日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

〇「政党堕落物語」―歴史を忘れた政党と政治家―(二階堂自民党副総裁の至言) 12月6日(金)深夜、稀代の悪法『特定秘密保護法』が成立した。与野党とも、立憲政治史上これ以上はないという赤っ恥をそれぞれに分かち合い、残ったのは「国会の自殺」だった。遣りきれいない気持ちで、昔の日記を捲っていると興味を引く記述が目についた。

30年ほど昔の昭和60年3月13日(水)のこと。二階堂自民党副総裁から「最近、政治家がものを知りすぎ、話が細かくなっていかん。大事なことが抜けるようになった」といわれた件だ。

昭和60年(1985)頃には、わが国でも高度情報化社会が始まっていた。昭和50年代後半になると明治生まれの政治家は国会を去り、昭和生まれに交代していた。この若い政治家たちは偏差値戦後教育と、母親の溺愛で育ったことが特徴で知識はあっても知恵はなく判断力も乏しかった。

自民党の長期政権が続く中、野党の社会・公明・民社3党には、政権交代の意志はなく、自民党からさまざまな利権のオコボレで満足していた。自民党の若手政治家の勉強会といえば、政策調査会の部会で、各省庁の係長クラスの知識や政策数字を知ることで、選挙区への予算の個所付が政治だと思っていた。この時期、よく言われたのが「政治家の官僚化、官僚の政治化」という批判であった。かく申す私も「官僚の政治化」の代表的存在であった。唯一、小沢一郎という政治家が政党や国会の改革に熱心で、私などは毎日のように憲法の議論を吹っかけられていた。

当時の若手政治家は、現在では引退かベテラン政治家となったが、憲政の常道とか、国民主権などといった「大事なこと」が抜けたままである。まして、平成時代になってから政治の激動の中で政治家になった人たちは何を考えているのか。パソコンや携帯電話など情報化がクライマックスとなり、ますます目先の情報や短絡的な知識を追っかけるようになる。政界だけのことではない。最近は情報が人間を追っかけるようになっているが、人間が情報や知識の背後にある歴史や文明の原理という大事なことが見えなくなった。これが二階堂氏のいう「大事なことが抜ける」ことだ。

(結党の歴史と理念を忘れた政党は崩壊する!)
昭和30年に、自由党と民主党の保守合同で「自由民主党」が生まれた。ごく大まかにわかりやすくルーツを図解しておこう。

〇 自由党グループ立志社(明治7年)→国会期成同盟(明治13年)→自由党(明治14年)→立憲自由党(明治23年)→憲政党(明治31年)→立憲政友会(明治33年)→翼賛政治会(昭和17年)→大日本政治会(昭和20年)(敗戦)→日本自由党(昭和20年)→民主自由党(昭和23年)→自由党(昭和25年)→自由民主党(昭和30年)

〇 民主党グループ立憲改進党(明治15年)→進歩党(明治29年)→憲政党(明治31年)→憲政本党(明治31年)→立憲国民党(明治33年)→立憲同志会(大正2年)→憲政会(大正5年)→立憲民政党(昭和2年)→翼賛政治会(昭和17年)→大日本政治会(昭和20年)(敗戦)→日本進歩党(昭和20年)→民主党(昭和22年)→国民民主党(昭和25年)→改進党(昭和27年)→日本民主党(昭和29年)→自由民主党(昭和30年) 自由党は、ジョン万次郎による米国草の根デモクラシー思想の啓蒙と、坂本龍馬の船中八策を原点に、自由民権と国会開設運動を明治初期に展開する歴史の中で結成されたのがルーツである。

民主党は明治14年、大隈重信が建議した「国議院開立の年月を公布せらるべき事」などに基づいて、明治15年に結成された立憲改進党がルーツである。福沢諭吉の協力があったと伝えられている。自由党が地主層の支持を背景に、立憲改進党は都市部商工業者や有識者の支持で活動した。重要なことは、両党とも国会開設を党是とし、長州を中心とする幕藩官僚政治を打破するため結成されたことである。

両党とも離合集散や太平洋戦争下の翼賛政治による政党解体があったが、その歴史は議会主義の維持と発展を党是としてきた。『特定秘密保護法』という議会民主政治の否定につながる違憲立法を強行成立させた暴挙は、先祖の遺体を踏みにじったに均しい。いづれ歴史の鉄槌が下ろう。

(公明党堕落物語!)

珍しく朝日新聞デジタルの『新ポリティアにっぽん』で、友人の早野透氏が『特定秘密保護法』に関連して、私の発言を採り上げた。きっかけは、私が「ジャーナリストの反対論が〝報道の自由〟という20世紀の制度論の発想に囚われ、問題の本質を理解していない。この法案は人間の『生存権』を官僚が支配できるものだ。しっかりしろ!」と叱責的激励の電話をしたからだろう。

早野氏と私の間で一致したのは、「公明党はどうなったか」ということであった。記事には「平野氏は衆議院事務局に長く勤め、かつては公明党の相談にも乗り・・・・」とあった。誤解のないように、この機会に公明党について述べておこう。

公明党が衆議院に進出したのは、昭和42年1月の第31回総選挙からであった。第2次佐藤内閣のときで、政治スタンスが当時の主力野党、社会党と民社党より自民党に近いと予想されていた。ところが、矢野絢也書記長が予算委員会で「自民党の国会対策費が社会党や民社党に使われている」と追求し、大騒ぎとなる。それまでの談合政治に新風を吹かせた。その点では世論から評価されたものの、国会の制度や手続について知る人材がいないこと、歴史を持たない政党だから経験が乏しいことなど、国会運営がギクシャクすることがしばしばあった。それを解消できたのは昭和42年8月の第56回臨時国会だった。

自民党が、「健康保険特例法案」を社会労働委員会で異常な強行採決を行ったため、徹夜の本会議が連日続くようになる。国会正常化のため公明党の竹入委員長が「何か知恵を出せ!」と、当時朝日新聞の柴隆治記者が園田副議長のところに話を持ってきた。衆議院事務局から出た園田副議長の秘書が私だった。「委員会の強行採決で不当なものは、議長が差し戻すことができるよう、国会法を改正する」ことを公明党案にする知恵を出し、石井・園田正副議長が斡旋案として与野党党首会談で提示して正常化に成功した。

この時、柴記者が私に言ったことは次の言葉だった。「公明党の母体は創価学会で、性格として政治的相対主義の議会政治に合わない。公明党が全体主義的政治を志向する可能性があるので、議会民主政治の理念や手続をしっかり理解させてくれ。自民党はファシズムに走る派閥(旧岸派)があり、公明党が正常でなくなると日本の民主政治は狂ってくる。君は私大卒だから役人の世界では出世できまい。竹入委員長に、何かあれば平野君に相談するよう言っておくから頼む」。

以来、私は公明党の国会対策や議院運営関係者からの相談があれば誠実に対応してきた。また、国会運営以外の政策や、政治問題の悩み事について私の能力の範囲で意見を申し上げ、公明党が議会民主政治から逸脱しないよう苦言も呈してきた。

平成4年7月、私が参議院高知地方区から出馬したときには、自民党の与党と公明党の野党が推薦してくれるという、憲政史上初の出来事が起こった。細川・羽田非自民政権という政治改革をともに目指すという公明党の政治姿勢は、日本政治の中で評価されてよい。

それなのに、創価学会を創った牧口会長を獄死させ、育てた戸田会長を獄に入れた『治安維持法』よりタチの悪い法律を、公明党が推進する理由が私には理解できない。思えば、司法試験合格者が公明党の代表になってから堕落が始まったといえる。理屈だけいって人間の心情がわからないからだ。小泉内閣の自衛隊イラク派兵の容認、社会福祉の後退、野田内閣での消費税増税への協力、自民党との連立を死守して、「民衆の救済・自立」そして民衆のなかで生きる政治ができるのか。

世話にもなった「公明党の堕落論」を、これからも書き続けることになるのは、私にとっては辛く苦しく、そして悲しい。

【特報】 TBS(東京放送)が「特定秘密保護法」の成立直後の12月7・8日に行ったJNN世論調査で「総理大臣にふさわしいと思う政治家は?」との質問への回答が、私の手元にある資料では、安倍晋三13%、小沢一郎10%、小泉進次郎7%、石破茂3%(以下略)となっている。しかしその後、小沢氏が1%に修正されている。どんな理由があったのか、事実関係の調査をTBSに要請した。
(了)

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