日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

(「春夏秋冬の会」発足!)

9月18日(木)、北青山にある表参道総合研究所セミナールームで開かれた「春夏秋冬の会」の出席した。私の高校(高知県立清水高等学校)の後輩で在家僧侶の田中久順氏が仕掛け人で、定期的に私の話を聴く会らしい。自営業の人たちが中心で「日本はこのままでよいのか!」との共通認識をもつ人たちの集まりだ。


初回は「安倍政権の裏話」を話せということで、関心を持たれた話題の要点を紹介しておこう。

1)閣僚・党四役あわせて23名の内、まったく知らない人が4 名だから、ほとんどの人物を知っているといえる。内閣の本性は「デング熱」ならぬ「テング内閣」だ。

2)谷垣幹事長は、私の人生の師・故前尾繁三郎元衆議院議長の後継者で、政治理念や政策の後継者だ。前尾門下からいえば私の弟分である。「人間の絆」が信条で、前尾さんの影響だ。政策的にはアベノミクスと対立する考えであり、同じ政党にいることも不思議だが、幹事長に就任して全力で支えるとのことなので、自己の理念を放棄したといえる。政治家として失脚と同じだ。

3)二階総務会長と石破地方創生大臣の2人は、政治改革を目指して一緒に自民党を離党した。二階氏には国会運営を教えた。石破氏は父親にコンプレックスを持つ孤独な二世で、話し相手になって政治の道を教えた。2人とも権力や利権に生きるために自民党に戻った。

4)甘利経済再生大臣の父親・正氏は、昭和の二宮金次郎といわれた立派な政治家で私と縁が深く、ある時箱根に招かれ「息子は政治家に向くのか」と面接したことがある。父親とはまったく異質な政治を続けており、残念だ。

5)高市総務大臣が平成5年7月の総選挙で、無所属で当選した時、自民党を離党して結成した「新生党」に入党する予定だった。条件が「ゴキブリが嫌いだから、新築の宿舎に入れてくれ」とのこと。衆議院事務局出身の私が細工を労して新築の高輪宿舎に入れたが約束を破った。当時、自民党・森喜朗氏に口説かれたのが原因との噂があった。

○日本国憲法と「国連の集団安全保障」(8)

平成3年9月、海部政権が命運を懸けた政治改革3法案は廃案となり、PKO協力関係法案は継続審査となった。海部首相は衆議院の解散を決意したが、自民党の大勢から抑え込まれ、10月に任期満了となる自民党総裁選挙への出馬も断念せざるを得なくなった。国民世論は政治改革の挫折を厳しく批判した。

10月になって、ようやく小沢氏が病気療養から復帰する。政治改革の芽を残すべきだと設置されたのが、自社公民4党の幹事長・書記長が参加する「政治改革協議会」であった。そして政局は、自民党総裁選挙となる。

(宮沢喜一自民党総裁出現の裏話!)

10月5日の自民党総裁選を争ったのは、宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博の3人であった。この3人に絞られるまでに、金丸経世会会長が、自派の竹下派から候補を出すことにこだわった。金丸会長は経世会を説得し、小沢会長代行を擁立することになった。一時、小沢総理総裁確実との噂が飛び交い、あわて者の朝日I記者などは「平野さん、小沢総理に決まる。事務局を辞めて総理秘書官だよ。気持ちの準備をしておけよ」と電話までよこした。

私は「小沢さんは絶対に応じないよ」と突っぱねると、「総理になれるのに受けなかった政治家はいない」と口論となった。

小沢氏は恩師・金丸信の命令を頑なに断った。「まだ修行が足りないし、総理にふさわしい先輩がいる」と言い続け、結局金丸会長も諦めた。その代わり経世会として3人の候補者のうち誰を支持するか小沢会長代行が3人と面接して推薦するよう指示した。これが巷間で有名な「総裁候補面接事件」である。

マスコミが誤解と誤報を繰り返し、小沢氏を生意気な若造として決定的に悪いイメージを国民に植え付けた。小沢氏は、もっとも尊敬する宮沢喜一氏を推薦することになる。政治改革の実現と国連協力による安全保障体制の整備について意見が一致したことによる。後日、私が渡辺美智雄氏に直接聴いた話だが、「当日は日曜日の大安でホテルの部屋がとれず、やむを得ず候補者が十全ビルの小沢事務所に行くことになった。

有意義な懇談で、政治理念や政策の基本について話し合ったよ。鄭重な対応で、マスコミがいう生意気なところはなかったよ。あれは同席した渡辺恒三が、金丸さんがあんまり〝小沢〟〝小沢〟というものだから、嫉妬からマスコミに誤解を与えるようなことを言ったんだろ」とのこと。

(宮沢政権によるPKO協力法の審議)

11月5日、第122臨時国会が召集され、海部内閣が総辞職し、宮沢内閣が成立した。宮沢首相は、私の人生の師・故前尾繁三郎元衆議院議長の後継者であった。本来なら、大平さんより先に首相に就任すべき人材であった。私とは前尾先生の同門となる。小沢氏は宮沢さんの人柄を尊敬し、政治理論を評価していた。ポスト中曽根時代に公然と「宮沢政権」を主張して、竹下さんから注意を受けていた。そんな関係で小沢氏と私は、宮沢政権のスタートの時期には懸命に支えていたことになる。その宮沢政権に、小沢―平野コンビは、2年後の平成5年6月に「宮沢内閣不信任案」を可決させることになる。政治のダイナミクスとは恐ろしいものだ。

宮沢首相は国会での所信表明で、PKO協力法案など(衆議院で継続)の成立・政治改革への取り組み・「生活大国」づくり等を表明する。11月20日には衆議院国際平和協力等特別委員会で継続となっていたPKO協力関係法案の審議を再開させた。社会党は自衛隊の参加に厳しく反対し、国連協力を選挙監視など非軍事に限定する「国際平和協力活動等に関する法律案」を対案として提出した。

臨時国会中に継続した政府案を成立させたい自民・公明・民社3党は、中央公聴会と地方公聴会を終えた同月27日、国際平和協力等特別委員会で、社会党と共産党の反対を押し切って強行採決を行った。これまでの強行採決は、自社両党で非公式に打ち合わせたうえで、社会党から公明・民社に説明して行われていた。それが社公民路線であった。

一転、PKO協力関係法案の審議からは、自公民路線になって社会党への相談なしの強行採決だった。社会党の怒り方は尋常ではなく、特別委員会での強行採決の際の暴力行為は議会政治の限界を超えていた。委員長席のマイクを破壊し、速記者の執務妨害は犯罪的であった。社会党は複雑な党内事情があり、土井委員長―山口書記長体制が、7月30日には、田辺誠委員長―山花貞夫書記長体制に変わっていた。田辺―山花体制は宮沢政権に心情的に理解を示していた。

当時、宮沢政権では無役の小沢氏が事態収拾に動き出し、小沢―平野コンビでつくったのが「委員会の採決は法規上有効であるが、委員会で補充質疑を行ったうえで、確認のための採決を行う。そのうえで本会議に上程」との収拾案を、自民・社会・公明・民社四党の国対委員長に個別に内示したところ、11月29日午後7時に、社会党の村山富市国対委員長から呼びだしがあった。社会党国対委員長室に顔を出すと、田辺誠委員長以下が揃っていて議論が始まった。

○山花書記長 社会党は強行採決の速記録も採れていないので当然無効の主張だ。法的に有効と議長が認めた根拠を説明しろ。

○平野委員部長 委員会の議事整理権をもっている委員長が議長に報告書を出し、それを議長が認めた。

○山花 委員長の報告書は誰がつくるのか。

○平野 私の責任で事実をもとにつくる。

○山花 強行採決を有効とするなら、補充質疑とか確認のための採決を法的にどう説明するのか。法的根拠のないことをするな。

○平野 不正常を正常にするために、社会党も参加して各党とも合意しようというので先例を考えてつくった案だ。議会政治の生活の智恵だ。

(こんな議論の中に、土井前委員長が顔を出し)

○土井前委員長 平野さん、貴方、与党にばかり知恵を出さずに、国民のために知恵を出してよ!(自衛隊別組織でない影響か)

○平野 私は要請があれば党派を問わず誠実に対応している。それほどいうなら、来週議運委員会の場で公開で議論しましょう。今回の議事で社会党の暴力が異常であったことを公表します。

○田辺委員長 平野君怒るな。実は来週、社会党両院議員総会で山花書記長に厳しい追及があるので、その練習のためなんだ。

 私との議論の後、午後8時半から4党の幹事長・書記長会談が開かれ、合意した。これが当時の社会党の本性であった。懸案のPKO協力関係法案は12月3日に衆院本会議で議決し、参議院に送付された。
(続く)