日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

3月31日(月)、細川元総理の声がかりで、成田元秘書官と3人で、赤坂の〝七福神〟で会食した。久しぶりのことで、20年以上前になる「非自民連立政権」時代の裏話や、年始めの「東京都知事選挙」の悲喜劇話で盛り上がった。話の締めは「脱原発活動で、文明のパラダイムシフトを変える運動を成功させよう」ということであった。

○「団塊の世代」の政治家の罪は重い!
細川元総理との怪談を終え、午後10時頃自宅に帰ると、週刊ポストの記者から電話取材があった。「団塊世代の罪と罰」の特集をするとのことで、政治家についてコメントして欲しい、とのこと。酔いもさめやらぬまま、一杯機嫌でいろいろと話をした。ターゲットは菅直人氏、仙谷由人氏、舛添要一氏、猪瀬直樹氏等であった。

ポストの記事は、〝戦前生まれの焼け跡世代で、政界の生き字引と呼ばれる平野貞夫・元参議院議員(35年生)が語る〟で始まるが、要約すると、

「幼少時代に食糧難を経験した団塊世代で、最も優秀な層は豊かな生活を目指して商売の道に進み、次に優秀な層は官僚になった。この世代は学生運動が盛んで、運動にのめり込んで就職できなかった層が、弁護士や市民運動を経て政治の道に進んだ。だから、反自民の政党に入る人が多かった。」そして彼ら(菅氏や仙谷氏)の指導者としての失敗は、「権力のためには、いとも簡単に節を曲げた」ことにあった。

菅氏は鳩山政権で財務相を務めて財務官僚に懐柔され、鳩山退陣後には、マニフェストを反故にして官房長官の仙谷氏とともに消費税増税を掲げた。「財務省に味方をしてもらうことが権力を維持する近道だと考えたのでしょう。だが、消費税増税を掲げた参議院選挙では大敗した。すると、今度はマニフェスト回帰を求める反執行部派を排除するために党内抗争を仕掛けていった」(平野)

桝添氏にも同様の権力志向が見える。自民党が下野すると先んじて離党し民主党に接近した。それが再び自民党が政権に復帰するや、自民党の支援を受けて今年2月の都知事選挙に出馬し、知事の座を射止めた。

「団塊政治家」に共通するのは、権力志向と並んで過剰なまでに自己正当化と責任逃れだろう。菅氏の原発事故対応に失敗した責任を今もって認めようとしない態度、仙谷氏は、尖閣諸島の中国漁船衝突事件で政治判断を放棄し那覇地検に責任を丸投げして、言い逃れを駆使した態度が対中外交を混迷させている原因だ。

猪瀬前東京都知事も似ている。徳洲会グループからの5000万円借入問題で、あれほど議会や記者会見で「選挙資金ではない」と強弁していたが、法的処理が略式起訴で済むと判明するや、これまた、いとも簡単に前言を撤回して選挙資金であったことを認め、罰金50万円を納付した。彼らは権力をこよなく愛しながらも、筋を通す覚悟もなく、そしてまた、失敗の責任もとりたくない。その根性ゆえに、指導者として信頼を得られない。

以上が、「戦前生まれの焼け跡世代」の見立てだ。よく考えると「団塊の世代」とは何かよくわからない。早野透氏(元朝日新聞記者・デモクラテレビ司会者)に聴くと、昭和21年から24年頃まで敗戦後の引き揚げなどで、人口が急増した世代をいうとのこと。そう固く考えることもないが、私は「戦争を知らない最初の世代」という理解だ。幼児期から戦後民主主義で育った世代といえる。

となると「○×教育世代」とか「偏差値教育世代」の走りともいえる。団塊の世代のなかには、これらの欠点を克服して立派に生きている人たちも大勢いる。しかし、ひたすら権力を求めよういう人たちのなかには、政治を○×式の発想でしか考えない輩がいる。

4月1日には消費税が8%となり、来年の10%に向けて走り出した。その元をつくったのは、菅・野田両元首相だが、忘れてはならないのは、民・自・公3党合意で「社会保障と税の一体改革」を国民に約束した、当時自民党総裁だった現法務大臣の谷垣禎一氏の責任だ。社会保障国民会議での根本改革は忘れられ、消費税増税分3%のうち、国庫に入る5兆円で、社会保障に使われるのは、僅か10%の約5000億円だ。残りは、大企業対策と公共事業のバラマキに使われることになった。閣内にいて一言も言えない谷垣氏の無定見が問題だ。

何故こうなったのか。麻生政権から始まって、菅・野田民主党政権と続いた「小沢一郎排除」の、一連の冤罪事件であった。その実行の中心は、団塊の世代の政治家・官僚・マスコミ人であったことは事実である。昭和63年に消費税制度を導入した後、社会保障の抜本改革を構想したのは、当時の自民党幹事長・小沢一郎氏であった。自民党では不可能で、非自民政権を樹立するに至った理由のひとつが、この問題であった。その事実を証明するのが私の責任だ。

○「万次郎とユニテリアン思想」の連載について 2月22日(土)、高知市立自由民権記念館で『違憲国会の葬式』を、日本一新の会の発案で行った。そこで国会開設運動の原点、ジョン万次郎に因み『議会政治再生・ジョン万次郎宣言』を採択したところ、「万次郎の思想を知りたい」との要望が多数あった。その中に大正7年に発行された『土佐史談』の公文豪副会長から執筆を依頼され、お受けした。

年内に発行される『土佐史談』誌に掲載されることになった。せっかくの機会なので、草案をメルマガに連載することにした。しばし、メルマガの構成を、原則として前半を従来通りの論調、後半を『土佐史談』の草案を掲載するのでご理解をいただきたい。

万次郎とユニテリアン思想(草案)
一、はじめに 昭和12年井伏鱒二が『ジョン万次郎漂流記』で直木賞を受賞。漂流少年の冒険物語として全国的な話題となった。国民の印象は、幸運な漂流少年というだけで、万次郎が幕末の政治や文化、産業などに与えた影響については評価されなかった。

戦後の昭和39年、文藝春秋社が刊行した『炎は流れる』の中で、大宅壮一は「自由民権思想は、漂流者・万次郎が持ち帰った米国デモクラシーの一粒種とし、国会の開設として実を結んだ」(要旨)と論じたがこれに同調する研究者はほとんどいなかった。

平成3年の「万次郎漂流150周年」を機会に慶応大学の川澄哲夫教授(当時)が『中浜万次郎集成』を小学館から出版した。千ページを超え、鶴見俊輔氏が監修者として協力したもので万次郎研究には欠かせない学術書である。同じ時期、NHKが報道特集『二つの祖国に生きた男―ジョン万次郎』を放映した。これらの活動から、歴史の中に埋もれていた万次郎の実像に光が当たるようになった。

万次郎研究の主流は、万次郎の生涯について、事実関係を詳細に実証することであった。無論それも大切なことであるが、より必要なことは万次郎が幕末に発信した情報や意見が、我が国の近代化に与えた影響を今日的立場で検証することである。

私が注目するのは、北代淳二氏の『「ジョン・マン」と「中濱万次郎」―グローバル・マインドの形成―』(土佐史談第239号)である。万次郎は「捕鯨船で世界の海を回りながら、国と国との枠組みにとらわれない広い視野を身につけた」とし、「生活のあらゆる面でグローバル化が議論される21世紀の今、19世紀に生きた万次郎が発信するメッセージは、ますます新しい」と結んでいる。

この北代氏の指摘は、万次郎の感性を「グローバル・マインド」とし、21世紀の現代に生きる人たちにとっても、貴重なメッセージとして評価したものといえる。この万次郎の「グローバル・マインド」が、どのようにして形成されたのか、私はこの問題に強い関心をもっている。

万次郎は不思議な人間である。自分の功績をほとんど語っていない。自分を冒険家とも思想家とも思っていない。「過酷な運命の中で、一生懸命に生きてきただけだ」という意識しかなかったといえる。また、特殊な能力や情報を持っていたが、それを利用して、地位や財や人気を求めようともしなかった。19世紀の国際社会で、異次元の文化が同時存在して混乱するなか、淡々と時代の要請に誠実に対応して生きてきたのである。

この万次郎の生き方を理解するためには、「万次郎の信仰」がいかなるものであったか、これを解明しなければならない。文献上明確なのは、生家が仏教の「浄土真宗」であったことと、米国で生活していた時期に「ユニテリアン教会」に通っていたことである。このユニテリアン信仰から、どんな影響を受けたか、これを検証するのが本稿の目的である。また、万次郎がユニテリアン信仰を受け入れる素地、即ち、少年期まで過ごした故郷・土佐で形成した万次郎の感性について考察することも課題である。

さらに、万次郎が帰国してからの活動で、ユニテリアン信仰をどう生かしたか。そして、日本の近代化のなかで「ユニテリアン思想」がどんな役割を果たしたのか、これらの課題について問題提起として論じておきたい。

(この項、続く)

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