「首相」安倍晋三は国会論戦中、「国際情勢が激変している。だから、安保法制が必要だ」と繰り返した。しかし、国際情勢激変は米国軍産複合体の謀略の失敗、ロナルド・レーガン大統領以来の新自由主義政策の破綻によってもたらされたものである。そのことを無視して、国民に対し危機意識を煽り、ナショナリズムの高揚をしかけるのは、安倍が首相としては失格であることの証左である。

米国の「戦争」は独立以来300回近くあるが、謀略によるものも少なくない。ここでは戦後の創作劇をおさらいしたい。「トンキン湾事件」に簡単に触れた跡、湾岸戦争、9・11テロによるアフガン戦争、イラク戦争についてまとめる。

(1)トンキン湾事件によるベトナム戦争の激化と米軍の敗北
Wikipediaiによると、「トンキン湾事件(トンキンわんじけん、英: Gulf of Tonkin Incident, 越:Sự kiện Vịnh Bắc Bộ/事件灣北部)は、1964年8月、北ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件である。これをきっかけに、アメリカ合衆国政府は本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した。アメリカ議会は上院で88対2、下院で416対0で大統領支持を決議をした。しかし、1971年6月『ニューヨーク・タイムズ』が、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」を入手、事件はアメリカ合衆国が仕組んだ物だったことを暴露した」というものである。

注目すべきことはこの事件の前年の1963年11月22日、米国はテキサス州ダラスで白昼堂々と当時の現職のジョン・F・ケネディ大統領がオープンカーに登場、市内でパレード中に狙撃されて急遽病院に搬送されるも、緊急救急集中治療も虚しく死亡。結果的に、暗殺されたことである。当時、日米間で初めて宇宙衛星を使った国際中継がNHKで放映されていたから、サイト管理者にはショックであった。しかし、暗殺の下手人とされたリー・オズワルドがこともあろうにダラス警察本部の地下通路で同本部とも知り合いの多いジャック・ルピーによって射殺されたことから、事件は迷宮入りとなった。

米政府がもうけたウォーレン調査会では、「オズワルド単独犯行」となったが、これに納得するものは米国でもまずいない。ケネディ大統領がマフィア取り締まりを強化したことに対抗したマフィアによる犯行説、ケネディ兄弟によって汚職を追及されつつあった副大統領リンドン・ジョンソン黒幕説、「ケネディ大統領の南ベトナムからの米軍による軍事顧問団の縮小計画と、その後に予想された軍事顧問団の完全撤収が『軍産複合体の利益を損ねる』と恐れた政府の中の一部勢力が、大統領の警備を弱体化して犯行に及んだ」軍産複合体説などの謀略説が挙げられているが、サイト管理者の私見として、は軍産複合体+ジョンソン副大統領の共同犯行説と断定して良いだろうと見ている。公開された映画「ジョン・F・ケネディ」もこの見方に立っている。

というのも、翌年トンキン湾事件が捏造されて米国は北爆を含め、本格的にベトナム戦争に介入しているからである。この戦争で、国防総省の要請を受け、枯葉剤製造で知られるモンサントなど多数の軍事企業が武器・軍事物資を米軍に売りつけた。購入の原資は、米国民の血税である。

しかし、米軍と南ベトナム連合軍(韓国も集団的自衛権の締結を迫られ、やむなく「猛虎部隊」を投入)は結局ベトナム民族解放戦線(ベトコン)+北ベトナムに負けた。軍産複合体が国内で勢力を増す中、民生品の技術開発力が停滞、日本や西ドイツからの高性能で安価な工業製品の輸入が急増。貿易収支は大幅に悪化するようになり、他の先進諸国からはドルの価値が下がることを恐れて1トロイオンス=35ドルに固定されていた金を引き出しにかかった。また、ベトナム戦費が嵩む一方で、ジョンソン大統領がベトナム戦争に対する国民の不満を和らげるため「偉大なる社会の建設」という名目でバラマキ福祉を展開したため、財政は悪化の一途を辿った。

このため、米国政府はジョンソン大統領の跡を継いだリチャード・ニクソン大統領が1971年7月、ヘンリー・キッシンジャーと組んで「忍者外交」を展開し、キッシンジャーと周恩来との間で「米中会談」に乗り出し、デタント外交を開始した。また、財政赤字の膨張と貿易収支の大幅悪化に伴うスタグフレーション(不況下の物価上昇)発生のため同年8月、「金・ドル交換停止」を発表、ブレトン・ウッズ体制の柱が折れた。ニクソン・ショックである。スタグフレーションは1973年、1979年の2次に渡る石油ショックと相まって米国経済に深刻な悪影響をもたらして、ロナルド・レーガン候補の大統領当選によるミルトン・フリードマンの新自由主義政策の導入を許し、本サイトでしばしば言及しているように、米国の壊国を確実にするものになった。

いずれにせよ、米国のトンキン湾事件による「トンキン湾事件捏造」が米国の弱体化を促進することになったのである。

(2)湾岸戦争
冷戦終了後の1990年8月28日に「突如」(その前の7月25日に、サダム・フセイン大統領と駐イラク・エイプリル・グラスピー大使との会談があり、フセインが対イラク侵攻を示唆したという事実がある。これは、さまざまな資料で明らかにされているが、差し当たっては次のブログ投稿記事を参照されたい)としてクウェートに侵攻。

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ジョージ・ブッシュ(パパ・ブッシュ)米大統領は直ちに、国連安保理に募り国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めるとともに、11月29日に武力行使容認決議である決議678を可決したことをもって、米国中心の国連多国籍軍を結成、ただちにクウェートからイラクを追い出し、イラクの一部を占領して停戦になった。一応、パパ・ブッシュは国連中心主義という戦後体制の根幹は守っていた。

ただし、この問題の背景には、「イラク・ゲート」という米国がイラクに大量の武器を売りつけ、イラクが軍事大国になったという事実がある。「レーガン政権下の1983年ころから、ブッシュ大統領政権下でイラクのクウェート侵攻が行われた前夜まで、イラクの穀物輸入に関わって米国政府が供与した総額50億ドルにも上る債務保証をフセイン大統領が化学兵器開発や大量の破壊兵器に充てていた」(豊下楢彦・古関彰一共著「集団的自衛権」192-193頁)という問題がある。

つまり、米国が「敵(イラン)の敵(イラク)は味方」という理屈で、イラクに大量の破壊兵器を売りつけ、中東の「モンスター軍事国家」として育成していたという事実がある。イランと反イランの立場を取るイスラエルは天敵同士である。米国は、自国に都合が良い間は他国(の有力人物)を支援するが、都合が悪くなるとすぐ切り捨てるという習癖がある。

なお、湾岸戦争に際して日本は130億ドル相当の金融支援を行ったが、このうち1兆円を超える資金が米軍になされている。これに関して、イラクの謝意を示した新聞広告に日本の名前がなかったことから、「自衛隊を派遣しなければならない」旨のトラウマが広まった。しかし、2011年の3月11日の東北大震災に対してイラクは「20年後の謝意表明――。中東の産油国クウェートは3月27日、東日本大震災からの復興支援で原油500万バレル(約450億円相当)の無償提供を表明した。湾岸戦争時の恩返しとしてオタイビ駐日大使が27日、石油相の親書を海江田万里経済産業相に手渡した。 500万バレルはクウェート全体の原油生産2日分で、日本の1日あたり原油輸入量400万バレルを上回る規模。震災支援で中国が提供したガソリンやディーゼル油の30倍に相当する」(2011年4月27日21時59分アサヒコム)。「トラウマ」だけ強調するのは、「ためにする議論である」

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