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「日本一新運動」の原点(205)―非立憲(ぴりけん)政治は日本を滅ぼす

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観
○ 非立憲(ビリケン)政治は国を滅ぼす!
憲法上やってはならない政治をビリケン(非立憲)政治という。古い話になるが、大正5年(1916年)10月9日に発足した寺内正毅内閣に、大正デモクラシーに生きた日本の民衆は、超然内閣の「非立憲」をひっかけて「ビリケン内閣」というあだ名をつけた。また、寺内の頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、これにかこつけたとする説もある。この、寺内ビリケン内閣が、いくつかのことで、現在の第2次安倍内閣に似ている。

先ず、寺内内閣は幕藩政治の長老・山県有朋が大隈重信首相を批判して、自分と同じ長州(山口県)閥の陸軍元帥の寺内正毅を後継首相に推したのである。安倍首相も長州閥のDNAを持つ、代表的政治家だ。時は第1次世界大戦の真っ最中で、政党政治を避けた最後の超然内閣であった。寺内内閣は外交と内政で行き詰まる。理由のひとつは「シベリア出兵問題」で、もう一つは「米騒動問題」である。

《シベリア出兵問題》 第1次世界大戦中の1917年(大正6年)ロシアで革命が起こり、10月にはソビエト政権が成立する。シベリア出兵は、10月革命直後、パリで開かれた「連合国軍事会議」でフランスが提案したものだ。各国の足並みが混乱する中で日本は積極的に応じ、連合国参加国から満州などの独占支配を狙っていると警戒される。

日本にとって何が残ったか。第1は、宣戦布告のない戦争の始まりであった。無限定に戦域を拡大させる日本は国際的非難を厳しく受けるようになる。日本は国際的孤立を深め、寺内内閣のあせりの外交は完全に失敗に終わる。第2は、各国はソ連での反革命政権が消滅した1920年(大正9年)に撤兵したが、日本だけが駐兵を1922年(大正11年)まで続けた。この愚かな政策が満州事変・日中戦争、そして太平洋戦争の遠因となり、我が国破局の序章となった。

シベリア出兵から96年を経た2014年、ロシアで何が起こっているか。「ウクライナ問題」は21世紀の国際情勢を異常に緊張させている。その最中、安倍首相は世界に誇るべき「憲法9条」を解釈変更し「集団的自衛権」の行使を可能とするよう目論んでいる。近隣諸国との外交関係の幼児性を友好国が危惧するに至っている。

《コメ騒動問題》 戦争の悲劇は成金の誕生と生活の破壊におびえる民衆を増大させる。河上肇が、『貧乏物語』を単行本として刊行したのは、寺内内閣が成立した翌年の大正6年である。物価の高騰で困窮する国民生活を放置して、製鉄業奨励法など高度成長を助長させる政策をとり続けた。翌7年には商社や米商人の買い占めなどで米価が異常に高騰した。

7月になって富山県の魚津で、漁民たちが北海道に米の積み出し作業中の汽船に押し寄せて積み出しを阻止する実力行使に出た。これが契機となって、富山県全域に騒動が拡がり、8月には全国に波及した。マスコミは「米騒動の原因は、成金の跋扈を放置した寺内内閣の失政にあり」と報道。政府は発禁など弾圧したが、記者大会などが開かれ言論擁護・内閣弾劾を決議した。そして、「非立憲内閣」の専制を攻撃し、長州閥・陸軍閥の寺内内閣の退陣を要求して「立憲内閣」の成立を求めた。

寺内内閣の対策は遅れ、米騒動の沈静策は天皇陛下からの300万円の寄付や富豪からの義援金などで対応した。米騒動の原因を検証すると、不況下で困窮する民衆には消費税増税など8兆円にわたる負担を強要し、大企業には企業減税を含むアベノミクスで大儲けさせるという、安倍政治の行く先を連想させる。当時との違いは、社会正義とは何かを理解できない現代のマスコミの存在にある。

寺内内閣は「シベリア出兵問題」と「米騒動問題」という外交と内政に責められ、四面楚歌となる。9月に入り寺内首相は辞意を表明する。後継者の見通しがつかず政治空白が続いた。元老・山県有朋は本格的な政党政治を嫌い、西園寺公望を推したが固辞される。西園寺公は、政友会総裁で岩手県出身の原敬を推薦した。山県は時代の流れに抵抗できなかった。

さて、現代の政治に話を戻そう。安倍首相が拘る「憲法解釈による集団的自衛権行使問題」を、ウクライナ問題が紛糾する中で実行することになれば、私の推測として寺内内閣の「シベリア出兵」に似た形で、国際社会は反応すると思う。となると、日本は国益を武力によって実現する国家になる疑惑を持たれ、国際社会から孤立していくことになろう。

経済政策も消費税増税を重ねて実施し、アベノミクスという大企業や富裕層中心の政策を続けていくとどうなるか、格差社会の拡大が国家社会の劣化となることは必至である。今、最も急がれるのは「非立憲(ビリケン)政治」にストップをかけることだ。そして「立憲政治」の再生である。歴史は知ることではなく学ぶものだ。

○ 「集団的自衛権」のどこに問題があるのか!
1928年(昭和3年)、日本を含む15ヶ国(その後62ヶ国)で締結された不戦条約は「いかなる場合も国策の具としての戦争を禁じる」という内容であった。現実的でなく、第2次世界大戦後に結成された国連では、憲章51条で「加盟国に対して、武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という条件をつけて、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」の行使を認めた。

国連憲章の精神をもっとも体している日本国憲法は、第9条1項で「その目的を達するため陸海空軍など戦力を持たず交戦権を認めない」とした。個別的・集団的自衛権を禁止とは明記していないが、それらに基づく武力行使を否定したものである。しかし、第2次世界大戦後の国際情勢は、国連憲章の理想主義で秩序を保つことはできなかった。

米ソの対立は朝鮮戦争となり、中国で共産党政権が樹立すると、東アジアの緊張は日本国憲法九条の解釈運用に影響を与えた。制定当初、吉田茂首相は国会答弁で「個別的自衛権の行使」すら否定していた。朝鮮戦争を機に、警察予備隊から自衛隊の設置となる。そのため、戦力の保持を禁じた第2項との整合性が必要であった.自衛隊を「自衛のための実用最小限度の実力」と、憲法上の立場を位置づけた。これを解釈改憲と批判する勢力もあったが、国内も国際社会の大勢も日本が国際社会で生きていくための知恵と理解を示した。

その後も「自衛権」の行使についてさまざまな議論があったが、昭和56年(1986年)に、政府が国会に提出した答弁書で、『自衛権の行使は必要最小限度にとどめるべきで、自国が攻撃を受けていない状態で武力を使う集団的自衛権は、その範囲を超えるため憲法上許されない』との見解を示した。これが憲法解釈の限界である。国民の大勢も、これで憲法の生命線である平和主義の「首の皮」が護られたと理解している。

日本は「集団的自衛権を行使すべきだ」との意見が高まるのは、イラク戦争が始まった頃、日米の安全保障を裏で操っている「安保マフィア」といわれる人たちからである。北朝鮮の核実験や、中国の軍事費増大の状況下、政府自民党だけではなく、民主党の中にも拡がっていく。第一次安倍内閣は、集団的自衛権を使える道筋をつくるべく元官僚や大学教授ら安保マフィアからなる「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」という、私的諮問機関を発足させたが、安倍退陣で中断し、後継の福田康夫首相は慎重で構想は頓挫した。

第2次安倍政権が復活するや「集団的自衛権容認論」が急激に動き出した。容認派で知られる在仏大使・小松一郎氏を、強引に「内閣法制局長官」に起用したものの、内閣法制局の中には常識派がいて混乱している。安倍首相は国会答弁で「集団的自衛権の行使が認められる判断は、政府が新しい解釈を明らかにすることで可能だ」と繰り返し、閣議決定で容認する仕組みをちらつかせている。

安倍首相や石破自民党幹事長が「集団的自衛権容認論」を主張することについて、私は反対だが「発言するな」とはいうつもりはない。問題は閣議決定で容認すれば済むという立憲政治を冒涜した主張は許せないことだ。何故堂々と「憲法改正手続(国民投票)で行う」と主張しないのか。こんな彼らを、大正デモクラシーに生きた民衆は「ビリケン(非立憲)政治家」と揶揄したのだ。今の日本は、果たして立憲政治が行われているのか、はなはだ疑わしい。

問題の本質は、安倍・石破氏らの知性や理性にあるのではない。東大法学部で教育を受けた元外務次官や、大学教授らの「安保法制懇」にある。国際政治も経済も激変、新しい緊張が東アジアと東欧に発生している状況で、米国も日本の右傾化を心配して、集団的自衛権容認に慎重な姿勢を示し始めてきた。この事態を認識せず、元老ぶって判断力のない、ビリケン二世政治家を呷っていることだ。

米国によるベトナム戦争などは、国連の集団的自衛権を口実に始まった。結果はあのとおりだ。もし、日本が集団的自衛権による武力行使をできるようになれば、憲法九条は無きに等しくなり、再び戦争の道を歩むことになる。すでに安倍政権は〝積極的平和主義〟という嘘言で「戦前回帰の政治」を始めている現実を直視すべきだ。

最大の問題は、「集団的自衛権容認論」の放言を放置している国会である。良識ある国会議員は、超党派で「閣議決定による集団的自衛権容認論は憲法99条(遵守義務)違反」との国会決議案を提出し、全国会議員に踏み絵を踏ませるべきである。国会議員の憲法認識をテストする最上の機会にもなる。
(了)

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