「日本一新運動」の原点(305)―

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

〇 沖縄米軍基地移設問題について (1)

2月14日(日)と翌15日(月)、生活の党・小沢一郎代表と那覇市の故翁長助裕氏宅を訪問した後、翁長知事を支える『県民ネット』に所属する五名の県議会議員と、沖縄米軍基地問題について意見交換会を行ってきた。突然のことで驚かれる方もいると思うので経緯を説明しておこう。


翁長助裕氏という人物は、法政大学大学院政治学修士課程コースで私の1年後輩であった。「60年安保闘争」時代で、2人とも学友会(自治会)の役員だった。「警職法闘争」という、激しい運動とともに私が指導していた同志であった。私が衆議院事務局に就職し、翁長氏は琉球政府計画局に就職する。沖縄大学の講師、県議会議員や副知事などで活躍した。

平成6年12月に細川非自民政権をつくった小沢さんを中心に『新進党』を結成する。その2ヵ月前翁長氏が参議院議員になっていた私を尋ねてきた。『私の沖縄政治論』という著書を持参し、「国政に参加したい」との相談を受けた。著書には〝自立して孤立せず〟という、翁長氏の信条が書かれていた。残念なことに、翁長氏の「志」を、小沢さんも私も叶えることができず、その後の政治混迷のなかでそのままとなっていた。

昨年の夏になって安保法制や辺野古問題で安倍自公政権の暴政が止まらなくなる。平成時代となって米ソ冷戦終結後の小沢自民党幹事長は、これらの問題に中心的に関わっていた。私はその下で衆議院委員部長や、参議院議員として手伝った経緯を整理しようとなった。その後、私が「苦闘を続けている翁長知事は学生運動の同志・翁長助裕氏と一族か親族か、どんな関係か」と、玉城デニー事務所に調査を依頼した。昨年12月、何と、翁長知事の5才年上のご兄弟であることがわかった。そして6年前に他界されたということもわかった。

そこで小沢さんに、新進党から国政に出たかった翁長助裕氏の仏前にお参りし志を叶えることができなかったことを詫び、辺野古問題で翁長知事の勝利を祈りたいので、年明けに沖縄を訪問したいと話すと「自分も行こう」となった。玉城事務所に依頼して、翁長未亡人のご理解を頂き、訪問することになったところ『県民ネット』の有志と米軍基地移設問題で意見交換会を行うことになった。

2月14日、那覇空港に出迎えてくれた山内スエコ県議会議員の案内で、未亡人が住む翁長邸を訪ね、仏前にお参りした後の未亡人の話に、懐かしさのあまり涙が出た。翁長氏と夫人は那覇市で中学時代からの初恋で、東京に出た翁長氏を慕って実践女子大学時代に進み、学生同士で一緒に生活していたとのこと(前期神田川時代か?)。当時「ゼミや学生運動のことでいつも平野さんのことを話していました」と語られ驚いた。

私が、昭和34年版大学院のガリ版刷りの名簿を持参していたので、翁長氏の住所を見て「世田谷区の松原町で同棲していたのですか」というと、小沢さんが「私の家の近くですよ」と、初恋を実らせた話に感心して翁長邸を辞した。基地移設問題・意見交換会は「ロワジールホテルズ沖縄」で、午後5時から約1時間、私が小沢さんの下で沖縄米軍基地問題で関わり、公開されていない実態を説明した。意見交換で小沢さんが顔を出し、白熱した懇談会となった。ポイントは、

1)平成2年~6年にかけて高知西南地域の国有地にPKO訓練センターを誘致し、そこに沖縄米軍基地の一部を移設する為、高知県の費用で「基礎設計構想」をつくったが挫折したこと。

2)平成9年の「駐留軍用地特別措置法改正案」(認定土地等の暫定使用等)をめぐり橋本首相と小沢新進党党首の会談で、小沢党首が「沖縄基地の縮小・整理・移設のため法律をつくれ」と要求し決裂した話。翌日の再会談で「沖縄県民の意思を生かし基地の整理・縮小・移設を国が最終的に責任を負う仕組みを整備する」などを合意し、沖縄基地の混乱を回避したが、自民党政権は合意を反故にした。

等の話であった。詳細な内容は次号からのメルマガで報告する。

辺野古問題は、「正義は翁長知事にあり」を本土の多くの国民が理解するかが鍵である。十八日には豊島公会堂で集会が予定されているが、運動を成功させるためには、主催者の誠実な企画のもと、全国民的発展となるよう関係者の配慮が必要と思う。

〇 「政治とカネ」、自民党悲喜劇物語 (2)
1)自民党結成と「政治とカネ」
イ)岸信介首相の「政治とカネ」(続き)
岸信介氏は昭和23年12月24日にGHQの特別の配慮で、巣鴨刑務所から釈放された。それは7名のA級戦犯が処刑された翌日のことであった。釈放された岸信介氏は、CIAの諜報活動に協力していく。そのための資金は米国CIAから供給されていたとの情報が、多くの専門家から指摘されているがそれを証明する文書はない。理由はこの時代の米国の公文書の多くが公開されず極秘扱いとなっているからだ。CIAと岸氏の間には相当な問題があることは疑いようのないことだ。

岸政権となってからは、総選挙用に秘密資金を米国側に要請し、CIAから供給されている。これは平成9年に米国国立公文書館から公開された文書の中に、昭和33年岸内閣の大蔵大臣・佐藤栄作氏(岸首相の実弟)が駐米大使・マッカーサーあてに出した文書があり、CIA資金が日本の政権に供給されたことが証明された。岸首相時代の自民党にCIA資金が供給されたことを証明する話が、もうひとつある。昭和51年にロッキード事件国会が紛糾している最中、米国のマスコミが元国務省高官の話として、「日本のひとつ以上の政党にCIAからの資金が供給されていた」と報道し、大騒ぎとなった。当時、前尾繁三郎衆議院議長の秘書をしていた私が直接聞いた話である。

「昭和35年7月に、岸内閣から池田内閣に代わって、僕(前尾)は、益谷幹事長の下で経理局長をやっていた。その時、CIAの関係者が来て益谷幹事長と一緒に会った。要件は〝岸政権に引き続き、自民党に資金を出したい〟という話だった。幹事長と2人で断った。外国から政治資金を貰うようでは独立国ではない」。

これらの話は氷山の一角だ。岸信介というA級戦犯容疑者が、米軍によって釈放され政治家として最高の地位を占めてもCIAという、米国の諜報機関からの資金を活動の糧としていたことは確実といえる。岸首相の孫で安倍晋三という政治家は、祖父が受けた米国からの恩恵に報いるため、自発的対米従属政策を〝これでもか、これでもか〟と展開している。

岸首相の「政治とカネ」はこんなものではない。前尾議長時代に在日ネパール国大使からの陳情で「首都のカトマンズに水力発電所建設計画があり約30億円の建設費を無償援助して欲しい」とのこと。日本の皇太子殿下ご夫妻が訪問することもあり、前尾議長は出身の大蔵省に援助するように要請した。当時の高木大蔵事務次官にさんざん文句を言われたが、成功した。

ネパール大使が喜んで、私に「前尾議長の知っているコンサルタント会社を紹介して欲しい」とのこと。前尾議長に報告すると「そんな話に応じるな!。ほっとけ!」と取り合わない。しばらくして、ネパール大使から「岸元首相の事務所を通じて日本工営にお願いしました」との話があった。興味があったのでこの業界に詳しい人物に話を聞いたところ「岸事務所はまだそんなことをやっているのか。多分、3%程度の口利き料を取っているだろう。

それにしても自民党の大物はほとんどやっているよ。前尾さんは真面(まとも)というよりも変わり者だよ。岸首相時代に国会でしょっちゅう問題になっていた東南アジアの賠償疑惑。あれは、岸首相個人や岸派の金蔓(かねづる)だったよ。税金を使って、賠償金を相手国に払い日本の商社なんかに仕事をさせて3~5%をキックバックさせるんだ。ネパールの発電所の手法もそれだよ」

これが自民党の「政治とカネ」の原形といえる。こうなると日本の国会というところは、「税金を裏ガネに変える」というマネーロンダリング機能を果たしているといえる。自民党という政党が存在するかぎり、この「口利き政治」はなくならない。私がこんな悪態を吐くには理由がある。安倍政権を支える谷垣禎一幹事長は前尾繁三郎衆議院議長の後継者として知られている。政治信条からいえば私とは兄弟関係であった。その谷垣氏が理性をかなぐり棄てて安倍首相に追随し、自民党の劣化ならまだしも、日本政治の劣化に躍起になっていることに、激しい憤りを感じている。
(続く)

残念ながら、平野貞夫代表の「岸信介批判」には納得できない。孫崎享氏の「戦後史の正体」は岸信介首相(当時)は、米国に騙されるふりをして米国からの自立を図ろうとしたために、「米国によって60年安保闘争」を起こされ、失脚させられた旨、記述がある。

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