日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

朝日新聞は9月11日(木)、木村伊量社長が記者会見し、東電福島第一原発の吉田元所長の聴取報告書をめぐる報道に誤りがあったことを認めて謝罪し、記事の一部を取り消した。また従軍慰安婦をめぐる過去の報道で「強行連行した」との日本人男性の証言が虚偽であったことについても、記事を取り消し謝罪した。


朝日新聞の謝罪に対して、厳しい攻撃的批判を行っているメディアがあるが、この問題を朝日新聞の攻撃に矮小化してはならない。ここ10数年にわたるわが国の巨大メディアの報道姿勢は、商業主義を通り越し、権力に追随・おもねり、社会の木鐸の役割を果たすどころか、ごく一部を除いてわが国の民主主義を劣化させた。例えば、小沢陸山会事件で「小沢氏の誤った人格破壊報道」(カレル・ヴァン・ウォルフレン著・角川書店)には、総括や反省が一切行われていない。民主社会が健全に運営されるには世論形成に報道の役割が大きいことはいうまでもない。今回の「朝日問題」は、この視点からも検証されるべきだ。

(「これでよいのか 日本!」郡山シンポジウムの報告)

東京・沖縄に続き、3回目となる全国縦断シンポジウムは9月10日(水)郡山市中央図書館で開かれた。パネリストは諏訪中央病院名誉院長の鎌田實氏、俳優の菅原文太氏、慶應大学名誉教授の小林節氏、そして私の四名であった。日本一新の会会員が、福島県下のみならず、首都圏からも参加してくれ、激励してくれたことに感謝する。

鎌田氏は医師の立場から「原発事故から3年半経ったから大丈夫といわれているが、これからが大変だ。20年後を見るべきだ」菅原氏は「戦争をしない、原発をやめる、憲法を守る―の三つが大事だ」、小林氏は「原発は人間がコントロールできないことがわかった」と発言した。私は「原発をやめ、福島から新しい文明をどう発信するかが大事だ」、(当日、知事選で自公民社の相乗りが固まったことに)「福島県民を冒涜するものだ。オール日本という名の復興利権の談合になる」と指摘しておいた。

○日本国憲法と「国連の集団安全保障」(8)

平成3年も3月を過ぎると湾岸戦争が終わり、90億ドル追加支援の財政法や補正予算も成立、国連協力の構想もまとまり、海部政権がひと息をつこうとしたとき、問題が起きる。4月7日の東京都知事選で自民党本部・小沢幹事長が推薦した磯村尚徳候補が敗れ、自民党東京都連が推薦した、鈴木俊一知事が勝利した。翌8日、小沢幹事長は責任を採るとして幹事長を辞職した。海部総裁は改革のパートナーを失うことになる。

この時の都知事選には政治的絡みがあった。湾岸戦争対応の裏面史になるので、当時の政治の背景を理解してもらうために述べておこう。小沢幹事長は、当初現職の鈴木氏を候補者にすることを了承していた。都連首脳が高齢を理由に反対し、やむなく他の候補者を探していた。湾岸紛争が激しくなる頃で公明・民社両党に、国会運営で協力を求めていた微妙な時期だった。

公明(創価学会)からNHK出身の磯村氏を都知事候補に推してきた。民社の賛同を得て、自公民3党の共同推薦とすることになる。90億ドル支援問題で公明を説得するクライマックスであった。都連首脳が「鈴木は高齢だが健康で再出馬の意思あり」として、都連推薦で立候補を決めた。この動きの背後には、自民党内部に、小沢氏の活躍が目立つことに対する嫉妬と抵抗が集積していたのである。都連首脳がその代表者であった。

自民党幹事長人事は後任に小渕恵三氏が就任した。小沢氏の推薦と思う。2人の関係は良好だった。小沢氏が幹事長を辞めて1週間ほどして突然呼びだしがあった。私に高知県知事選への出馬という難題であった。

話が横道に入ったついでに続けさせてもらう。小沢氏の話は、その年の12月に予定されている高知県知事選に、自民党本部の推薦で出馬するようにとの話だった。高知県知事選は中内力知事が引退するので、後継に川崎前副知事を指名し、自民党高知県連も公認候補とするよう党本部に申請している状況だった。

私は即座に断った。その時の小沢氏とのやりとりを、要点だが公表する。小沢氏の懐の深さと率直さを知ってもらうためだ。

○小沢 小渕幹事長に口説くよう頼まれたんだ。県連候補の川崎氏は選挙に向かない。後藤田先生は隣の徳島だから心配して、君のことを推している。知事選に出て欲しい。

○平野 年明けから四元義隆さん(血盟団のメンバーの一人で、戦後政界の黒幕的な存在)からも話があって断りました。選挙に出る気にはなりません。

○小沢 これから新しい世界で活躍してもらいたいと、自民党の有力者が勧めているんだ。考え直してくれないか。

○平野 選挙に出るつもりはありません。選挙に出たがる人は馬鹿が多いですよ。

○小沢 (相当に怒って)当選することが確実な選挙に出ない方が、よっぽど馬鹿だ。君は仕事を公平によくやってくれたが、以前から政治家を馬鹿にする態度が時折あった。デモクラシーの原点は選挙だ。選挙で選ばれた人を馬鹿にしてはいかん。

○平野 理屈はそうだ。日本の現実はそうではない。そんなに私を知事選挙に出したいのなら、私にも言いたいことがある。これから国会は大きな課題を持っている。政治改革、PKO法の成立、消費税制度の抜本的見直しだ。これらを実現しないとわが国は大変なことになる。私は政治家ではないが、国会運営の事務を担当する立場だ。私が国会に居なくなってこれらの課題が解決できますか。

○小沢 そこまで腹を決めているのか。わかった。知事選に出ろとは言わない。私も海部総理から、夏の国会は「政治改革国会」になるので、政治改革特別委員会の委員長になってくれと頼まれた。引き受けたので日本の改革と発展のため一緒に頑張ろう。

最後は手を握りあったが、これからが大変だった。何しろ「選挙に出たがる人間は馬鹿だ」と小沢氏と口論した私が、1年後には衆議院事務局委員部長を辞めて、参議院高知選挙区から立候補する「大馬鹿」になるのだから人生とは不思議な世界だ。高知県知事選に出馬していれば、世の中はどうなっていただろうか。

海部首相―小渕幹事長体制が軌道に乗った6月の初め、自民党は「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」を設置した。小沢氏が会長に就任し、俗に「小沢調査会」と呼ばれた。

これは、湾岸戦争に対応した小沢幹事長時代の政策理論を党の方針とするための調査会であった。小沢氏のもとでまとめたメモ『護憲開国論』の政策化であった。いよいよ活動を始めようという矢先、小沢氏が心臓病で入院し長期療養となった。

小沢氏が姿を消した国会で、政治改革の実現は絶望的となり、政治改革国会を召集することすら困難になる。それでも海部政権は「政治生命をかける」と国民に約束しており、8月5日に第121臨時国会を招集した。海部首相は所信表明で、政治改革3法案の成立を期すこと、さらに、国連平和維持活動(PKO)に関する基本方針を説明し法案の提出を整備中であることを報告した。

政治改革に対する与野党の抵抗は激しく、自民党では梶山静六国対委員長が先頭で潰しにかかった。羽田孜選挙制度調査会会長が必死に海部首相を支えた。社会・共産がこぞって抵抗した。衆議院に比例代表並立制を導入し、定員を471名に削減する内容の「公職選挙法改正案」は、政権交代を容易にする制度で、自民党の中から「中選挙区制で永久に政権に就ける制度を何故変えようとするのか」との批判が噴き出した。政治資金規正法改正案と政党助成法で、政治資金の浄化を目指したが強い抵抗を受けた。

この時期、社会党内は政権交代で苦労するより、中選挙区の中で、労組OBとしてぬくぬくと議員を続ける方が楽だとする政治家が多く、激しく対立した。公明と民社両党は、政界再編で生きる道を探していた。共産党は、共産党潰しの策略と抵抗した。

小此木秀三郎衆議院政治改革特別委員長が「政治改革を挫折させてはいけない」と、私に対応を要請していることを、梶山国対委員長に感づかれ、「小沢と羽田と君は、自民党を潰す気か!」と怒鳴られる始末となった。私は職を賭して抵抗したが政治改革3法案は廃案となった。

もう一方のPKO関係3法案は9月19日に提出されたが、いずれも衆議院で継続審査となる。これら、内政と外交の基本課題の一体改革の挫折は世論から批判を受けた。海部首相は、この事態に対し衆議院の解散を決意したが、自民党内の抵抗勢力に封じ込まれて断念した。臨時国会終了の翌10月5日、次期自民党総裁選挙に立候補しないと表明。海部―小沢ラインによる改革は失敗した。(続く)

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