日本一新の会・代表 平野 貞夫妙

(「土井たか子元衆議院議長の想い出!)

9月18日(木)、九州は豊後国から久しぶりに上京した事務局の大島氏に、本会顧問の戸田氏を交え、戸田氏が住む四谷荒木町の〝駒忠〟という、池波正太郎の小説に出てくるような居酒屋で、夕刻から暫し〝怪談〟した。
戸田顧問と私は官僚・国会議員として、大島氏は市井からそれぞれに長い間政治と関わってきたが、その共通項は、何故かしら〝カネ〟と〝肩書き〟に縁が薄いことである。

四谷荒木町のさびれた〝居酒屋〟は、この3人にふさわしいたたずまいであった。3人が駒忠を出て、江戸の風情を僅かに残す路地を散策したとき、私はふと「土井たか子さん」を思い出して話題にした。「衆議院事務局勤務時代には、この辺りにあったスナックに土井さんに呼び出されて、よくカラオケを唄いに来たよ。もう30年以上も昔になるかな・・・・」と。報道によれば、土井さんの死去はその2日後であったというから、何かの縁ではと感じた。

話題に両氏が驚くので、「土井さんが衆議院に当選したのが、昭和44年12月、小沢さんと同期だった。2人とも憲法に煩い政治家で、特に土井さんは野党の立場で国会関係の憲法の解釈や運用に異論を主張していた。その相手が私で、特に田中内閣のころの国会では強行採決が多く、「しばしば、前尾議長のところに抗議に来たのが土井さんだった」などの思い出話だった。

前尾議長への抗議を憲法などの議事法規論で対応するのが、秘書である私の仕事で、「学者の憲法論なんか、そんな程度か」と、口論が絶えなかった。土井さんの捨てゼリフは「前尾議長は立派な人格者で最高の議長だが、議長秘書の平野さんが〝ワル知恵〟を出すことが問題」だった。原点―232号で紹介したが、PKO法案の強行採決の後始末について土井さんから「平野さん、与党にばかり知恵を出さずに、国民のために知恵を出してよ」とお叱りを受けた。こんな後に、「今夜、時間があったら荒木町に来てくれない」と誘いの電話があった。土井さんはこんな人だった。

さて、小沢さんと土井さんの関係だが、これが面白い。2人は同期というだけではなく、憲法を大事にしようということでは共通の感性を持っていた。平成13年ごろ、小泉内閣が続くと格差社会が深刻化する。野党は協力して政権交代をさせるべきだと、民主党・自由党・社民党が真剣に話し合った。小沢自由党党首が「憲法への考えを共有しないと、政権交代での連立政権は不可能だ」と主張した。

土井さんはそれに応じ、定期的に「小沢・土井会談」を開いた。ワインを飲みながらの議論で、いやがる私を引っ張り出した小沢さんはほとんど喋らず、ひたすらワインばかりを飲んでいた。土井さんが「今日は憲法の話はしないわよ!」といって会食が始まってつかの間、「平野さん、一審無罪を控訴できないよう憲法改正はできないかしら」と、自分で話を振ってくる。しかし最後は「小沢さんの憲法観は健全だけど、平野さんは不健全な憲法観よ、反省しなさい」であった。

土井さんを、史上初の女性衆議院議長への道をつくったのは、小沢さんと私だった。土井さんは会うたびに「貴男の謀略だ!」と怒っていたが、そんな不純な意図は微塵もなかった。彼の世で理解してくれていると思う。

○「国連の集団安全保障」(11日本国憲法と)

PKO協力関係法案で衆議院の混乱が一段落し、宮沢首相のリクルート問題も収まった平成3年12月13日だった。その日の夕方、国会裏の東急キャピタルホテルのロビーを歩いていると、武村正義衆議院議員から呼び止められた。「平野さん、丁度良いところに来た。大事な人物を紹介しておくよ」と、紹介されたのが四元義隆さんだった。

高知県知事選挙で、何回か面談を要望され、断った経緯のある人物で『政界の黒幕』といわれる超大物だった。一瞬緊張したが穏和な老人で「武村君、紹介はいらん。よく知っているよ」とのこと。「その節は大変ご無礼をしました」と挨拶すると、「いやいや気にしないで欲しい。それより、先ほどまで竹下元総理と会っていた。君の話が出て、来年の参議院選挙で高知地方区から出したい、と言っていた。日本のためにも頑張って欲しい」との話。今度は断れないとは思いつつも、まだ腹が固まらない状態だった。

翌日、小沢さんから呼び出しがあり、国会裏の事務所で会った。要件は、翌4年7月に予定の参議院選挙戦に高知地方区から出馬してはどうかとの話だった。竹下元首相から、説得してくれとの話から始まった。要点は、高知には経世会(竹下派)の国会議員がいない。自民党県連から公認要請の谷川寛三科学技術庁長官は、知事選敗北の責任もとらず県民から批判も多く、年齢も70歳を超えている。保守系無所属で出馬し、当選すれば自民党に入り経世会で、政策立案や国会運営で活躍してもらいたい、ということだった。

「気にかけてくれることは有り難いが、現在の状況の自民党に入る前提で、国政選挙に出馬することに抵抗感がある」。「それはわかる。政治改革にしろ、国連中心の安全保障体制の整備も事務局にいては限界がある。国会議員で一緒に実現したい。竹下さんは経世会の強化を考えているが、国会議員には簡単になれるものではない。騙された振りをして話に乗ってくれ。まず、自民党の改革をやろう。それができなければ、自民党に代わる政権をつくろう」という話で、年明けに返事することになった。

年末から年始にかけて、故里の高知では自民党支持者の間で世代交代論が起こり、私の参議院選への出馬の流れが強まってきた。親族の反対論も出馬容認論に変わり、友人たちからも出馬要請の電話が入るようになる。自分自身の腹が固まらず、小沢さんへの返事の日(1月10日)が迫った前日の九日だった。正午ごろ、突然元衆議院議長の田村元氏(三重県2区)から電話があった。「わしの祖父は高知の出身で、いまの高知の政治はおれが仕切っている。次期参議院選は既に谷川で固めている。それを、竹下や小沢におだてられ、俺に抵抗する気か。どうしても出るなら、俺が谷川の選挙本部長になって、おまえをつぶしてやる」。

田村議長といえば、吉田茂・林譲治さんたちと親しく、短期間ではあったが平成元年に衆議院議長に就任した時、私は献身的に世話をした。この電話で、高知県自民党政治の利権談合の様子がすべて理解できた。この、自民党政治を改革することを訴えるだけで、例え落選しても出馬の意義はあると決断した。

「お言葉は肝に銘じておきます」、「君も林譲治さんの薫陶を受けた〝土佐のいごっそ〟だ。もう何もいわん!」ということで、翌日小沢さんに返事をした。問題は衆議院事務局を辞める時期である。地元からは「すぐ辞めて帰れ」との催促。

ところが、宮沢政権に難題が起こる。「共和汚職事件」が発覚し、宮沢派関係者に巨額な政治献金が渡ったと報道された。その中で、鈴木善幸元首相と塩崎潤衆議院議員の疑惑が問題となり、野党側は国会での証人喚問を要求した。衆議院予算委員会での平成4年度総予算の審議が遅れ、正常化させなければ、事務局を辞めるわけにはいかなくなった。

連日のように宏池会(宮沢派)の国会議員が私の部屋に押しかけ、証人喚問を避ける方策を考えろと、鈴木元首相を義父とする麻生太郎氏を先頭に要請してきた。例によって小沢―平野ラインで、鈴木元首相を参考人、塩崎議員を証人として衆議院予算委員会に招致することで野党側を説得、ようやく国会を正常化させた。総予算の衆議院通過が確実となったことを見届けて、平成4年2月28日、事務総長に辞表を提出し、33年間にわたる事務局勤務の幕を閉じた。

翌2月1日、私は高知市の県庁記者クラブで出馬表明を行った。選挙公約の中心は、「政治改革の狼煙を自由民権の土佐から」、「ジョン万次郎記念国際貢献PKO訓練センター誘致」などであった。私が衆議院事務局を退職した後の国会は、参議院でのPKO協力関係法案審議の歴史的混乱であった。社会党は全国会議員の辞職願を提出するなど、議会政治の放棄まで行う。そんな国会を気にしながら、7月の参議院選挙のため高知県下を挨拶回りする毎日だった。

その挨拶回りでPKOの課題に出くわす。高知市の郊外にある「ミロク製作所」を訪問したとき、そこがブローニング社の日本支社になっていた。世界的に名高い散弾銃(猟銃)のメーカーである。これには驚いた。フランス国家警察の依頼でデモ対策用で殺傷力のない銃を試作していた。PKOに参加する自衛隊が持参する護身用に最適と試射に参加した。小沢さんに報告して政府内部で検討したが、この問題は20数年を経ても解決していない。 
(続く)

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