●第二辺境革命、古典古代生産様式から封建的生産様式へ

古典古代生産様式から封建的生産様式へ。この時代の文明の中心地帯は帝政末期のローマ。一方、文明のヘブライズム型周辺地帯はローマ領北アフリカである(内田)。ここは、ローマ帝政末期の精神的、社会的混乱が集約された地帯で、古代イスラエルと文化的に同じような状況にあったと見られる。ここで、重大な精神文化の創造を行った人物が、古代最大のキリスト教の教父、護教家として大著「神国論」を執筆したアウグスチヌスである。

アウグスティヌスの記念像
アウグスティヌスの記念像(https://biz.trans-suite.jp/16927より)

なお、第二期辺境革命ではヘレニズム型の周辺地帯は明確ではない。辺境地帯は、現在の北フランスとライン川下流地方の間のガリア。帝政末期には、奴隷階級を中心とするローマ帝国版図内の手工業者が西方に移動していくようになる。古典古代世界での生産力の担い手であったこれらの手工業者たちはまた、原始キリスト教から初期キリスト教を経てアタナシウス派のキリスト教として集大成されたカトリックの受容者でもあった。

一方、アジア系のフン族の侵入により南下してきたゲルマン民族は彼らを受け入れた。そうして、中世を通して「技術開発センター」でもあり続けた修道院を核に、新たな農村としての「ゲルマン共同体」を建設していった(ゲルマン共同体とそれ以前の農村共同体の相違については大塚の「共同体の基礎理論」(岩波書店)に詳しい)。その特徴は、古代オリエント世界のアジア的共同体や古代ギリシア・ローマ帝国の共同体に比べて、農民がより主体的、創造性を発揮できる土地の分配方式=形式的平等の原理(農民の家族構成によらずに一定の農地を分配し、農民がこれを占有する)=を確立していたことである。

つまり、ゲルマン民族は民族の大移動の過程でローマ帝国よりも生産力が高い社会に移行するという社会革命を推進したのである。そして、社会の深層で進んできた組織革新を基盤として、実際に「封建革命」を遂行したのが、フランク王国目ロビング王朝の宮宰だったアルヌルフィンガー家のピピンである。ピピンは紀元751年、メロビング王朝をを打倒してカロリング王朝を樹立したが、この「ピピンのクーデター」によって、地中海に基盤を持っていたローマ帝国を中心とした古典古代世界は完全にその息の根を止められることになった。

そうして、ピピンの子のチャールズ大帝が、前ヨーロッパ(西欧)に父の封建革命を拡大したのである。その象徴的な出来事がカトリックの法王レオ三世による「神聖ローマ帝国皇帝」戴冠であった(紀元800年)。このチャールズ大帝の愛読書が、アウグスティヌスの著した「神国論」だった。

チャールズ大帝の戴冠式
チャールズ大帝の戴冠式(https://www.lets-bible.com/history_christianity/b14.php)

一般的に、中世封建時代というと近代に至る過渡期の暗い時代と考えられているが、実際はそうではない。封建時代には修道院内部での倫理的、理論的、実践的合理化(技術開発)が推進された。そうして、修道院部の合理化とゲンルマン共同体の組織原理の相乗作用で農村の生産力が着実に発展した。農村の余剰生産物の交換の場としての市(イチ、局地的市場圏)があちこちに形成され、市場経済としての近代資本主義を準備したのである。封建時代を係止したところに、スターリン主義型のマルクス主義理解の大きな過ちのひとつがあった。

※追記:西欧に根付いた中世封建主義の意義について詳細に論じたのはウェーバーの主著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」。マルクス主義の立場に立つものとしては望月清司の「マルクスの歴史理論」。古典古代世界と西欧抽選封建社会の根本的相違について詳細に記したのが、安藤英治の「ウェーバーと近代」。日本で西欧中世史研究の第一人者として知られる木村尚三郎も「西欧精神の探究ー革新の十二世紀」を著述している。木村は一番的に近代西欧の扉を開いたとされる宗教改革とルネッサンの以前の十二世紀に西欧社会で既に革新が行われ、その跡を継いだものが宗教改革とルネッサンスであるとの指摘をした。自生的には封建社会を経なければ、近代資本主義社会は形成されない。

世界の中でも日本だけは例外で、中世封建社会が形成されたため、非西欧文明社会では初めて近代資本主義を受け入れることができた。これについては、ウェーバーも「世界宗教の経済倫理」で言及している。

第三期辺境革命。封建的生産様式から資本主義的生産様式へ。文明の先進地帯はガリア地域。周辺地帯としてはミラノ、フィレンツェといったイタリア半島北部の商業都市(ヘレニズム型)と、ルターやカルビン、ツゥィングリが宗教改革を起こしたドイツのウィッテンベルグやスイスのジュネーブ、チューリヒ(ヘブライズム型)の二つのタイプがあった。

しかしながら、これらの周辺地帯では封建社会の束縛を脱することができなかった。宗教改革の実践的担い手であった小市民(プチ・ブルジョアジー)的工業生産者達も大陸での宗教的迫害(フランス絶対王朝下のユグノー迫害など)を避けるために、英国に移住せざるを得なかった。中世末期以降、西欧封建社会の中では辺境地に位置した英国、その中てもさらに辺境の西北の農村地帯は、禁欲的プロテスタンティズムを受容した大陸の小市民的手工業者達を受けいれた。こうして英国は、封建制の産み落とした(が培った)生産力、とくに、中世都市ギルド内部で高度な発展を遂げた手工業を遺産として受け継ぎ、資本主義発達の中心地域としてあらわれてくる」(大塚)ようになったのである。

この時、中世修道院内部での倫理的、理論的合理化の過程で進化してきたキリスト教の禁欲のエートス(精神的駆動力)は世俗内合理的禁欲に転換して、資本主義の精神の母胎になった。なお、英国は中世西欧社会の辺境地帯だが正確には周辺的辺境地帯。完全な辺境地帯は米国であり、局地的市場圏から広域的市場圏を経て、国民経済圏の統合に到る資本主義の典型的な発展は、米国で起こった。





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