化しており困ったものだ。

巨大メディアなど広い意味での権力による選挙干渉は、現在の方が悪質かもしれない。国政選挙ではないが、平成25年8月の民主党代表選挙で、財務官僚が同党国会議員に対して「消費税増税導入論の野田佳彦候補に投票すれば、選挙区の予算を優先してつける」と誘導した話は、多くの人が知る話だ。このことひとつをみても、現代の官僚支配の問題は深刻だ。

(内戦の惨状となった選挙干渉) 松方内閣は明治25年1月28日、選挙取締りのため「予戒令」を、天皇の勅令で制定した。狙いは民党の手足となっている壮士をを取り締まるもので、彼らの集会への出入りを制限したり禁止するものであった。「壮士」とは、自由民権運動を起源に、政治を志す青壮年のことである。

民党派の強い地方では警察官と政府党系の壮士が武力干渉まで起こし、全国が流血の惨状となった。最も惨状をきわめたのは、自由党の発祥地・高知県であった。私の故郷である高知県幡多郡三崎村も、政府の選挙干渉で死傷者が出ている。

何しろ、明治13年に国会期成同盟が全国で集めた約8万7千人の請願のうち、高知県下で集めた数は約4万8千人、約56%の数にのぼっていたところだ。

松方内閣、品川内務大臣の選挙干渉は、薩長出身の調所広丈を高知県知事に、古垣兼成を警務部長に任命し、その下にわざわざ鹿児島から鬼刑事といわれた中摩速衛をつれてきて、高岡郡の郡長にすえた。警察官や送り込んだ政府党系の壮士による悪質な選挙干渉に対して、民党の壮士や住民が抵抗し、高知県下の各地方で刀や槍、鍬や鎌で実力行使となったため、内戦状態となった。あげくの果て、軍隊が大砲を放ち民家を焼き払うという惨事となり死者10名におよんだ。

高岡郡長として選挙干渉の指揮を執った中摩速衛氏は、この時の状況を後日、次のように語っている。「内務大臣の命令で政府党たる国民党の候補を当選せしむべく、勧誘に干渉に全力を尽くせとの内命があり、知事からたくさんの金を渡された。ところが(高岡郡下)誰一人として金を受け取る者がないのみならず、却って激高して反対の熱が高まるので手のつけようがなくなった。

そこでやむを得ず腕力に訴え警察官などをして乱暴を働かせ、到る所けが人をつくった。然し、土佐人はなかなか屈服しない。いよいよ反対の気勢が強くなり遂に政府党の敗北となった」(『高知県選挙史』より) このほか、佐賀県で8名、福岡県で3名、石川県で2名、熊本・群馬県で各1名、総合計25名の死者を出した。負傷者は1府17県で388名に及んだ。これらの数字は政府発表であり実際の数字は数倍に及んでいる。

選挙の結果は、民党派に痛手を与えた。しかし、厳しい選挙干渉にもかかわらず、163名の過半数を制した。政府擁護派は中立も入れて137名であった。選挙が終わるや、干渉に対する批判は、民間のみならず政府部内からも起こり、「選挙干渉問題」として政治問題となる。

100年も昔の選挙干渉や腐敗問題を私がしつこく述べたことに異論のある方もいると思う。率直に言って私は、麻生自公政権以後、わが国の議会民主政治は最悪の事態を辿っていると心配している。民主党政権に交代しても、菅および野田政権は「小沢問題」にみるように、現職国会議員の政治指導者を犯罪人に仕立てようと謀った。120年前の選挙干渉よりも数倍悪質である。

安倍自公政権に戻り交代し、資本主義がマネーゲーム化し、政策を強化するなかで、巨大メディアが社会の木鐸であることを放棄した現代、日本のデモクラシーは危機状況にある。(了)

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