日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

広島県下を襲った土砂災害で犠牲となられました方々には、謹んでお悔やみを申し上げます。 合掌

○日本国憲法と「国連の集団安全保障」(4)

 1956年(昭和31年)12月18日に、わが国は80番目の国連加盟国となった。加盟申請したのが1952年(昭和27年)6月なので、4年半という時間を要した。理由はソ連による3回にわたる拒否権の行使であった。日本が国連に加盟申請した時期は吉田内閣によって単独講和条約を発効させた直後だった。

昭和29年12月に吉田首相が退陣し、鳩山一郎民主党政権に交代。その後、保守合同で鳩山自民党政権ができ、昭和31年(1956年)10月、領土問題を棚上げにして「日ソ共同宣言」が調印された。これによって国連総会は満場一致で日本の加盟を認めたのである。

国際連盟脱退以来、23年ぶりの国際社会に復帰するにあたっての、重光葵外相の加盟演説は、諸外国から高い評価を受けた。要点は、日本憲法の前文は国連憲章の精神で貫かれていること、無制限な国家主権を排して普遍的な政治道徳を信じ、国際社会の名誉ある一員としての地位を占めていくとの格調高いものであった。この演説が翌年の「外交青書」で日本外交の基本方針となる。すなわち「国連中心主義」「自由主義国との協調」「アジアの一員としての立場の堅持」の外交3条件である。

国民は大きな期待を国連外交に抱いたものの、現実の国際政治は米ソ冷戦の激化とともに国内政治にも大きな影響を与えた。そして「たかが国連、されど国連」と酷評されるなか、国連は人権問題や開発途上国問題など、地道な活動を続けていく。歴史は国連への酷評をそのままにしておかなかった。

米ソ両国による過激な軍備拡大競争やグローバルな高度情報化、そして社会主義国家体制の腐敗化などよりソ連圏の崩壊が始まる。それを象徴するのが、1989年(平成元年)11月、ベルリンの壁崩壊であった。そして翌月2日地中海のマルタ島でブッシュ・ゴルバチョフの米ソ首脳会談による冷戦終結宣言であった。ソ連圏の崩壊は世界情勢を激変させ、国連中心の国際政治が全世界から期待されるようになる。

(ポスト冷戦の対応に苦慮する日本政治!)

昭和64年1月7日、昭和天皇の崩御により元号が「平成」と改まる。前年、懸案であった消費税制度を成立させた竹下自民党政権は、長期政権を確実視された矢先に「リクルート問題」の捜査が山場となり、自民党の金権政治が国民の政治不信を生む。竹下首相は自民党の政治改革委員会(会長・後藤田正晴)がまとめた『政治改革大綱』の実現を、自民党全国会議員に要請して退陣した。

竹下首相の後継者である宇野宗佑首相の女性問題や消費税導入の影響か、平成元年7月の参議院選挙で自民党は惨敗し与野党逆転した。崖っぷちに立った自民党は、海部俊樹を総裁に、小沢一郎を幹事長に擁立した。この時期、私は衆議院事務局で委員部長という、国会運営の現場責任者に就任し、これからの日本の政治秩序をどう整備するか、小沢幹事長と連日のように議論した。これらの経過はあまり語っていないので少し詳しく述べる。

ベルリンの壁崩壊直後、小沢幹事長の結論は「世界が変わる。日米安保条約冷戦体制での、一国平和主義・一国繁栄主義で日本はやっていけなくなる。日本が責任ある政治を行うためには派閥解消をいくら叫んでも駄目だ。政権交代ができる仕組み、選挙制度の改革がまず必要だ」とのこと。これを伊東正義・自民党政治改革本部長、後藤田正晴・同本部長代理が理解し、自民党内で衆議院に小選挙区比例並立制を柱に、政治資金の規正と政治倫理確立などの整備に取り組むことになる。

米ソ冷戦終結直後、日本の多くの指導者は、冷戦の終わりを米国の資本主義の勝利だと論じ「平和で繁栄の時代が来る」と期待した。小沢幹事長だけが「パンドラの箱が開いたのと同じだ。東欧圏の混乱や宗教・民族対立が多発する。市場原理の競争経済で国際的混乱が始まる。バブル経済に浮かれた日本人の驕りをどう反省するのか」と断言した。

そして私に「明治以来、世界政治の大変動で日本の政治がどう変わるのか調査して論文を書いてくれ」とまで言いだした。レポートで纏めた結論は「世界で政治が大変動したとき、日本で政党再編が起こる」というものであった。

平成2年2月18日の総選挙は、自民党にとって政権の座を問われるものであったが、議席を減らしたものの過半数を得て安定多数を確保した。小沢幹事長は、これまでの自社55年体制の馴れ合い政治を止めることを社会党に通告するなど、国会運営から政治改革をスタートさせた。

4月23日、海部首相と小沢幹事長が「政治改革に政治生命を懸ける」ことで合意した。5月10日、海部首相は選挙制度審議会の答申を受けて特別記者会見を行い「政治改革に内閣の命運を懸ける」と表明した。自民党内の抵抗と社会党の反発が吹き出た。

小沢幹事長は「政党の指導者が、米ソ冷戦終結とソ連圏の崩壊の意味を理解していない」として、与野党の幹事長・書記長クラスによる西欧各国の選挙制度と政治改革、そして国際情勢への対応と調査を行うこととなる。7月10日訪欧調査団は成田空港を出発。同月25日帰国した。ベルリンの壁が崩壊した現場に立ち、国際政治の激動を実感し、戦後続けてきた日本の馴れ合い政治を改革することで一致した。この調査団に参加したほとんどのメンバーが、3年後の非自民細川連立政権に参加し、政治改革の推進力となる。私もこの調査団に随行したことが縁で、2年後、参議院議員として国政に参加することになる。

(湾岸紛争の発生と国連の活動への協力)

訪欧調査団が帰国し、秋の「政治改革国会」の準備を始めた矢先の8月2日イラク軍がクウェートに侵攻し湾岸紛争が勃発した。8月末、新聞やテレビが小沢幹事長の考えとして「国連憲章の趣旨からすれば自衛隊の派遣も憲法に反しない」との見出しで、大々的に報道した。実は、小沢幹事長と私は夏休みを返上して、国連憲章と日本国憲法の理念と仕組みから、湾岸紛争にいかに対応すべきかを研究していた。

その結果、従来の日米安保体制の下で解決できる問題ではなく、国連の「集団安全保障」の理念にもとづいて検討すべき問題であるとの結論になった。その場合、事態によっては自衛隊の活用も可能ではないか、との議論を行っていた。当時、共産党系といわれる憲法学者ですら「難民救助のため自衛隊の医官や看護婦を人道的救護活動として派遣しても、憲法に違反しない」との意見を公表していた。

ベルリンの壁の崩壊を見て、国際政治に高揚感の残っている小沢幹事長や私が、「集団安全保障」について無知な報道人に、研究テーマとして説明したことを生かじりに報道したのである。「集団的自衛権」と「集団安全保障」の区別を理解できない政府与党や野党幹部、学者、マスコミが上を下への大騒ぎとなった。8月30日、海部首相から小沢幹事長の真意を知りたいとの要請があり、翌31日、小沢幹事長と対応を相談した。
 
真意は明確で要点は次の通りであった。

1)(小沢幹事長は)今回のことで中途半端なことはできないと思う。憲法の文言どうりを守って、まったく何もしないことも政治判断。国際社会の通念、常識の中で日本が生きていくなら、国連憲章、憲法の範囲できちんと対応すべきだ、というのも、ひとつの政治判断。

2)海部総裁の下の幹事長なので、総理が決断するなら党内の説得をするのが自分の責任だ。中東問題は緊急事態が発生する可能性がある。そうなれば「自衛隊の派遣」もいろいろな制約はあろうが、現行制度の運用で理論的に可能である。これからの展開の中で総理が決断するなら、それを支えるつもりで記者団に説明した。国民に関心を持たせることが大事だ。

3)いろいろ批判されているが、社会党の若手には「憲法の前文は、国連憲章の精神そのものだ。緊急時に何もできないことはおかしい」と党執行部を突き上げているし、公明党も医官などの派遣について現実問題として党内論議を始めだした。

週明けの9月3日、私は小沢幹事長の真意をメモにして、海部首相に届けた。その後、小沢幹事長自身からも、直接海部首相に説明したものの、理解されなかった。湾岸紛争対応の臨時国会の召集すら見通しがつかない政治混迷が深まる。
(続く)

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