日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○デモクラテレビ〝永田町風雲録〟!(続)

 前号に続いて〝永田町風雲録〟第二部「戦後70年を考える」の議論を紹介しよう。出演は第1部出演の3人に加え、特別ゲストとして成田憲彦駿河台大学教授で、元同大学長を歴任された人物だ。冒頭私は「成田教授の人生を変えたのはこの平野である。誠に申し訳なかった」と、お詫びとともに50年にわたる成田教授との親交を紹介した。私が衆議院事務局職員から参議院議員に転じたのは、政権交代のための政治改革を実現するためで当時の成田氏は国会図書館調査及び立法局の議会政治課長で、与野党の改革は議員のブレーン役であった。


細川非自民連立政権が樹立したとき、細川総理秘書官に参議院議員となっていた私を起用することが構想された。ところが、内閣法制局が国会議員の兼職禁止を盾に猛反対を主張したことから、私の親友である成田氏に、細川総理秘書官に就いてもらうことになった。成田氏とは、お役目を果たした後は国会図書館に復職するとの約束があったが、政治改革の成功に怒った自民党が復職を妨害し、やむなく駿河台大学に勤めることになった。脇道に逸れず、国会図書館に在職していれば、プロパーの国会図書館館長、第1号になれた人物である。

(安倍首相の年頭所感の矛盾と危険性!)

毎年、新年になると天皇をはじめ。首相や衆参両議長等が国民に所感を発表するのが慣例だ。元旦の新聞で要約された安倍首相の所感を読んで、矛盾と意味不明さがあったので話題にした。前半は例年通り「先の大戦の深い反省のもとに、戦後、ひたすら平和国家としての道を歩み・・・・・」と正当な所感である。ところが後半になると「私たちが目指す国の姿を、この機会に世界の国に向けて発信し、新たな国づくりへの強いスタートを切る。そんな1年にしたいと考えています」とあった。

 どういうことかと質すと、早野氏が所感の全文を持っていて、結語は「日本を、再び、世界の中心で輝く国としていく。その決意を、新年にあたって、新たにしております」であった。成田教授ともども私たちは、「これには特別の意味を持っている、戦前回帰の思想につながる可能性があり、何故、このことが報道されずに放置されているのか」と意見が一致した。

 日本のマスメディアは安倍政権の先兵を担い、率先して戦前回帰への道をを歩み始めたのか。本年の日本一新の会と、デモクラテレビの役割は、メディアの佯(いつわり)を糺すことだ。 

(平成天皇の「新年に当たり」の衝撃!)

その直後、「実はこんな重大な問題もあるんだ」と報道の怠慢ともいえる情報を提示したのは早野氏だった。「天皇陛下の感想(新年に当たり)が、3日現在報道されていない。宮内庁のホームページには掲載されているが・・・」と、配付された資料を読んで私は衝撃を受けた。そこには「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。(中略)亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切」なことだと思っています。」とあった。成田教授曰く「『満州事変に始まるこの戦争の歴史』とは15年戦争史観といわれる学説を紹介されたものだ。陛下は心から戦前に回帰してはならないとのご決意を表明されたものだ」。

私はこの『新年に当たり』のご感想を発表するに当たり、宮内庁と官邸にかなりの緊張関係があったのではないかと推察した。安倍首相の「歴史修正主義」に対する正面からの批判と読めるからだ。このご感想は元旦が過ぎても何故か報道されることはなかった。安倍首相は年頭会見で、戦後70年談話を出し「積極的平和主義」を実現するために、安全保障の整備や改憲も含め、世界に発信すると発言した。

その影響か、テレビ朝日は1月6日(火)の「Jチャンネル」と「報道ステーション」で、陛下の「新年に当たり」をきちんと放映した。さらに、陛下が天皇に即位するにあたり、「憲法を遵守します」と宣言された映像も同時に放映した。正月のテレビ番組で唯一良識に基づいたものと理解した。

司会者・早野氏の最近の危惧は「日本はファシズム化するのか」という問題である。暮れの総選挙に関わった私に感想を求めたので「国民は政治不信から無関心を突き抜け、政治不用の心理状態だ。そこには、ファシズムを受け入れる素地が生まれつつある。責任は安倍自民政治だけではない。野党第一党の民主党の劣化にある」と答えておいた。

○ 消費税制度物語  (7)
(総裁任期延長に利用された売上税の悲劇)

昭和61年7月には自民党の中にすら「憲法に違反する衆参同日選挙」と反対論があった。俗称「死んだふり解散(寝たふり解散)・総選挙」だ。これに圧勝した中曽根首相に対抗できる勢力はどこにもいなかった。しかし、唯一制度の壁があった。それは自民党総裁任期切れが10月であったことである。最長でも2年間の再任か、1年間の任期延長か、いずれも「党規則の改正」を必要とし党内は紛糾した。

中曽根首相は2年間の再任を要求し、そのための政策として、「税制の抜本改革」即ち「売上税制度」の導入を主張した。総選挙中に「国民が反対し党員も反対する大型間接税と称するものはやる考えはない」と国民と自民党員に約束した舌の根も乾かぬうちの変心であった。この時期、ポスト中曽根には宮沢喜一・竹下登・安倍晋太郎氏等がひしめいていた。各派閥の事務総長が協議を続け、ようやく任期の1年間延長が合意された。

昭和61年9月11日、第107臨時国会が開かれ、この日の自民党両院議員総会で総裁の任期延長の特別党則を決定した。翌12日、中曽根首相は衆参両院での所信表明で、「(政府税調で審議を行っており)この秋には財源措置を含めた包括的な指針をいただく。政府は、国民の理解と協力を得ながら、合理的な新しい税制の確立に向けて固い決意で取り組む」と、税制の抜本改革に臨む決意を明らかにした。

同年10月28日、政府税調の小倉会長は『税制の抜本的見直しについての答申』を、中曽根首相に提出した。1年1ヶ月余を要して審議したもので、戦後の税制抜本改革の基本となるものであった。まず「基本的な考え方」として「我が国税制のゆがみ、ひずみ、重圧感を除去し、国民の理解と信頼に裏づけられた安定的な歳入構造を確立することが喫緊の課題である」で始まっていた。そして「所得、消費、資産といった課税ベースを適切に組み合わせつつ、全体としてバランスのとれた税体系を組み立てる」こととした。

さらに問題の大型間接税については「広く消費一般を原則的に課税するとの基本方針の下、A案・製造業売上税、B案・事業者間免税の売上税、C案・日本型付加価値税の三案を具体的に提示した。国民の関心は複雑な反響を示した。野党はこの年の3月に総予算の衆議院通過の際、大幅減税を要求し、その一部を自民党が了承していた経緯があった。大型間接税の導入に猛反対する一方で、減税を要求する状況となった。従って、国会も税制改革の論議を避けて通れなくなった。

当時の国会は、中曽根内閣の行財政改革の目玉であった「国鉄分割・民営化関連法案」の審議が行われていた。同法案は第107臨時国会の11月28日に成立した。懸案は山を越し、中曽根首相は12月29日、第108常会を召集し、「売上税国会」と呼ばれる、国会史に残る大混乱の幕を開けることになる。

この時期、私は政治評論家で法政大学教授の内田健三氏から、「政治過程論の講義を、週1回やってほしい。私の定年後、教授のポストを譲るので・・・」との話があり、内諾していたのだ。大学の講師と、国会職員の二足の草鞋を履こうというのだ。手続として、上司となる弥富衆議院事務総長に了解をとりに行くと、「何をいうか、オレは中曽根首相から売上税法案の成立を頼まれている。君がそんな姿勢では困る。絶対に了承できん」と、怒ること怒ること。 このコースを選択できていたら、私の人生も変わっていたと思う。
(続く)

※サイト管理者の感想
今上陛下が安倍晋三政権の「歴史修正主義」というかその反動的性格を極めて危惧しておられることは確実である。昭和天皇に太平洋戦争の責任がないかと言えば、そうではないだろう。はっきりいって戦争責任は「存在する」。これについては、矢部宏治著「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」(集英社インターナショナル)の120頁以下に詳しい。

今上陛下がそのことをご存じないはずがないと思われる。このため、政治的にはリベラル派と見られているのも頷ける。ただし、安倍政権の反動的性格は「国粋主義」に基づくものでさえない。「保守」をその自発的対米隷属「政策」に利用しているだけでしかない。真の保守は、米国からの独立、対米独立革命を志向するはずだが、安倍晋三首相にその意思と胆力はない。いや、問題の所在さえ知らないだろう。

真の保守勢力は、「対米独立革命」を喧伝することから始める必要がある。

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