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「対米隷属体制」に堕した戦後レジームー安倍「脱却論」の正体は「植民地化」の完成

戦争法案を強行採決・成立させた「日本国内閣総理大臣=首相」の安倍晋三の最終目的は「戦後レジームからの脱却」である。「戦後レジームからの脱却」は形としては、①現行憲法9条を無視して集団的自衛権の行使を積極的に推進、国民主権・議会制民主主義・平和主義(国中心主義)を事実上否定するための自主憲法制定(=憲法改悪)②侵略戦争を行うための「東京裁判の否定」③国民間の社会的・経済的格差の拡大とその固定ーであろう。これに対して、安全保障と憲法論の第一人者である豊下楢彦元関西学院大学教授は、「『占領時代の基本的な仕組み』」そのものである(旧日米安全保障条約にそっくり挿入された日米行政協定が、新安保条約で名称変更されただけの)日米協定の撤廃や抜本的改革を提起することなく、『自主憲法』の制定で日本の『独立』を果たすなどということは、文字通り”絵に描いた餅”と言う以外にない」(「昭和天皇と戦後日本」岩波書店、259頁)と喝破する。

戦後レジームの根幹が「日米地位協定」にあることは現在、沖縄国際大学の前泊博盛教授(前琉球新報論説委員長)のベストセラー「日米地位協定入門」(創元社)で詳しく解説されている。同協定は、在日米軍および同軍保有の武器・弾薬(破損した物を含む)に事実上の治外法権を与えるものであり、沖縄のみならず日本全土を在日米軍化に置くもので、ほとんどのマスコミが「社会の木鐸」としての役割を放棄していることにより、善意の日本国民はこの事実を知らない。

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だから、「日米地位協定」の抜本的改革ないし廃止を掲げずに憲法9条を否定することは、日本が「騎士(米国軍産複合体)の立派な馬」になることにほかならない(豊下259頁)。つまり、米国の軍産複合体を維持するため同国が創作した戦争(9・11テロもその重要な一例。世界貿易センター第7ビルが突然、またたく間に倒壊したことが明らかになったことで、同テロさえ軍産複合体の自作自演との見方が強まっている。ブッシュ子大統領はただちにアフガン戦争を開始したが、国連決議無しのイラク戦争によって中東諸国は今、泥沼にはまっている)に、日本国が国民の生命、財産を何らの対価なしで献上するーこれが安倍の「戦後レジームからの脱却」の真の正体である。

ただし、もともとの日本の戦後レジームそのようなものではなかった。日本の戦後レジームは当初、連合国軍最高司令官(総司令部はGHQ)のダグラス・マッカーサーの指揮の下で構築され始めた。これはポツダム宣言の核心である日本の戦前の国家体制(国体=天皇制、「天皇制」と言う言葉は1932年のコミンテルンがコミンテルンの日本支部として創設されたコミンテルン日本支部に命じた革命綱領=32年テーゼに初めて盛り込まれ、その後、一般的に使われだした)の「国家改造」つまり、「日本の民主主義化」の根幹をなす「民主主義的な日本国憲法」の制定から開始されたものの、その後、「対米隷属体制」へと暗転した。豊下の最新刊ンを参考に、その過程を少し振り返りたい(敬称略)。

(1)マッカーサーの狙いと「退位回避と皇統継続」のためにマッカーサーに協力した昭和天皇

マッカーサーの狙いとしては、①日本の侵略戦争を禁止するため戦争と武力による威嚇を禁止する代わりに、国際連合を強化し、国連平和維持軍によって日本の防衛を実現する②日本の国家改造のために昭和天皇の協力を取り付け、同天皇の権威を活用し、占領政策(民主化政策)を展開するーことがあった(豊下著の第一部、サイト管理者による総合解釈)。

宮内庁とGHQとの念入りの打ち合わせに行われた1945年9月27日マッカーサーと昭和天皇の第一回会談で、昭和天皇はGHQに全面的に協力することを約束する。その際のいわゆる、「太平洋戦争の全責任は私(昭和天皇)にある。私を処分して国民を救って欲しい」旨の発言というのは、豊下の長年にわたる史料批判・分析によって捏造された美談であることが明らかになっている。

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これに伴い、昭和天皇は近衛文麿に憲法起草命令を行い、近衛はマッカーサーと数次にわたる会談で、日本国の「民主主義国家像」についての意見を仰ぐ。しかし、幣原喜重郎内閣がこれに「越権行為」として反発、近衛が戦犯リストに加えられたこともあって、これは頓挫した。近衛は後に自決。幣原内閣は代わって、敗戦直後の1945年10月13日の閣議で松本蒸治国務大臣を憲法起草委員会委員長に任命、憲法制定を急ぐ。しかし、松本委員長主導の憲法起草委員会の起草内容は、「天皇が統治権を総覧するという大原則を変更する必要はない」などとして、大日本帝国憲法とあまり変わり映えのしない内容であったため、連合国諸国はもちろん、マッカーサー率いるGHQも受けれることはなかった。

この状況において、1946年2月26日には日本国の「国家改造」に対する連合諸国正式の極東委員会が東京に設置されることになった。これは、ポツダム宣言によればGHQの任務は日本軍の完全なる解体という純軍事的なものに限定されていたからである。このため、マッカーサー司令官も国体(天皇制)維持を諦めかけたが、民政局のコート・ホイットニー局長の「憲法改正問題は『極東委員会の決定があれば我々はそれに拘束される』のであるが、同委員会が発足する以前の段階であれば、マッカーサーは最高司令官として『いかなる措置もとりうる』」との入れ知恵があり、これをマッカーサーが容認。かくして、民政局が「突貫工事」で象徴天皇制・国民主権・議会制民主主義・平和主義(侵略戦争放棄と国連中心主義)に基づく「日本国憲法草案」を起草、同年2月26日のぎりぎりのところで幣原内閣がこれを受け入れ、現行日本国憲法が制定されることになったのである。1947年5月3日施行。

当時の日本の知識人層では、GHQが受け入れることができる憲法は策定できなかったであろうし、そうなれば昭和天皇は戦犯として良くて廃位、最悪では処刑され、天皇制は廃止されることになっただろう。事実、無謀な侵略戦争の早期終結に動いた高松宮は、昭和天皇を仁和寺に幽閉すべきと主張していたという。昭和天皇と早くから連合国との講和を求めた高松宮との確執は良く知られている。こうして、いわゆる「押し付け憲法」によって、政治に実質的にかかわりをもたない「象徴天皇」として天皇制は維持・存続したのである。今上天皇(明仁天皇)は現行憲法の方が大日本帝国憲法よりも、天皇制(国体)の在り方としては歴史にかなったものとの認識している。ということで、いわゆる首相の安倍晋三以下、対米隷属「保守」の「押し付け憲法論」は間違っている。実際、1946年の「昭和天皇・マッカーサー第二回会見」で昭和天皇はマッカーサーに対し、「新憲法作成への助力に対する謝意」を表明しているのである(豊下22頁)。

(2)東西冷戦に対する昭和天皇の危機意識と旧安保条約

英国のウィンストン・チャーチルが第61代首相を退任後の1946年3月、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学でいわゆる「鉄のカーテン」の演説を行った。事実上の冷戦の勃発である。ラジオの短波放送を聞いていたこともあり、国際情勢の推移に精通していた昭和天皇は現行憲法の第9条に懸念を示すようになる。しかし、GHQ最高司令官のマッカーサーは、現行憲法の「平和主義(国際連合による国際安全保障体制)こそが、日本を守る」との主張を譲らなかった。

このことが明らかになったのは、「象徴天皇」と規定された現行憲法が施行された1947年5月3日直後の5月6日の「第4回天皇・マッカーサー会談」であった。同会談で、昭和天皇は国際共産主義の膨張、日本への間接・直接侵略を恐れ事実上、マッカーサーに対して、日本が受け入れた「ポツダム宣言」に違反する占領軍(米軍)の本土駐留維持を訴えた。この第4回会談の後半部分は、後半部分が破棄されており長い間その内容が不明であったが、1947年7月の第7回会談から、マッカーサーが解任されてから就任したリッジウェイまで昭和天皇とGHQ最高司令官との通訳をつとめ、会談をメモした外務省政務局第五課長・松井明のメモ、いわゆる「松井文書」によって、明らかになった。その内容は、昭和天皇の国際共産主義に対する脅えに対するマッカーサーの発言である(豊下「昭和天皇・マッカーサー会見」岩波文庫100ー101頁)。

−−転載開始−−
今回初めて明らかになった「切除」箇所に続くところで彼(マッカーサー)は、大陸につながる朝鮮の場合はソ連や中国が「何時たりとも侵攻し得るのであるが日本についてはこの危険性はない」と述べたうえで、「日本としては如何なる軍備を持ってもそれでは安全保障を図ることはできないのである。日本を守る最も良い武器は心理的のものであって、それは即ち平和に対する世界の世論である。自分はこの為に日本がなるべく速やかに国際連合の一員となることを望んでいる。日本が国際連合において平和の声をあげ世界の平和に対する心を導いていくべきである」と第9条の理想と国連を結びつける発言を行っているのである。
−−転載終わり−−

つまり、マッカーサーはあくまでも日本が国際連合に加盟し、国連の国際(集団)安全保障体制と、恐らくは国家の自然権としての「個別的自衛権」によって、自国を防衛すべきと昭和天皇に説いているのである。別の言い方をすれば、占領軍がいつまでも日本国内に駐留すべきではなく、占領政策が完了した暁には在日米軍は撤退すると暗に述べているのである。

しかし、既に象徴天皇として政治・外交に直接関わりを持つことは憲法違反であった昭和天皇はマッカーサーの説明に納得せず、GHQとは別に、鉄道財閥やウォール街を基盤とするアベレル・ハリマン(後に、商務長官、国務次官に昇格、ソ連の拡張主義を早くから警告した徹底的な反共主義者)が主導した「ニューズ・ウィーク」東京支局長のコンプトン・パケナム、その外信部長のハリー・カーン(いずれも、米国の反響工作組織・対日協議会=AGC=のメンバー、孫崎前掲書191頁)などの人脈を通して、別の米国との交渉パイプを作ることになる。つまり、昭和天皇の「二重外交」である。

さて、米国では1950年5月18日j、フランクリン・ルーズベルト米大統領急死の跡を継ぎ、広島・長崎への原爆投下を命じたハリー・トルーマン米大統領はジョン・フォスター・ダレスを対日講和問題担当に命じ、9月14日には対日講話共義開始の声明を出した。つまり、対日講交渉に本格的に乗り出したのである。これは、東西冷戦の勃発・激化を意識したもので、米国では対ソ強行派、GHQでは主導権が民政局から諜報活動なども行うG2(参謀第2部)に移行した。この過程で、米国の対日講和方針は次のようになる(豊下「昭和天皇と戦後日本」)。

−−転載開始−−
ダレスを代表する米国の交渉団は1951年1月25日に来日し、いよいよ月末から講和問題と安全保障をめぐる重要な日米交渉が始まることになった。これに先立ち、26日の最初のスタッフ会議でダレスは「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を、(本土及び沖縄・小笠原諸島など日本全土の)望む場所に、望むだけ駐留させる権利を獲得できるであろうか?これが根本的な問題である」と強調した。この課題は前年(1950年9月8日にトルーマンが承認した国務・国防両省の共同覚書の核心に位置したものであり、講和後も占領期と同様の全土基地かと自由使用=つまり、在日米軍に属する全てのものの治外法権化=)を米軍に保証するものであった。
−−転載終わり−−

米国の狙いは、高坂正堯が言うような「再軍備」ではなく、「在日米軍」の無期限・無制限の本土への駐留であった。このダレスの意向、つまり、米国政府の意向に進んで協力したのが、他ならぬ昭和天皇であった。昭和天皇は宮中が築いたパケナムやカーンとのパイプを使い、二重が以降の中、有名なダレスに対する「個人メッセージ」や「文書メッセージ」を通して、米国の意向に沿うことを明らかにした。

当時、既に1950年6月25日に北朝鮮の大韓民国侵略による朝鮮動乱が勃発していた。このことを考えると、米軍を主力とする国連軍にとっては、日本の「米軍基地」は不可欠であった。つまり、「朝鮮戦争の勃発は在日米軍基地の戦略的価値を飛躍的に高め、その結果、日本が持つ基地提供カードの『バーゲニング・パワー』も一気に増大し、来たるべき講和条約日本は有利な立場になった、というリアルな見方を(マッカーサーの軍事顧問)シーボルトは示したのである。逆に言えば、すでに指摘したように日本の外務省当局者にすれば、基地提供というカードは、困難な対米交渉において日本の国益をぎりぎりまで追求していく際に、最後まで温存すべき文字通りの”切り札”に他ならなかった。だからこそ、吉田(茂首相)は、国際情勢や野党(主に、社会党)の対応、世論状況に目を配りつつ、日本が基地を提供するか否かについて、『ダブル・シグナル』(いわゆる1950年4月25日の対米従属池田勇人ミッションと独立志向の白洲次郎の同時訪米)をも駆使して、”駆け引き”を展開していたのである」(豊下前掲158頁)。

つまり、在日米軍基地は朝鮮戦争に勝利するうえで決定的に重要であったから、米国としては日本に対して在日米軍基地の使用を「お願いする」立場にあった。このことを踏まえれば、(旧安保条約の)締結において、日本側は米国に対し、在日米軍基地の使用期間、展開場所、権利などで、困難であるけれども、制約を課せられるはずであった。

しかし、これは国際共産主義の脅威を恐れる昭和天皇にとって、交渉を長引かせることになるなど、許すことのできないものであった。結局、吉田茂首相は戦前、対中侵略戦争に熱心だったこともあり、「臣・吉田茂」の立場を越えることができず、この日本の将来を左右する外交交渉において、ダレスに強く交渉することができなかった。このため、「講和後(独立後)も米国に対し、在日米軍基地の存続をお願いし、米国はこれに対して自国の日本国に対する恩恵として応えてやる」という不平等極まりない「旧日米安保条約」を締結させられるに至ったのである。

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