日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○日本国憲法と「国連の集団安全保障」(2)

 平成12年に、護憲の神様と称された加藤周一氏と私が、参議院憲法調査会で「国連の集団安全保障」について議論した要旨は前号のとおりだ。評価・批判は会員諸兄にお任せする。 但し、14年前の国会ではこのような真面目な議論ができていたことだけは承知しておいて欲しい。

 さて「加藤VS平野」論戦の一致点は、「国連の集団安全保障への参加は必要」ということだった。その上で加藤氏は「日本の民主主義の伝統のバランスが弱いので、軍備は急がないほうがよい」という意見であった。私は、この質疑の半年前に起こった「森自公政権」の出現など憲法冒涜政治を目の当たりにして、日本の民主主義の定着を悲観していた。それでも政治家のリアリズム感覚から「集団安全保障と憲法9条の関係」を整備しておく必要があると、当時は考えていた。

(日本の民主主義の実態をどう考えるか!)

 議会政治を採用する国でもっとも大事なことは、国会自身が民主主義のレベルをチェックすることだ。ところが、日本国ではほとんどそれがない。理由は加藤氏がいう「土着の世界観が普遍的な外来文化を日本化する」という、日本人のナシクズシ政治文化の特徴にあるだろう。

 平成10年だった。参議院の公職選挙法特別委員会で、私が上杉光弘自治大臣に「日本は民主主義の国と思うか?」と、挨拶代わりの質問をぶつけたところ、大臣は「そんな難しい質問は、事前に通告してもらわないと・・・」との迷答弁で委員会室は大笑いに包まれた。まことに正直な答弁ではあるが、これでは困る。

 日本の国会議員で普遍的な議会政治の原理を知っている政治家、知ろうとしている政治家は、数人しかいないと私は思っている。自分を正当化する技術に秀でた官僚肌や、弁護士などの専門家は、原理を知ろうとせず、形式論理の悪用を得意とする。その挙げ句の果てが、安倍自公政権の「集団的自衛権の行使」という閣議決定による解釈改憲である。

 護憲派と称された加藤周一氏と私が「国連の集団安全保障」と「日本の民主主義の歪さ」に共通した認識を持ち、14年という月日が流れた。そして、今日の議会政治崩壊状態になるまで何があったのか。わが国で起こった民主主義破壊の事例を、反省的検証で総括しなければわが国の民主主義の再生は不可能だ。
 この14年間に、わが国で、日常的に起こった議会民主政治破壊行為の中から3つだけ選ぶと次のようになる。

1)郵政改革法案の参議院否決を理由とする衆議院解散の違憲性。

 これはよほど憲法を読み込んでおかないと理解が難しいと思うがあらましを説明しよう。参議院が衆議院と異なった議決をした法律案について、憲法第59条は、「衆議院での再議決」とか、「両議院の協議」などと定めている。再議決とか両院協議において衆議院が内閣の方針に従わない場合に解散権を行使できるのである。小泉首相は参議院否決の直後、閣議を召集して表題の理由により衆議院を解散した。憲法の両院制を冒涜した違憲解散であった。小泉首相の解散権乱用を放置した衆参両院議長や、両院事務局の責任は重大である。

2)政治権力が民主主義を冒涜し、捏造した事件で被告人とした「小沢一郎排除問題」(平成21年から同24年)

 この問題は、再三私の意見を述べたので、ここでは専門家の意見を借りよう。
 小沢氏の主任弁護人であった弘中惇一郎氏は「刑事弁護レポート」という論文集で「妄想から始まった事件は実在しなかった」と断定し、「東京地検特捜部は、被告人に対し、ゼネコン等から違法な金を受け取ったのではないかという根拠のない『妄想』を抱いて、収賄の嫌疑をかけ、大規模な捜査を行ったものの、結局、嫌疑を裏づける証拠を得ることができず『敗北』した。その後の被告人および秘書をターゲットとした政治資金規正法の事件は、その残滓である。

 残滓であるとは、一つには、本件が特捜部の想定した収賄事件としてではなく、収支報告書に関する政治資金規正法違反という形式犯としてしか起訴できなかったということである。残滓であることのもう一つの意味は、検察官が想定したゼネコン等からの不正な金銭収受が存在しないことが、本件(政治資金規正法違反事件)が成立しえないことを明らかにしているということである。

 検察官は、法律の専門家としての判断は『嫌疑不十分―不起訴』であったにもかかわらず、検察審査会に対しては、被告人に関する嫌疑は十分に存在するかのような田代検事作成の報告書を提出するなどして、検察審査会に起訴議決を行わせた。これは大規模な捜査を行ったものの収賄事件の立件に失敗した検察官が、それによる批判を受けることを恐れ、検察審査会を欺いてまで被告人の起訴を確保しようとしたものと理解される」と結んでいる。大規模な捜査とは、全国の検事を総動員して、20億円を超える無駄遣いをしたとの見方がある。

 これだけいえば、くどくどと説明は無用ではないか。小沢氏は実在しなかった事件で被告人とされ、当時、誰もが信じて疑わなかった小沢総理の目を潰され、国民的損失は計り知れないものがある。政治に〝もし〟は許されないが、民主党が政権を担い、そこに小沢総理がいたならば、次に提起する問題は起きなかったし、消費税増税、特定秘密保護法、集団的自衛権行使の解釈改憲など民主主義から逸れていくことはなかったと確信する。この間国会は傍観的態度で終始して、議会民主政治の危機との認識を示さなかったことが最大の問題である。

3)菅・野田両民主党首相の国民主権冒涜と政治不信の噴出(平成22年6月~同24年)

民主党政権に交代して鳩山首相にも問題があったが、国民主権を冒涜することはなかった。菅首相は就任直後「議会政治は期間を限った独裁主義だ」と、ヒットラー紛いの放言をした。その後は、官僚の手のひらの上で踊る政治家となり、消費税増税への道を開いた。大震災・原発事故における棄民政策が国民の反発をかい、退陣に追い込まれた。

続く野田首相は自民・公明と談合し、消費税増税を強行成立させ、国民生活を窮乏させた。違憲状態である衆参両院の選挙区定数の是正を放置し、狂気の解散を断行し、国民の政治不信を噴出させて、民主党は惨敗した。総選挙での自公圧勝と、今日の「一強多弱体制」は野田民主党政権の置き土産である。 

以上が、加藤周一氏と私が14年前に「日本の民主主義の歪さ」を共有して、日常的に問題のある中で代表的な事例を採り上げた。少なくとも、この三事例に対する国民的総括が必要である。とりわけ、2)の「小沢一郎排除問題」は、今日もマスメディアでは続いている。自民党権力が仕掛け、民主党政権が総仕上げを担った議会政治の根本原理に対する背信を、国民挙げて総括することが、わが国の民主主義再生の鍵である。

(ロイター通信が確認した小沢氏の「普通の国」と安倍首相の「積極的平和主義」の違い)

7月22日(火)、ロイター通信社は小沢一郎生活の党代表のインタビューを東京から世界に向けて発信した。その全文を手にして25年前を思い出して驚いた。「かつて主張した〝普通の国〟と、安倍首相の主張する〝積極的平和主義〟の根本的違いは何か」との質問に明快に答えていた。要約すると、

1)(平成初年頃)日本は特殊な国で普通の人の仲間入りはできないという話が、軍備を大きくし右翼の大国主義というイメ ージで伝えられた。安倍氏は、「戦前の五大強国といわれた軍備を持つべきだという、戦前回帰的イメージを抱いている」がまったく違う。

2)私は「自立と共生」を唱えてきた。安全保障であれ何であれ、自分のことは自分でするのが当たり前のことだ。それ以上の世界の平和維持・紛争解決は、国際社会の共同の中で解決していく。国連を中心にして解決する、こういう理想で日本国憲法はつくられている。日本はその理想を追い求めるべきである。安倍氏が自分のことは自分でというのは、戦前の軍事大国としての日本をイメージしている。

3)今度の集団的自衛権の問題も、集団であれ個別的であれ自衛権に変わりはない。国連憲章にも定められているし、自衛権を持っているのは当然だが、憲法第9条によって、日本が直接攻撃を受けた時でない他の国の紛争について、自衛権の発動は認められていない。集団的自衛権について憲法第9条の解釈で行使できる余地はない。安倍氏がやりたいのなら第9条改正を発議するのが筋道だ。私は国連の平和活動には日本協力すべきだという意志は一貫して変わりはない。

 

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