日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

(『古狸』が『猪』に招かれた!)

8月9日(土)の午後、『プロジェクト・猪』という変わった名前の団体に招かれて話をした。テーマは「小沢一郎の近況を知りたい」とのこと。要するに、悪口を唯一の得手とする事務局が名づけた〝古狸〟が〝猪〟のお招きをうけたわけだ。この方々は団塊の世代で全共闘活動として矛盾の世の中を糺そうとした人たちで、平成の時代になって憂国の志を生かそうと猪年の人たちが呼びかけて結成した会だ。ひと周り上の猪年である〝古狸〟の私に声がかかり、小沢さんの近況に加えて、安全保障論を議論した。

会場は、千代田区にある『日本テレビ通り』の近くにある「自治労会館」だった。通称「日テレ通り」は10年ぶりである。参議院議員時代には近くに宿舎があり、毎日のように馴染んでいた。また、若かりし30歳代の、昭和41年からの2年間、日本テレビの三軒隣りにある、衆議院副議長公邸の秘書公舎で苦労を重ねた思い出もある。町並みの激変に時の流れを思い知った。「日本テレビ」と言えば、嫌な思い出があり、『プロジェクト・猪』の話はこれを枕にした。

平成7年の初夏、新進党時代だった。熊谷弘衆議院議員の誘いで、日テレのVIP用レストランに行くと、読売新聞社社長と氏家齊一郎日テレ社長が待っていた。最高級のフランス料理を馳走になって、「小沢一郎に協力するな・・・・」と口説かれた。

話の途中で小沢さんから電話が入り、この話は吹き飛んだ。人生の恩師、林讓治・前尾繁三郎両先生から聞かされていた渡辺恒雄氏の手口を思い出したことなども話題にした。『プロジェクト・猪』メンバーの意見は、マスメディアへの痛烈な批判で「20年前から腐っていたのか」だった。
 
次の話題は「西松・陸山会事件で小沢一郎を排除した日本社会は、妄想から始まった実在しない事件だったのに、何故反省がないのか」との怒りだった。

○日本国憲法と「国連の集団安全保障」(3)

「猪の会」には秀れた弁護士さんが出席していた。国際連合の成立について詳しく、「集団的自衛権は不戦条約の理念を無視してつくられたもの」と発言し、敗戦後のわが国の安全保障のあり方が議論となった。丁度「メルマガ・日本一新」でそれを採り上げていることを紹介し学生時代のゼミを思い出し私の解説となった。

以下、旧号と重なる事項もあるが、いま、巷間で語られている安全保障論に登場しない事柄であり、かつ、わが国の根幹にも関わることなので、改めて記しておきたい。

(南原繁東大総長が最初に提起した「国連の集団安全保障」への参加論)

国連が発足したのは1945年(昭和20年)10月24日、日本の降伏を待ってのスタートである。国連憲章の前文冒頭は、「われらの一生のうちに2度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、・・・・」と決意を述べている。さらに「国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないこと」を誓っている。これを受けて憲章第7章に「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」を設けている。

この中に、「集団安全保障」と「集団的自衛権」の仕組みが規定されている。「集団的自衛権」については、これまで何度も論じているので、誤解の多い「集団安全保障」を解説しておきたい。

敗戦国となった日本は、国連が発足した昭和20年10月と同じ時期に、占領軍から「憲法改正の要請」を受ける。政府、政党、民間学者などが、新しい日本をつくる憲法草案を発表するようになる。最終的にはGHQのイニシアチブでまとめられ昭和21年6月20日吉田内閣によって「帝国憲法改正案」として第90回帝国議会に提出された。改正草案は、国連憲章の理念を継承した憲法草案だと世界から評価された。衆議院と貴族院の審議を経て、同年10月6日成立し、11月3日公布され翌年の5月3日施行された。

「憲法改正案」の審議で、第9条(戦争の放棄)と「国連の集団安全保障」の関係について、議論したのは東大総長で、敗戦後に貴族院議員となった南原繁氏であった。南原氏は内村鑑三や新渡戸稲造の影響を受けたクリスチャンで戦前戦後を通じ平和と共生の政治哲学者として活躍し、丸山真男氏らを育てた重鎮であった。講和条約関係で吉田首相の単独講和に反対し、「曲学阿世の徒」と名指しで批判を受けたことで知られている。

「憲法改正案」審議での吉田首相とのやりとりの要点は次のとおりである。

○南原貴族院議員 戦争の放棄を規定する第9条は評価する。わが国が第2次世界大戦で多くの国や人々に迷惑をかけた責任は大きい。日本が国連に加盟する際には憲章を誠実に護らなければならない。その時、積極的に世界の平和維持や困った人を助けるなど、人道的な活動に参加しなければならない。

国連には警察機構とか常設軍ができるだろう。加盟すれば、参加して役割を果たさなければならない。その時、憲法9条との関係をどうするのか。改正するのか、改正せずに対応するのか。

○吉田首相 現時点で明確な答弁はできかねる。国連加盟の時期の国際情勢にもよるが、基本的にはその時の国民がどう考えるかによろう。

南原繁東大総長が、何故、この議論をしたのか。まず、人道主義者の立場であること。そしてこの時期、国連安保理では常設軍の設置について盛んに議論が行われていた。日本国憲法が施行される翌年の5月頃には、米ソの対立で国連常設軍の設置はほぼ絶望的となる。とはいえ、南原東大総長のこの問題提起の意義は大きい。

第2次世界大戦が終わり、世界中が期待した国連も発足して2年足らずで世界平和の番人としての役割に限界があることがわかった。そして米ソ冷戦が深刻化するにつれ、国連の機能は困難を極めていく。唯一、1950年(昭和25年)の朝鮮動乱の時、安保理が国連軍を設置できたのは中国の代表権をめぐって、ソ連が安保理をボイコットするという偶然で、変則的な事情があった時である。ソ連代表が安保理に戻ると、拒否権により米ソ冷戦に関係する問題は機能しなくなる。

国連は苦渋の中で、総会の機能を強化して役割を果たそうとする。各地の紛争で米ソ対立の少ない問題に対して停戦監視や初期の平和活動(PKO)などを行うようになる。本格的な国連軍による集団安全保障といった活動は空文化していく。一方、米ソ冷戦でブロック化していく現実の国際政治は、憲章51条の「集団的自衛権」の行使が中心となる。米ソの代理戦争を国連憲章が激化させるという皮肉な現象が頻発するようになる。

(日本が国連に加盟した時の論議)

日本は1951年(昭和26年)の秋に講和条約の批准を完了する。前文には国連に加盟する意思を表明しており、この時期、政治論議として鳩山一郎・岸信介らのグループは、再軍備のための憲法改正を主張しており、国連加盟申請の内容が政治論争になることはなかった。もっぱら外務省事務当局が憲法制定時の論議を踏まえたGHQとの調整であった。

前述した南原繁東大総長の「国連加盟のとき、平和維持活動などに参加すべきだ」という論だけではなかった。憲法改正審議の際、幣原喜重郎元首相(貴族院議員)は「国連加盟の時、第九条について留保をつけ、国連の軍事活動に参加すべきでない」との発言をしていた。そのための調整である。

この時、事務当局の責任者であった西村熊雄条約局長は、昭和35年8月、政府の憲法調査会で次のように述べている。

(要旨)
「国連憲章第七章の〝平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動〟の規定は、憲法九条の関係で実行できない国際的義務があるので、留保する必要がある」として、GHQ側と調整して、9条と書かず「日本政府は、その有するあらゆる手段で国連の義務を遵守するが、日本のディスポーザル(自由に使える手段)にない手段を必要とする義務は負わない。軍事的協力の義務は負担しないことをはっきりさせ、提出した」。

西村元条約局長は、この憲法調査会で留保したのに昭和35年時代の外務省は忘れていると警告している。当時は岸首相による安保改定が行われた直後だった。その後、湾岸戦争(平成2年)で海部首相は「留保はなかったと考える」と他人事のような発言をし、後藤田元官房長官は「9条の範囲内での協力を留保条件とした」と明言している。「国連の集団安全保障」と憲法の関係は、米ソ冷戦が終結し、湾岸戦争で初めて与党自民党の小沢一郎幹事長によって位置づけが行われる。 
(続く)

 

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