日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観
「ISIL」(イスラム国)による日本人人質殺害事件について、ひとこと記しておきたい。日本人で中東の歴史を学び、平和と民衆の福寿でもっとも貢献したのは中曽根政権時代の安倍晋太郎外相だった。その息子の安倍首相時代に、こんな惨事とは! 歴史は厳しい。相手は異常集団だ。再発防止のため、惨事発生前後の安倍首相の発言と政府対応の検証が必要だ。父、晋太郎氏の精神を忘れないでほしい。
○日本一新運動・新年会報告 (2)
1月25日(日)の3団体の有志による新年会では日本の戦後政治の根本に関わる鋭い質問があった。メールで送られた2つの質問への回答を補充整理してみる。
(質問要旨)
1)砂川裁判・最高裁判決で日米安保条約は憲法を超越する存在となり「基地」や「原発」は日本の法制度をもって解決することができなくなったとの主張をどう考えるか。
2)戦後日本を考えると「すべての軍事力と交戦権を放棄した憲法9条」と「人類史上最大の攻撃力を持つ米軍の駐留」という矛盾を内包したまま国家権力構造が確立した。護憲派の「9条を守れ」の主張だと永遠に米軍を撤退させることができないが、どう思うか。
これらの質問は、昨年刊行された矢部宏治氏の『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』で指摘されている問題である。非常に重大な問題なので、本号で1)を、次号で2)について意見を述べることにする。
質問1)は、憲法81条【法令審査権と最高裁判所】「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」という規定の運用についてである。
この規定にもかかわらず、「きわめて政治性の高い国家統治の基本行為」は『司法権限外』として「憲法慣行論」で国家が運営されている。例えば、国会に関することで「衆議院の解散の無効・有効」とか「国会での法案採決の無効・有効」などである。これを『統治行為論』といい、国会事務局の最大の任務は「司法の権限外」とする国会の行為を憲法に違反させないことにある、と言っても過言ではない。
砂川裁判の最高裁判決を正確に読むと「国の存立に重大な関係を持つ、高度な政治性」と「一見、明白に違憲無効と認められない限り」とある。これは『司法権の範囲外』とするということである。『範囲外』とは『権限外』とは違って、統治行為論の範囲を決める判断をするのは司法権であることを前提にしている。
とはいってもその基準はなく、憲法の運用をきわめて不安定にしている。「基地」や「原発」などについて、さまざまな判決があるが、最終審のほとんどの最高裁の判決は日米安保条約を維持することを法理論より優先させていることは事実である。この原因を制度の問題にすると、ものごとの本質を見落とす。「制度」とは詰まるところ人がつくるものであり、国家権力に関わる人間の問題であるといえる。
敗戦により日本は事実上米国によって占領された。米国は日本の米国式民主化を目的とし、多くの日本人はそれを受け入れた。同時に米国文化に同化していく日本社会には、さまざまな問題が生じることになる。占領と復興期の首相であった吉田茂は、恩師・鈴木貫太郎の遺言で「敗けっぷりの良い政治を目指した」と回顧している。実際は巧みな駆け引きで米国を利用し最後は嫌われた。新憲法や講和条約・日米安保体制を、ひと言で「対米追随」と片付けられない厳しい現実があった。
米ソ冷戦が始まると、米国は日本をソ連圏に対抗させるため、軍事的かつ思想的に同盟化していく。米国の国家戦略は、官僚・マスコミ・学者有識者等を中心に「顔は日本人、精神は米国人」を養成して、各界で指導者層をつくることにあった。「日米の秩序は我々が守る」とする、日米「司法マフィア」が暗躍したのがロッキード事件だ。冷戦終結後は米国資本主義を守るため、その体制は続く。「安保マフィア」は有名だ。
残念ながら、戦後70年の日本の国家権力を表裏で動かしてきたのは、米国の「ジャパン・ハンドラー」といわれる人々の影響を受けている日本の指導者たちである。これから自立しようとしたのが、平成の政治改革であり、日本一新運動の原点である。
○ 消費税制度物語(10)
(原議長の調停による売上税法等の廃案と税制改革協議会の発足)
衆議院事務局で、委員会運営の管理職をやっている私と与党幹事長が、2人だけで朝まで飲み明かすことは、当時でも、そして今でもあり得ないこと。だが政界の奥の奥ではあり得たことだ。竹下さんとは昭和40年からの20年にわたるつきあいだ。佐藤栄作内閣が出来たばかりの混乱期の、竹下官房副長官時代。私は園田直衆議院副議長秘書役、事務局の仕事というより野党との国会対策ばかりやっていた。金丸信さんが議運理事の頃で自社55年体制で、自民党が社会党を裏側で支配していた時代だった。
昭和62年3月20日(金)午前9時過ぎ、赤坂の料亭から直接衆議院事務局に出勤して弥富事務総長に会い、竹下幹事長との話を報告。竹下幹事長は事務局の人材不足のため、弥富氏が辞めたくとも辞めることができないことを承知していた。昨夜、弥富氏の退職後のポストについて「新天皇に変わった時点で宮内庁長官を考えている」との話が出たことを伝えた。実は弥富氏の父親は大正初期、昭和天皇の「扶育官」(教育係)をやっていた。弥富事務総長は「話だけでもありがたい。ベストを尽くして国会の正常化を目指そう」と、竹下幹事長の要請に応じてくれた。
3月後半になると統一地方選挙に入る。4月中旬まで国会は自然休会となる。本格的な正常化の環境づくりをやることになった。そのポイントは4月12日の福岡県知事選挙であった。その応援に行く竹下幹事長の応援演説や記者会見で税制改革について国民や野党が理解を示す〝発言案〟を私が作成することになる。これは国会職員のやることではなく、明らかに〝国家公務員法〟に反するが、これが当時の私の日常であった。
ポイントは1)売上税の創設をめぐって国会が紛糾し、50日間もの長期暫定予算を余儀なくされ、4月になっても総予算の見通しが立たないことに責任を感じている。2)社・公・民・社民の4党は減税を中心に『昭和63年度税制改革の提案』をまとめている。売上税法等の政府案を審議するに先立ち「政党間で基本問題について整理する作業を、代表者によって行うことを検討してしかるべきだ」などというものであった。
このメモをつくるとき、朝日の木村記者(後の朝日新聞社長)が私の部屋にいて、コピーを金丸副総裁に見せに行くことになる。「このくらいのことを竹下が言わないと天下はとれん。中曽根首相なんかに相談するな!」という反応が返ってくる。金丸さんは竹下構想が生きるように安倍晋太郎総務会長を説得する。かくして4月5日の福岡での自民党候補者激励大会で竹下幹事長が「売上税法案などの事実上の審議凍結」を示唆し、雰囲気を変えた。
ところが自民党内が大騒ぎとなった。金丸・竹下・安部の柔軟路線と、中曽根派直結の砂田予算委員長と、藤波国対委員長の強行突破派の激突である。根っこに中曽根総理・総裁の任期をさらに延長しようとする思惑があった。自民党内が激突する中で、4月12日(日)に統一地方選の知事レベルなどが行われた。自民党は北海道知事選で120万票、福岡知事選で12万票の大差で負けた。竹下幹事長は敗北の原因を「売上税に対する国民の反発だ」と認めた。
自民党内の中曽根派と宮沢派は、統一地方選挙後の国会運営に昭和62年度総予算の衆議院強行突破を最優先する方針を決めた。4月15日午後2時、自民党は突然予算委を開会して総予算を強行採決した。怒った野党は委員長席のマイクを切断するなど物理的抵抗となった。自民党内には総予算を強行突破し、売上税法案なども会期を延長してでも強行成立という意見と150名の売上税法案を撤回すべしとの決議を行うなど対立が続いた。
衆議院本会議の開会を巡って、与野党の意見が対立し、徹夜の異常国会が開会されたのが4月21日午後10時前であった。牛歩の本会議が23日午後3時まで続いた。その間、金丸副総裁・竹下幹事長・小沢一郎氏が中心となり、原議長・多賀谷副議長、そして弥富事務総長と私が必死の与野党間関係者を説得した。同日午後9時すぎ「原議長の斡旋による正常化」を自社公民各党が了承した。要旨は1)売上税関連法案は議長がこれを預かる。
2)総予算の本院通過を待って税制改革に関する協議機関を設置し税制改正について検討を行う。売上税法案などの取り扱いは、各党の意見が一致しないときには審議未了とする。
ことなどであった。この間、腹を抱える裏話があるが、次号でのお愉しみに・・。
(続く)