日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

〇憲法夜話 7)議会政治の導入とユニテリアン思想の影響

「メルマガ・日本一新」175号で、金子堅太郎とユニテリアン思想を紹介したところ、「ユニテリアン思想について知りたい」との反響が多かった。議会政治の導入にどんな影響があったかを中心に紹介しておきたい。

福沢諭吉先生が、明治13年に創立した『交詢社』という社交クラブがある。現在でも東京銀座にりっぱなビルがあり、日本の経営者層、資本家の牙城である。平成21年6月26日、午餐会で講演する機会があった。私にとってこんな場違いなところはなかった。指定された演題は「ジョン万次郎に学ぶ~日本の近代化、国際化の原点」であった。

交詢社は明治時代前半、ユニテリアン思想を普及するメッカであった。万次郎は日本人のユニテリアン第一号で、日本にデモクラシーを伝えた人物だ。実は明治21年(1888)に、交詢社でユニテリアンのアーサー・ナップ宣教師が講演し、参加者に感銘を与えている。121年ぶりに、私が日本資本主義の指導者たちに、ユニテリアン思想の正当性を話したが、反響は今ひとつであった。

(ジョン万次郎とユニテリアン思想)

万次郎は、14歳で太平洋の無人島に漂着しているところを米国の捕鯨船に救助され、1843年(天保14年)からボストン郊外のフェアーヘプンで、基礎教育と航海士の専門教育を受ける。19歳で捕鯨船員として活躍し、1852年(嘉永4年)に琉球に上陸、帰国する。24歳であった。

この時代の米国は、現在と違って真のデモクラシーについて国民の関心が高く、ラルフ・ワルド・エマーソンやウォルター・ホイットマンが活躍していた。また歴代の大統領、ワシントン、ジェファーソン、リンカーンらがユニテリアン思想の影響を強く受けていた。万次郎がユニテリアンとなった縁は、恩人のホイット・フィールド船長がプロテスタント教会に連れて行ったところ、黒人扱いされ教会から入信を拒否されたからだ。船長は自分の宗派を変え、万次郎とユニテリアン教会に入信する。

当時の米国の草の根デモクラシーを支えていた教会である。そのユニテリアン教会の信者代表が、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の祖父で、万次郎は可愛がられユニテリアン信仰や草の根デモクラシーを学んでいる。

ユニテリアン教会は、信仰というより思想活動で、仏教・古神道・儒教など東洋思想に似ていた。人類愛・隣人愛・万人救済・自由と理性を重んじ、権威に従属せず、異文化や異宗教との融合などを信条としていた。万次郎はこれらの影響を受けて、鎖国の日本に命がけで帰国する。

鎖国の禁を犯したとして万次郎は取り調べを受けるが、嘉永6年(1854)米国ペリー艦隊が開国を求めて浦賀に来訪するや、米国の事情を知る万次郎は貴重な存在となる。日本の開国や近代化に大きな貢献をする。
万次郎が明治以降の憲法政治にどんな影響を与えたのか。私が話すより、大宅壮一大先輩に語ってもらおう。

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維新の変革で薩長が優勝を争っている隙間に、土佐が少数の精鋭分子 を持って、一時はこれらの両藩をリードし、結局、第3位に食い込むことができたのも、万次郎の新知識に負うところが多い。後に土佐の藩論ともなった合議政体論―議会制度―をはじめ、明治初期の日本を風靡した自由民権思想は、万次郎のもたらしたアメリカ式デモクラシーと繋がっている。
つまり、漂流者万次郎が米国から持って帰ったデモクラシーの一粒の種が、まず土佐でまかれ、それが日本的民主主義として成長し、明治22年の憲法発布、23年の国会召集となって、一応、実を結んだということになる。さらに進んで、明治42年に大逆事件を起こした、幸徳秋水にまで、これが尾を引いていると見られなこともない(昭和39年『欧米文化との発接触』より)
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土佐を少し誉めすぎと思うが参考にはなる。大宅氏の「アメリカ式デモクラシー」を「ユニテリアン思想」と読み替えることもできる。明治天皇による『五箇条のご誓文』などは、副島種臣らが米人の宣教師・イド・ヘルマン・フリドリン・フェルベックの指導で起筆したものだ。「広く会議を興し万機公論に決し可し」とは、米国デモクラシーの思想である。起草者の一人、副島種臣は明治になってユニテリアンの信奉者となる。

万次郎の影響を受けた歴史上に人物、勝海舟・福沢諭吉・坂本龍馬らのことについてここで述べるつもりはない。この人たちとは違って、万次郎塾とでもいうか、個人的に、英語や西洋の精神や知識、ユニテリアン思想を学んだ幕末の若者が大勢いた。

このひとたちの中から明治時代になって、各界で大活躍する人物が多数いる。万次郎のユニテリアン思想は、目立つことなく明治の有識者の心の中に入り込んでいった。明治の議会政治には、ユニテリアン思想が背後にあったといえる。

(ユニテリアン教会が『友愛会』を創った)

日清戦争が終わり、明治30年頃からユニテリアンへの関心が急速に醒めていく。支配層の中に、日本資本主義の発展に伴い、人類愛とか隣人愛という思想から離れていく人が多くなる。一方で、衰退したかに見えたユニテリアン運動は、急増する労働運動や社会問題を解決しようと考える人たちによって継承されていく。安部磯雄(同志社大・早大教授で社会運動家)、鈴木文治(朝日新聞記者・労働運動家)らが、ユニタリアンとなり、島田三郎衆議院議員らが運動に協力する。

鈴木文治が安部氏の指導で、ユニテリアン教会を足場に労働者救済のため、友愛運動を組織していく。鈴木は米国から来日した宣教師・クレイ・マコレーの秘書役となり、教会の中に相談所をつくり、さまざまな労働者や困窮者の救済運動を行う。この時代の米国は、人類愛とか隣人愛を大切にする文化をもっていた。

明治天皇が崩御した3日後の大正元年(1921)8月1日、ユニテリアン教会内で『友愛会』が結成された。鈴木文治がマコレーと安部磯雄の提唱で、共済的親睦団体として設立したものであった。顧問に桑田熊蔵東大教授・小河滋郎法学博士・評議員に堀江帰一慶大教授・高野岩三郎東大教授らが就任した。そして渋沢栄一ら開明経営者の協力で発足した。現在の日本の権力に媚びを売る有識者とは違う。

友愛会は、その後発展を続け、大正10年には「日本労働総同盟」を結成する。戦時体制になるにつれ国家権力の中に組み入れられていくが・・。敗戦後は「同盟」となり、米ソ冷戦下のイデオロギー対立のなかで、友愛の精神を基調にして労働運動を行った。豊かな社会となると、友愛会系の労働運動は鈴木文治がつくった「友愛会の精神」をほとんど忘れていく。現在の「友愛会館」の場所は、かつてのユニテリアン教会のあったところだが、これを知る人はきわめて少ない。

『友愛会』といえば、戦前から知られているのが鳩山一郎元首相である。戦後の政界復帰(昭和27年)で、「友愛革命」を提言し、真の友情や隣人愛の必要を説いた。しかし、その後継者である鳩山由紀夫元首相・鳩山邦夫元文相も、「友愛」の言葉はしゃべるが、真の意味はわかっていない。

戦後、もっともユニテリアン思想を大事にした政治家は、常に民衆のために活動した市川房枝女史であった。参議院議員を5期30年勤め、女性の人権と地位向上に生涯を捧げた生きざまは、ユニタリアンの実践者であった。弟子を自称する菅直人氏には、この精神はまったくない。

わが国の労働運動は、平成元年に主な官公労組と、主な民間労組が統一して「日本労働運動総連合」(連合)が結成された。イデオロギーの対立を超えた歴史的統合と評価された。しかし、21世紀になると、「友愛会の精神」を尊重しようとする指導者は、ほとんどいなくなった。官公労組は既得権の維持を、大手民間労組は経営者と一体となって、「自分だけ良ければ」と劣化した資本主義の手先となった。労働運動の指導者は、真の「友愛精神」を学ぶべきだ。

消費税増税ヒアリングが八月に行われた。そこでの古賀連合会長の態度は、労働者や生活困窮者を忘れた支配者の顔だ。労働運動の父、鈴木文治は、彼の世で悲しんでいると思う。

※ユニテリアンについて、Wikipediaは次のように記している。

ユニテリアン主義ユニタリアン主義 、ユニタリアニズム、英語:Unitarianism)とは、キリスト教で伝統的に用いられてきた三位一体(父と子と聖霊)の教理を否定し、の唯一性を強調する主義の総称をいう。歴史的には、ユニテリアンはイエス・キリストを宗教指導者としては認めつつも、その神としての超越性は否定する。

西暦325年に、現在のトルコのブルサ県イズニクでニケーア公会議が開かれ、三位一体論を主張するアタナシウス派が、極端に言えばイエス・キリストは神ご自身ではなく神の子とするアリウス派を退け、欧米キリスト教の基礎となる。ユニテリアンはこのアリウス派の主張に近いと思われる。三位一体論は、キリスト教の奥義であるが、イエス・キリストはやはり神(創造主)ご自身ではなく、神の子であり別の存在であろう。その意味では、ユニテリアン思想も謙虚に学ぶ必要がある。

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