「日本一新運動」の原点(299)―新年は民主勢力と反民主勢力との最後の戦いの年

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 新年あけましておめでとうございます。
 会員の皆さまにはつつがなく初春をお迎えのことと拝察し、心よりお慶びを申し上げます。
 内外ともに激動が予想されるこの一年、日本一新の会は 揺るぐことなく進めて参りますので、引き続きのご支援をよろしくお願い申し上げます。

〇 申(さる)年に思うこと!

「申の年」を迎えた。「申」の字は稲妻を現した象形文字であり、雨冠をつければ「電」の字となる。最古の部首別漢字字典である「説文解字」には「申は神なり」とある。示偏をつけると「神」という字になる。我が国では「雷」を「かみなり」というが神鳴りのことだ。語源論でいえば「申は神であり電である」。「電」の「気」即ち「電気」は人間の文明を発達させる造化の神といえるが、21世紀の現在、人間は「電気」を造ることで大変な問題を抱えることになった。地球温暖化の元凶である二酸化炭素や、放射能の危険がある電気をつくることだ。

「申」は十二獣では「猿」が配されている。「猿」は形態や頭脳とも人間に最も近い動物である。猿の字は、元々中国では「?」とか「?」が使われていた。「爰」は援助などに使われるように良いことをする意味がある。一方、猿の語は「戯る」からきたものとする説もある。俗にいう「じゃれる」の意からだということや、猿は去るに通じるとして忌み嫌われる。そのせいか、猿に同情して「得手公」という異名がつけられたともいわれている。猿にはひとを援護する猿もあり、悪戯をする猿もいる。尻に帆かけて逃げ去る猿もいるし、得手に帆あげて驀進する猿もいる。図に乗って木から落ちる猿もいる。他にも「猿芝居」「猿知恵」「猿真似」など、人間の活動で負のイメージを現す言葉にも使われている。

かつて、博学者のなかには人間を「猿から申(神)の間の存在、動物から神への進化の過程にある」と論じていた人たちがいたが、果たしてそうだろうか。昨今の人間の指導者たちを見ると、この論にははなはだ疑問がある。特に、日本国の政治家や資本家、そしてマスメディアや有識者の中には「人間社会を弱肉強食にしよう」と必死になっている。昨今は猿だけではない、狸も猪も、鹿さえも影響を受けて人里に出没するようになった。

安倍晋三首相はそのグループのシンボルだ。「安保法制」や、「アベノミクス」「消費税軽減税率」などの「猿知恵」や「猿真似」「猿芝居」をやめて、一刻も早く政権から「去る」ことが、日本と世界の平和に資することは必定といえる。

〇「民主主義」という言葉について

元旦の朝日新聞「オピニオン・フォーラム」に、安全保障関連法案に反対するデモで、若者たちが叫んでいる言葉『民主主義ってなんだ』が、今も胸に響く、として、「今年は老若男女が民主主義とは何かを考え、集会や選挙で行動を起こすことが求められているのではないか」との投書があった。大変重要な問題提起である。そこで語源論の続きで、日本で使われるようになったプロセスと意味を論じてみよう。

「民主主義」という言葉は、ギリシャ語の「デモス」(民衆)と「クラトース」(支配)の合成語である。「デモクラチア」が語源である。これが英語で「Democracy」 となる。この「デモクラシー」の日本語訳が「民主主義」である。これが西欧文明としての語源だ。東洋文明、即ち中国の語源はこれとまったく反対の意味だ。「民主」は、中国で最古の書といわれる「書経」に、「天惟れ時に民主を求む」とあり、万民の主となるべき者、即ち「君主」の意味である。

西洋の「デモクラシー」が、東洋では全く逆の意味の「民主」として訳され、日本で活用されていることに、私はかねてから違和感をもっていた。我が国は「言霊の国」といわれている。政党名に「民主」とつく政党が、国政発展の足を引っ張っている気がしてならない。敢えて説明の必要もなかろうが、言わずと知れた「自由民主党」や「民主党」である。

さて、我が国で最初に「民主」なる語が用いられた書物は何か。通説では西周(にしあまね)が約した『万国公法』で、慶応4年に出版されたものといわれている。これは米国のヘンリー・ホイートンが著した『国際法の要点』のことで、その漢訳を坂本龍馬が片時も離さず持っていたことで知られている。西周はオランダのライデン大学での講義の筆記録と漢訳書を参考に、奥地俊国の小邑を「民主国波里薩」と称すと紹介している。「デモクラシー」を「民主」と約したのは日本人ではなくて、漢訳した清国の何師孟であった。

この時期、堤穀志士が『万国公法訳義』を、津田真一郎が『泰西国法論』を続けて出版した。『万国公法訳義』には「民主とは人君なくて、人民自ら守護するの法也」と記され、「民主」の語意が有識者に知られるようになる。さらに慶応四年(1868年)に発布された「広く会議を興し万機公論に決す可し」で始まる、『五箇条の御誓文』を、有識者の多くは絶対主義国家を創るためのものと解さず、公議政治体制をつくる宣言と理解した。起草した由利公正や福岡孝弟たちは、米国の民主政治の日本版をイメージしていた。

しかし、武力で倒幕し、絶対主義体制をつくろうとしたグループは、戊辰戦争へと内乱状態に入っていくなかで、国民を安心させるため「公議政治論」を作為的に利用したのだ。明治になって自由民権思想による反体制運動は、五箇条の御誓文の実現を大義名分とするようになる。その後、日本での政治対立は公議政治を悪用して「官僚支配国家」をつくろうとする勢力と、「公議民主政治国家」をつくろうとする勢力の激突が続くことになる。

ところで、明治15年頃までは「民主政治」とか、「民主政体」という言葉はしばしば使われたが、「民主主義」という言葉は使われていない。「デモクラシー」という言葉には「イズム」がなく、「主義」の語を当てることに躊躇があったようだ。又、民主を主義とすることは、当時の国体上も相容れないものがあるとの抵抗感が一般的であった。最初に使ったのは福地源一郎で、東京日日新聞で使ったといわれている。ジャーナリストには抵抗が少なかったようだ。

明治30年代になってから「民主主義」という言葉は良く使われるようになる。安部磯雄らが起草した『社会民主党宣言』で「社会主義と民主主義に依り、貧富の差をなくして世界に平和主義の勝利を得せしめん」(明治34年)とある。また幸徳秋水の『社会主義真髄』で「社会主義は一面において実に民主主義なる也」と述べている。これらは当時、活動期になったドイツの社会民主党の影響を受けていたことによるだろう。

憲法学者では天皇機関説で知られる美濃部達吉博士が明治39年に、人権宣言に関する論文で「民主主義」の用語を使っているが、その思想を論評したものではない。美濃部博士に対峙した、上杉慎吉博士は『帝国憲法』(明治38年)で、「民主主義は人民を以て国権の本源と為し君主は其使用人たりと為すを根本思想とするものにして素より君主の権力を以て重大なる制限の下に居るべきものとするものたり」と述べ、国体上好ましくないと論じている。

「デモクラシー」を「民本主義」と翻訳した上で、「民主主義」との区別を論じたのが、『憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず』という、吉野作造博士の大正4年12月、全国中学校長会議での講演である。翌5年1月号の『中央公論』に掲載された。これの全文復刻が『中央公論』(2016年1月号)の特別付録となっているので、興味のある方はお読みいただきたい。ひと言で言えば、明治憲法下の天皇主権に配慮したもので、概念は別だが近代憲法で共通の基礎的精神を持つものと論じている。

明治憲法下、デモクラシーの定着を妨げようとする勢力に対し、その定着を懸命に努力した先人がいた。戦後、他力により与えられたデモクラシー即ち、「民主主義」が定着しないのは、カネ・地位に拘る資本家・政治家・官僚・有識者らのなかに、国民が主人公となる政治体制(国民主権)を許容しない輩がいるからだ。平成28年(2016年)は、明治維新以来、激突してきた両勢力の最後の戦いとなる。それに主権者たる国民がどう応えるか、先に引た新聞投書もそれを問うている。
(了)

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