「日本一新運動」の原点(272)ー戦争法案廃案の死角

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○安全保障法制関連法案を廃案にする〝死角〟がありますよ!7

(安倍チルドレンの報道弾圧を糾明する!)

「狂気の会期延長を機会に、廃案への死角が多くなる」と、前号で述べておいた。前号の配信は1日早めて6月24日だったが、翌25日には早速〝死角〟が飛び出してきた。安倍チルドレンによる自民党若手勉強会「文化芸術懇話会」での、安保法制関連法案を巡る報道弾圧発言である。

出席議員が安保法制に反対する報道が大勢になるのを恐れ「マスコミを懲らしめるには広告料収入をなくせばよい。文化人・民間の方々が経団連に働きかけて欲しい」など、講師の百田尚樹氏に呼び掛けたとのこと。また百田氏は、沖縄の地元紙2紙を「潰さないといけない」と述べたことなどである。議会民主政治の前提を否定し、民主主義社会の存立に関わる重大問題である。

自民党執行部は世論の批判を恐れ、谷垣幹事長が謝罪し関係者を処分して安保法制関連法案審議促進の環境を整えようと神経を使っている。そんな小手先の問題ではないが、何ともだらしがないのが野党側である。民主党が安保法制特別委員会で採り上げたことは当然だが、問題の位置づけや今後の追求について戦略性がない。それは問題の本質を理解していないからだ。

肝心の報道機関の見解も、公正な報道を誇る東京新聞の社説でさえ「報道機関全体で抗議すべきこと」を提案しているに過ぎない(6月27日)。政治学者で「立憲デモクラシーの会」共同代表の山口二郎法大教授に至っては、東京新聞『本音のコラム』で〝永田町の野蛮人〟のタイトルで与党の政治家をいらだたせ、本性を出させたのは「市民の力」とし、「劣化した政治家はもっとぼろを出すことだろう。楽しみだ」と結んでいる。
 
こんな感性では絶対に「廃案」にすることは不可能である。相手方のミス任せではダメだ。新聞の投書欄には『報道威圧 これで幕引きなのか』や『首相の姿勢とつながる威圧発言』など、厳しい意見が述べられている。

この「安保法制・沖縄報道弾圧問題」について、私の見解を述べておきたい。わが国では政府権力による報道機関への規制・弾圧など、報道機関側の自己規制を含め小泉政権ごろから著しく強くなっている。切っ掛けは「司法改革の裁判員制度」の創設をめぐり、法務省や内閣が莫大な広報経費を税金から報道機関にばらまいたことに始まる。折からの長期不況で企業広告が激減するようになり、株式会社としての報道機関は政府広報費に「芋茎の涙」を流したといわれている。

消費税の増税PRのため、財務省が流した広報費の配分をめぐって、大手テレビ企業間で談合があったとの噂も耳にしたことがある。消費増税に反対の論調を繰り返す報道機関が、執拗な税務調査を長期間受け、業務に支障をきたした話は巷間でよく知られている。公明党や創価学会が、自己防衛のため地方紙を中心に、広告費や印刷利権で経営補完することなどはかわいいものだ。その上、テレビには政府との間で電波利権があり、総務省電波官僚のテレビ企業への天下り問題は看過できない状態だ。

今回の安倍チルドレンによる「報道規制・弾圧」発言は、報道機関をコントロールできる体制が完成したことを証明したものといえる。非公式な自民党内の有志の会合を、谷垣幹事長が陳謝したり、処分したりする慌てぶりは、自民党支配の本性を隠そうとすることである。そこで野党としては、国会審議や安全保障問題に報道機関への規制規制や弾圧を行うことが議会民主政治にとって犯罪的なことであるとして、自民党と安倍自公政権を徹底的に追求することだ。

追求に際しての基本認識とすべきことを述べておきたい。世界でかろうじて議会民主政治が機能しているのは10数カ国である。残念ながら最近の日本は入れるわけにはいかない。その中で英国と米国の例を挙げると英国ではロンドンタイムズとBBCの存在である。歴史的に2つのマスコミが、適切なチェックと国民への正確な情勢を提供しているからだといわれている。

米国ではBBCのような公共機関はないが、権力の影響を排除するジャーナリズム精神が生きていて、ニューヨークタイムズやワシントン・ポストや草の根デモクラシーの伝統を持つテレビが、政府権力に冷静に対応し、政権へのチェックとなっている。日本だけが、大マスメディアのすべてが新聞とテレビの経営を一体化させている。これを分離することを主張した小沢一郎氏は、陸山会事件を捏造され、マスコミから人格を破壊された。

さて、自民党と安倍政権を追求する方策は、第1に事実関係を整理確認すること。第2に報道規制や弾圧について発言した議員の責任を、自民党内の問題だけでなく国会の制度上の問題として追及すること。具体的には行為規範第1条(議員は、職務に関して廉潔を保持し、いやしくも公正を疑わせるような行為をしてはならない)に違反することを主張し、政治倫理審査会に申し立てて、政治的・道義的責任を問う方法を検討して実現すべきだ。

議会民主政治と報道機関との健全な関係は議会政治の存立の基本である。立憲政治を冒涜して、安保法制整備を強行するという異常な事態で、報道規制や弾圧を公言する国会議員は国会の権威と品格を犯すもので、本来は懲罰の対象として議員辞職要求を行うべき問題である。しかし、制度が整備されておらず、現存の制度なら「政治倫理審査会」での審理に問える問題である。国会議員も有識者も私の提案を真摯に検討して貰いたい。NHK問題もあり、報道機関のためにも権力から自立する〝国会決議〟も一考すべきだと強く要請する。

(集団的自衛権の行使に共同防衛的条約を必要とするか否か!)

前回の第271号を復習してみたい。昭和29年6月の自衛隊法成立の翌日、衆議院外務委員会で社会党議員が、集団的自衛権の可能性について質したことがある。吉田首相兼外務大臣に代わって答弁した下田条約局長は、

「集団的自衛権、これは換言すれば共同防衛、または相互安全保障条約、あるいは同盟条約ということでありまして、自分の国が攻撃もされてないのに、他の締結国が攻撃された場合に、あたかも自分の国が攻撃されたと同様に見なして、自衛の名において行動するということは、それぞれの同盟条約なり共同防衛条約なり、特別の条約があって初めて条約上の権利として生まれてくるものです。ところが、そういう特別な権利を生ますための条約を、日本の現憲法下で締結されるかということは、できないことですから、結局、憲法で認められた範囲というものは、日本自身に対する直接の攻撃あるいは急迫した攻撃の危険がない以上は、自衛権の名において発動し得ない、そう存じております」

と政府の見解を述べている。

当時は旧日米安保条約時代で、基地提供条約であった。そこで、昭和35年になって岸内閣が調印した新日米安保条約が国会に提出された直後、同年2月3日の参議院本会議で野党は「新日米安保条約は、軍事同盟的性格を持つものではないか」と追求した。それに対して岸首相は、「国連憲章第51条の集団的自衛権を日本が行使することは、憲法上出来ないことは当然だ」と断言した。

私は、岸首相の答弁は新安保条約が「共同防衛的条約」でないことを政府の見解として発言したものであり、安倍首相が「集団的自衛権行使」を限定的とはいえ解釈改憲でするなら、現行日米安保条約を共同防衛的なものに改定する必要がある。しかし、憲法はそれを許容できない。しからば審議中の「安保法制関連法案」は、撤回か廃案にするしかない、というのが前号の要旨だった。

この理論を何人かの野党政治家とマスコミ知人に発信したが、現在のところ何の反応もない。唯一、友人が外務省の広報担当に下田条約局長の見解について質したところ、「・・・自国と密接な関係にある外国の部分ですが、これについては条約関係にあることは必ずしも必要ではなく、一般に外部から武力攻撃に対し、共通の危険として対処しようとする共通の関心があることから、この集団的自衛権の行使について要請又は同意を行う国を指すものと考えられております」

と、平成26年4月1日の参議院外交防衛委員会での岸田外務大臣の答弁メモが届いた。この岸田外相と昭和29年の下田条約局長の答弁の食い違いは重大である。岸田外相の答弁が安倍政権の見解だとすれば、武力行使の可能性もあるところに、何の条約上の根拠もなく自衛隊が出動することになる。憲法はそれを許さないはずだ。野党は何故にこの根本問題を解明しようとしないのか。

 

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