日本一新の原点(300号)―立憲主義、再生か崩壊するかの瀬戸際の年

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

〇「メルマガ・日本一新」300号のご支援に感謝します!

平成28年1月14日で「メルマガ・日本一新」は300号となりました。メルマガでの日本一新活動を呼びかけたのが、平成22年6月17日で、早くも5年半の月日が過ぎました。激動の中を支えていただいた会員の皆さんに感謝申し上げます。「メルマガ・日本一新」は、時局の解説とともに、「政治の根本」について議論する場ということでスタートしました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

平成28年、この年は、日本の議会政治はその存立を問われる歴史的峠となります。立憲主義が再生できるのか、崩壊するかの瀬戸際に立たされています。共産党の「国民連合政府」樹立論は、共産党が普通の政党への脱皮宣言でもあります。実は平成5年、細川政権が成立した時でしたが、私は高校時代の恩師を亡くしました。その追悼録に『日本資本主義の構造的危機を問う』を執筆しました。細川連立政権ができなかったことなどこれからの課題としても参考になると思いますので、要約して転載します。

〇日本資本主義の構造的危機を問う
(創造的発展できない政党)

美馬先生、「そちらの世界」から今の日本を見ていかがですか。武市半平太・坂本竜馬・ジョン万次郎、それに吉田茂など土佐の先人たちとお会いになりましたか。美馬先生が帰らない旅に立ったのは、宮沢喜一内閣不信任案が可決され、衆議院が解散となった直後(1993年6月)でした。日本人のほとんどが、まさかと思った38年にわたる「自民党一党支配」が終わったのです。

そちらでは、細川護煕連立政権についてさぞかしいろいろな論議があることでしょう。政権交代した日本では、政権を獲った側も獲られた側も、何か虚脱感のようなものに襲われ、先行きのわからない船に乗ったような雰囲気です。守旧派の政治家や学識経験者は、小沢一郎氏と梶山静六氏の「一・六戦争」のはずみで、細川連立政権ができたと信じていますし、当の政権側も「どうしてこうなったのか」わからない状態です。

9月17日から始まった政治改革国会では、自民党と共産党が国会運営で共闘するという珍事が起こっています。吉田元首相も日本共産党を再建した徳田球一さんも苦笑していることでしょう。それにしても日本の政党というのは新しい政治の激流の中でアップアップしていまして、混乱を通り越しています。最近の政治家はほとんど歴史観を持っていませんので、自分の都合と天下の流れを調整できず政界が漫画化しています。

世界史的な激動が続く中で、40年近くも創造的(弁証法的)発展をしない政党が存在しうるでしょうか。今でも頑に創造的発展を拒否しているのが日本共産党でしょう。9月に開かれた中央委員会で宮本顕治議長は「細川連立政権は自民党政権より悪質」と断じました。ところが、党内の非公開の場で「『70%』を超える国民の支持を得ている細川政権を無視してよいのか」という反論が出たとの報道がありました。「上田(耕一郎)党」と「不破(哲三)党」に創造的発展を遂げることを期待しています。

社会党には変化したい人もいますが、変わると立場がなくなるとの思惑で改革できないまま時間を浪費しています。先日もなりたての土井たか子衆議院議長の公邸に集まったベテランの議員さんたちが「なんで苦労して政権の中に入るのか。中選挙区制のままで自民党の悪口を言っていれば、4人に1人は当選して100人は衆議院で確保できるのに・・・」と愚痴をこぼしていたようです。この人たちは自民党、社会党主導の五五年体制の中で所詮、国対政治の甘い汁を吸っていた人たちですが、日本の政治を悪くしたのは実はこの人たちでした。多分、社会党は自己分裂という創造的発展はできず他からの解体を待つだけになったと思います。

「さきがけ」や「新生党」が脱党した自民党ですが、指導者たちは世の中がどうなるのかが見えず、正確には見ようとせず、自己解体のプロセスに入りました。その根本的原因は昭和50年代の後半から見識のある保守党のリーダーが「そちらの世界」に行ったものですから、残ったのが問題の多い人たちばかりになったことによります。

(発想を変えないと社会は変わらない)
8・6革命(非自民の細川連立政権成立の日)、これは政変に私がつけた名前です。世間の人は細川連立政権が出来た理由を、「政治改革」と言っています。もちろん間違いではないのですが、しかし、それは改革の起点にすぎません。何故自民党政権・一党支配が壊れたのか、これを解明するほうが先かもしれません。

政治改革への道筋ができ、新しい政治の流れをつくることに心身を捧げることができたのも美馬先生のお陰です。しかし、現時点(1993年10月1日)で考えてみますと、政治改革はもっと大きなものを変革させる先導にすぎないことがわかりました。それをひと言で申せば、『日本資本主義の構造的危機』です。この状況にどう対応するか、そのためにはこの状況をつくった理念、哲学は何であったか、これから点検すべきでしょう。自民党と社会党による55年体制の国家社会経営の理念は「他人に抜け駆けして情報を金に換えその金を政治家に投資して拡大生産する」ことでした。

他人を犠牲にして金儲けをし、節税や脱税の上手な企業人を優れた人間ということが社会通念、価値観となっていたわけです。日本には公正な市場経済のルールが存在していたのでしょうか。その結果、日本人の選択した政策理念は、1)一国繁栄主義、2)一国平和主義といわれるものでした。自民党はこの理念のもと、社会党の暗黙の了解のうえで、利益配分を唯一の役割とする一党支配を続けてきたのです。戦後の日本に本当の政党が果たしてあったでしょうか。

フランス革命(1789年)と同様な世界史的激動、それはソ連圏の崩壊(1991年12月)です。その激流はいやおうなしに経済大国日本を襲ってきたのです。社会主義・共産主義の危機は、同時に資本主義の危機です。既に高度に発達した金融独占資本主義そのものの崩壊が始まっているのです。新しい技術革新のテーマや素材はあり、それが資本主義の危機を救うものであることはわかっていますが、そのためには従来の資本主義を支えてきた理念を変更しなければなりません。

例えば、環境保全技術や情報通信技術の革新などです。これらの技術の開発は「他人をだましたり、抜け駆けする」ことを価値とする理念では不可能です。「相互に自立して、共に生きて発展しよう」という理念でなくては、革新できない技術です。こういった発想に私たちの社会が変われるかどうかにかかっています。「自立と共生」という発想は、どこかで聞いた考え方です。社会主義が芽生えた頃の素朴な発想でした。社会主義の国家論や政治論は、確かに多くの誤りがありました。

しかし、それが希求した素朴な人間に対する問題の提起は、「人間の尊重」であり「社会的公正の実現」であったはずです。社会主義国家はそれを忘れたために消滅しましたが、これらの理念は、今や健全で公正な市場原理の創造とともに、資本主義国家を救う理念となったのです。私はここに歴史の弁証性を感じます。率直に言って自民党と社会党はその歴史的使命を終えたのです。細川連立政権は日本資本主義の立て直しを行うために生まれたものと思います。しかし、その理念は人間を大切にしようという考え方を活用することと、公正な市場経済のルールをつくる方法しかありません。細川総理の手でどこまでそれができるかわかりません。なにしろ殿様ですから。しかし、方向だけは示したいものです。政治改革はその第一歩にすぎないと思います。

この恩師への手紙は平成5年10月1日(1993年)に執筆したものだ。23年という歳月が流れた。その間、「日本資本主義の構造的危機」は一層深刻となり、破綻寸前といえる。私たちが失敗を重ねているうちに、我が国は強者が弱者を犠牲にする飢餓地獄へと猛進するようになった。よく観察すると「資本主義の構造的危機」を最も深刻に感じていたのは、強者の立場にある大企業ではなかったかと思う。安倍一強体制が展開する「弱肉強食」政策も、「安保法制」で戦時体制をつくろうとすることも、巨大資本による「危機回避」のやり方である。

何としても「国民連合政府」を実現しなければならない。
(続く)

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