日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

〇憲法夜話 4)帝国議会発足の混乱と珍事!

明治22年(1889)2月11日、紀元節の日『大日本帝国憲法』は発布された。敗戦後の『日本国憲法』が公布されたのが昭和21年(1946)11月3日文化の日(明治節)であった。

(施行は翌22年5月3日)。
私は当時、国民学校五年生で親父から聞いた明治憲法発布の話を、今でも記憶している。祖父が時々話していたとのことで「土佐の足摺岬のほとんどの人は、憲法発布ということを、天皇様から絹の布をくださる」と理解していたとのこと。民衆の感覚として笑えない話だ。「絹の布」という捉え方が、新しい国家の貴重で大切なものという気持ちといえる。日本の民衆の憲法観の深層心理として興味のある話だ。

明治憲法は文字通りの欽定憲法で、天皇の大権を中心とする内容であった。それでも制限されたとはいえ「公議政治」といえる議会政治を導入したことは、大きな成果であった。自由民権運動や国会開設運動で、活躍した植木枝盛が“民権田舎歌”で「民選議院を早く立て 憲法(おきて)を確かに定めしよ これは今日(きょうび)の急務じゃぞ」と唄ってから10年の歳月を要した。

(わが国最初の衆議院議員総選挙など)

明治23年(1890)7月1日、初めての衆議院総選挙が行われた。有権者数450・365人(25歳以上の男子、直接国税15円以上)。全人口の1・24%、投票率93・7%であった。定員300名で、原則小選挙区制(1人区214、2人区43)、立候補でなく推薦制、記名式投票で、投票人は投票用紙に自分の氏名・住所を書いて捺印して投票した。現在の制度では想定できない。候補者数は1243名、約4倍強であった。

総選挙に当たって、民権派は大同団結を試みたが、政府の切り崩しで四分五裂となった。総選挙の状況は、候補者の選定や選挙活動の母体を各地で結成した地方の政治団体が行った。選挙活動は個人が中心で、政策より人格に投票した有権者が多く、まずは平穏に行われた。

この総選挙を西欧の状況と比べると、当時の世界の議会政治の様子がよくわかる。フランスでは1830年7月に復古した立憲君主制のもとで、選挙権が1年に国税200フラン以上を納める成年男子に拡張された。有権者数は人口の約0・5%程度であった。英国では1832年の第一次選挙法改正で、年10ポンド以上の資産で成年男子に選挙権を認めた。有権者数は人口の約3%だった。

日本人が初めて米国上院本会議を見聞してから30年(1860年遣米使節団)、「わが日本橋の魚市場に似たり」と驚いた民族が、西欧に劣らない議会政治を発足させたことを評価すべきではなかろうか。

貴族院は明治23年6月10日、貴族院令による多額納税者議員の互選が行われ、45名の当選者が選ばれ、7月10日、伯子男爵議員を互選し、伯爵15名、子爵70名、男爵20名を選ぶ。さらに9月29日勅選議員61名が選定され、皇族議員と侯爵議員と合わせて252名が決まった。10月24日には、伯爵伊藤博文が議長に、伯爵東久世通禧が副議長に勅任された。

貴族院、衆議院事務局官制が、明治25年7月10日に公布され、貴族院書記官長に金子堅太郎、衆議院書記官長に曽禰荒助が勅任され、貴衆両議院事務局の書記官がそれぞれ奏任された。身分はいずれも政府が任命する国の官吏であった。これで議会制度の準備ができた。

(第1回議会の混乱)

明治23年11月25日、絶好の秋晴れの中、第1回帝国議会が召集された。日比谷の一角、内幸町に新築したばかりの木造仮議事堂をめざし、新議員は続々と登院した。ほとんどの議員は新調のフロックコートか、紋付き羽織袴を着て、馬車や人力車に乗っての登院であった。

自由民権運動の理論家植木枝盛は、太い杖をついて歩いての登院。しんがりはフランス自由思想の紹介で、植木の師・中江兆民、辻待ちの人力車で登院した。異彩は丁髷頭の元東京府議会議長、芳野世経であった。

党派別の勢力は、投票日以降に整理され召集日現在、弥生倶楽部(立憲自由党)130、大成会79、議員集会所(立憲改進党)41、国民自由党5、無所属その他45であった。民党派が自由党と改進党で171名の過半数を超え、政府派が少数であった。

召集日の衆議院の議事は、議席の指定と正副議長候補の選挙である。曽禰書記官長が仮議長役となって選挙が行われたが、日本人にとって初めての議会であり、戸惑いや手続を理解できない議員が多かった。午前10時から本会議が始まって、休息なし、飲まず食わずで、午後10時50分に正副議長候補者の選挙が終わった。翌26日、初代議長に自由党の中島信行、副議長に大成会の津田真道を天皇が任命した。帝国議会では議長・副議長を本会議で選挙して、それを天皇が任命することが、議院法に定められていた。

(総予算の軍事費削減に成功した民党派)

第1回議会の最初の論戦は、山県首相の施政方針演説から始まった。要旨は「国家の独立と国勢の伸長のため、軍事費の拡充」であった。民党派は「民力休養と経費の節減」をスローガンに政府に抵抗した。問題は政府が提出した明治24年度総予算の審議が、軍事費で紛糾した。

民党派は予算総額の約1割にあたる788万円の減額を査定する方針を決めた。査定とは修正のこと。衆議院では多数派である。これには政府側は困り果てた。憲法をつくった伊藤博文に至っては「憲法や議院法を度外視した暴挙だ」と怒ったが、後の祭りであった。

それでも政府側は、民党派に予算の査定案をつくる能力なしと馬鹿にしていた。ところが民党派に、大蔵省に勤めたことのある代議士がいて、査定案をつくってしまった。民党派有志は“向島”の料亭で遊んだ後、近くの「汁粉屋」で査定案を相談した。その査定案は世間から評判が良く、汁粉屋は『さてい庵』という名がついた。
「味はたいしてうまくなかった」とは尾崎行雄翁の話である。

予算修正問題は、自由党土佐派の29名が政府の説得に応じて、650万円の削減で妥協する。坂本龍馬の弟子を稱する陸奥農商務大臣らの議会対策で、「土佐派の裏切り」と呼ばれた。土佐出身の自由党左派中江兆民は、早くも議会政治に愛想を尽かし、アルコール中毒を口実に議員を辞めた。この妥協がなければ議会は崩壊していたかもしれない。

第1回議会は明治24年3月7日に閉会した。山県首相は議会対策に懲りて辞任する。後任に伊藤博文を推したが、伊藤は逃げに逃げ、松方正義が首相に就任したのが五月だった。

〇「政」(まつりごと)の究極は知恵にあり!

異常な猛暑が続き、参議院選挙後の臨時国会も、これ以上の悪例はないという馬鹿馬鹿しさで終わった。こんな時、第1回帝国議会の混乱と珍事の裏話をしたのは理由がある。あの天皇官僚絶対の憲法体制で、総予算の査定(修正)を実現した政治家の知恵と努力を知って貰いたかったからだ。

麻生副総理の「ナチスに手口を学べ」発言は、神様が野党に与えた絶好のチャンスであった。野党側が「辞任・罷免」に拘り、「発言撤回」で誤魔化されてしまった。原因は民主党は勿論、共産党と社民党の馬鹿のひとつ憶えの「辞任・罷免」要求だ。

麻生発言は政治の理屈でなく、「文化・思想問題」として対応すべきこと。世界・人類の進歩に対する破壊発言である、といった国際的ネットワークの中で、文化的に葬るべきだ。「辞めろ、辞めろ」と本音を出さずに、まずは「謝罪すべし」と国会決議案を提出すること。参議院で初めて議案提出権をもった共産党がこれに気がつかないとは、マイフーリッシュハートのままなのか。

「謝罪要求決議案」の提出に参加しないか、審議で賛同しない会派や議員を炙り出すことだ。自民党や公明党は応じないだろう。そこで初めて、日本の本質が明らかになる。麻生氏と同類の政治家を世界中が批判することになる。そこから日本政治の新しい芽が出る。

日本を狂わせているのは、自民・公明という与党だけではないようだ。                 (了)

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