「日本一新運動」の原点(273)ー戦争法案廃案の死角⑧

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○安全保障法制関連法案を廃案にする〝死角〟がありますよ!8

(戦前の軍事国家に回帰しようと謀る安倍自公政権に抗議する)
安保法制国会も狂気の会期延長で、違憲立法を成立させることに死に物狂いになった安倍自公政権は、早期の衆議院通過を虎視眈々と狙っている。それに対峙する野党は隔靴掻痒の質問ばかりだ。どうも、ほとんどの国会議員が「集団的自衛権」の歴史と、本質を知らないようだ。

1)第2次大戦後の戦争の大勢は、集団的自衛権の〝乱用〟であった。
メルマガ269号(6月13日の日刊ゲンダイで報道)で整理したように、国連が発足して70年という歴史の中で、14件の集団的自衛権行使が報告されている。うち、1990年の湾岸戦争と、2001年のアフガン戦争の2件は、国連集団安全保障に類する国連決議がなされており別枠としておくことが適切である。国際世論は、それでも前者は成功したが、後者は失敗したとしている。

残る12件はソ連圏での民主化運動の弾圧、米ソ冷戦の代理戦争(代表例はベトナム戦争)、植民地を巡る利権戦争などである。第2次大戦後の国際政治は、国連憲章で国家間の戦争を禁止し、国連集団安全保障制度で世界の平和を維持する仕組みをつくったものの、パワーポリティクスというリアリズムの中で、5大国の拒否権と取引するように、集団的自衛権は認められたものである。各国に「戦争を禁止」しておいて、条件をつけて「戦争をする権利」を認めざるを得なかった国連の矛盾を知っておくべきだ。

2)国連憲章・憲法・日米安保条約の歴史を知るべし。
昭和20年8月に日本が敗戦。9月には国連憲章に基づき国連が発足する。同時に日本は占領軍のもとで新憲法の準備が始まる。この時期には米ソ冷戦は始まっていない。連合国は米国を中心に、日本の完全非武装化を実現する。戦前の狂信的軍事国家に再び回帰させないためである。そこでできたのが、第9条の「戦争の放棄」であった。

この問題は憲法制定過程で当然議論となる。幣原喜重郎前首相は、「個別的自衛権も持たず、一切の武力行為を否定するものだ」と論じた。当時の日本共産党は「軍備を持つべし」と論じた。憲法制定責任者の吉田茂首相は、当初「武力行使の自衛権」を否定して連合軍の顔色を見ていたが次第にニュアンスは変わってくる。

最も重要な問題提起をしたのは、当時の貴族院議員で南原繁東大総長であった。吉田首相と金森憲法大臣に「第9条の理念は正しい。しかし日本が国連に加盟したとき、国連が世界平和のために行う活動(国連安全保障)、国連警察軍などに積極的に参加して、第2次大戦の償いを行うべきではないか」と迫っている。この論を日本の多くの有識者は無視した。

憲法制定時から講和条約・日米安保条約、そして自衛隊の設立まで米ソを中心に国際政治は激動する。東アジア情勢も中国共産党の勝利や朝鮮戦争など、わが国の安全保障状況も激変する。その中で米政府は、吉田首相に憲法改正による再軍備を強要する。吉田首相は4つの理由を挙げてこれを拒否する。

1)再軍備は財政上応じられない。戦後復興が出来なくなる。
2)憲法改正に国民は反対する。
3)(戦犯などの復活で)戦前の軍事国家に戻ることが心配だ。
4)再軍備をするとすれば、近隣国家の理解が必要。

米国側のやり方は巧妙で、政府の一部には吉田首相が断った4項目の内、3)の岸信介氏らの戦犯や追放解除で政界に復帰する右翼政治家らへの危惧には理解を示した。一方で米政府のCIA派は、日本を東アジアの反共の砦とすべく、岸グループに資金を提供した。このことは米側の資料などで明らかにされている。

昭和20年代の日本の安全保障は、内外の共産勢力に対応するだけではなかった。米国を利用して、戦前回帰の軍事国家を再生させるという勢力への対応もあった。その渦中で日本がもっとも鬱陶しく思っていたのが、国連の集団的自衛権だった。国連憲章が発効して4年を経た昭和24年、第7国会の衆議院外務委員会で、西村熊雄条約局長は「集団的自衛権が、国際法上認められるかどうか、今日の学者の間に非常に議論が多く、私どもは、その条文の解釈にまったく自信をもっていない」と発言している。

そして、昭和25年6月には朝鮮戦争が勃発し、同年8月には、GHQの要請で〝警察予備隊〟が政令で発足する。この時期に、吉田首相は憲法9条に対して、制定時の姿勢を変えていく。「日本の自衛・独立を保護する戦力というか、方法を禁じたものではない」などと・・。米国との講和条約交渉で、再軍備の強要を断りながら、講和条約発行直後の7月に保安庁法を公布し、警察予備隊を保安隊に改称していく。国民の多くは再軍備への道と、吉田政治を批判する。

米ソ冷戦が激化する中、昭和29年6月には保安隊を自衛隊に昇格させる。「自衛隊法・防衛庁設置法」が成立する。憲法9条に違反するものと、国民運動が盛り上がる。この時期、政府は初めて集団的自衛権について見解を出す。それは前号で述べたように自衛隊法成立の翌日(昭和29年6月3日)衆議院外務委員会で、「集団的自衛権の可能性」について質問が出る。吉田首相兼外相に代わって答弁した下田条約局長の発言である。

集団的自衛権は共同防衛とか相互安全保障条約など特別の条約があって初めて条約上の権利として生まれる。日本の現憲法下でそのような条約を締結することはできないことだ、と説明した上で、自衛権について「憲法で認められた範囲というものは、日本自身に対する直接の攻撃、或いは急迫した攻撃の危険がない以上は、自衛権の名において発動し得ない。」これが集団的自衛権の行使を否定した最初の政府見解である。

重要な余談を紹介しておきたい。昭和29年といえば吉田自由党政権は六年の長期となり、党内抗争や疑獄事件も発覚し国民の大勢は退陣を要求するようになる。11月には「日本民主党」が結成され、自由党から鳩山・岸両派が参加した。総裁に鳩山一郎、幹事長に岸信介が就任し憲法改正による再軍備を基本方針とした。

さらに衆議院で野党が多数となり、第24国会で吉田内閣は総辞職か衆議院解散かの選択を迫られるようになる。自由党首脳の、緒方竹虎や石井光次郎氏らが、吉田首相に退陣を説得するが応じない。国会が召集されたまま空転し、政治が動かなくなる。自由党所属国会議員の総意で、吉田首相の又従兄弟で、吉田政権の中心人物であった林譲治元衆議院議長が説得に行くことになった。林先生は私の父と明治期の旧制中学校からの親友で俳句の仲間だった。私にとって生涯の恩人でもある。

昭和34年秋に林先生から直接聞いた話だ。「第24回国会が召集されて1週間ぐらいたった日、益谷秀次・小沢佐重喜君と相談して吉田さんと長時間話した。率直に、国民が吉田政権を見放している実態を説明し、解散に拘る理由を質したところ、吉田さんは『再軍備のために憲法改正しろ』とか、『戦前への回帰の動きが心配だ。そうならないために退陣しないんだ』と、しきりに言っていたな。最後に僕は『日本国民を信用しましょうよ』と言ったら、ようやく総辞職(退陣)を決断してくれた。やっと吉田さんを口説いて部屋を出たところで一句うかんだよ。
   
「嫌なこと いうて辞去する 寒さかな」
 
吉田首相には2つの政治目標があった。ひとつは「日本を共産主義化させない」こと。二つ目は、それと同じレベルで「戦前の軍事国家に回帰させない」ことであった。昭和30年(1955年)の保守合同で結成された『自由民主党』は「憲法改正による再軍備」を党是とした。しかし、護憲派が衆参両院で3分の1以上の議席を確保し続けるなかで、憲法改正による再軍備を実現することは困難となった。

そこで昭和32年2月に病中の石橋湛山首相に代わった岸信介首相が、吉田首相時代に締結した「日米安保条約」の片務性を改定し、双務的な条約にしようとする。岸内閣が昭和35年1月にワシントンで調印した「新安保条約」は、片務性を若干拡げる程度のもので、集団的自衛権を行使できる「共同防衛・相互安全保障」条約ではなかった。

このことは、新条約調印直後の2月3日の参議院本会議で「新安保条約は、軍事同盟的性格を持つものではないか」との、羽生三七氏(社)の追求に対し、岸首相は「国連憲章に違反しての侵略行為が行われない限り新しい安保条約の防衛規定は発動しない。軍事同盟という言葉は非常に誤解を生ずる」と答弁している。

また、2月10日の参議院本会議で「憲法上、集団的自衛権の行使はできない」と表明した。岸首相は新安保条約の国会審議を、民意に反し強行を重ね退陣に追い込まれる。後継の池田勇人内閣以降、吉田ドクトリンといえる自衛隊法成立の際に出した「集団的自衛権の行使はあり得ない」との政府見解がその後のわが国の国是となる。それは憲法9条の解釈運用の限界であり、それ以上の拡大解釈は「戦前の軍事国家への回帰」への道であるという保守本流の先人たちの憲法理念であった。安保法制の国会審議が迷走するほどに、国民の多くがそのことに気づいてきた。

61年前、吉田首相が退陣を決意したのは「戦前の軍事国家へ回帰しない」と国民を信頼したからである。その保守本流の孫といえる谷垣自民党幹事長や岸田外務大臣たちが、集団的自衛権行使の旗振り役を率先して担い、過半数を超える国民の声を無視している実態をどう見るべきか。戦後70年の節目に「自民党の集団的焼身自殺」を見るのは悲しい。
(続く)

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