日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観
〇「高知勝手連決起大会」紀行記 1
2月27日(土)に高知県の四万十市(旧中村市)で開かれた「高知勝手連」主催の「決起大会」に参加して、約1時間の講演と質問を受けた。この集会の目的は来たる参議院選挙を野党協力により勝利するために、政党の呪縛を離れて野党統一候補を支援しようということであった。「高知勝手連」とは共同代表が嘉納泰史・岩城留美子・山本祐子・外京ゆりの諸氏で、事務局を岡村志保さんが担当という、政治には素人の集まりである。
会場には、参議院地方区で合区となった「徳島県と高知県」に出馬予定の、民主党推薦の大西聡氏と共産党推薦の三ヶ尻亮子氏がゲストとして挨拶をした。幸いにも地元の民主党・共産党が協議して、大西聡氏を無所属として一本化することで話し合いができたのが大会前日であり、私も安心して話をすることができた。
(今、この時代をどう考えるか―そして選挙のこと)要旨
12年ぶりに故里幡多地域でお話しする機会を頂いたことに感謝します。
《京極純一先生と美馬敏男先生のこと》
まずプライベートな話から始めることをお許しください。2月1日に、東大名誉教授で政治学の権威者であった京極先生が92歳で亡くなられたとの報道があり驚いています。京極先生は京都市で生まれ、高知県宿毛市で育ち、旧制中村中学から旧制高知高校、そして東大法学部在学中に学徒出陣を体験した方です。
私の清水高校での恩師・美馬敏男先生と旧制高知高校からの親友で私が政治の道を歩むようになったのはこの2人の先生の指導でした。高校時代に聞いた『政治的無関心』の講演が切っ掛けでした。衆議院事務局時代には美馬先生が上京されるたびに3人で日本の政治のあり方を議論しました。しばしば東大の研究室に呼ばれ、国会や政党の裏話をしながら政治の見方を教えていただきました。
京極先生の直筆で、次の本の読むようにメモが残っています。『ユング心理学入門』『無意識の世界』『母性社会日本の病理』『日本人の性格』『天才の心理学』等々です。京極先生からの、1984年元旦年賀状には「とにかくメモをお残し下さい」と記されています。このアドバイスで1985年から日記をつけて、そこのメモや資料を残すようになりました。『平野貞夫・衆議院事務局日記』がそれです。信山社から第4巻までは出版されていますが、第5巻は理由不明で放置されたままです。しかし日本一新の会事務局で電子化していますので、いずれ生かしたいと考えています。
京極先生は「日本には政権交代がなく、自民党には腐敗を浄化する内部規律がない」といつも指摘しており、私が参議院議員となった時も「政権交代の仕組みをつくることが君の役割だ」と言われ、様々な進言をいただきました。細川非自民連立政権が樹立できたのも、京極先生のご指導のおかげです。米ソ冷戦終結後の日本の政治が「一国平和主義・一国繁栄主義」であってはならないと指摘したのも京極先生でした。
京極先生の死亡記事のすべてが「政治現象や政治意識を統計学を使って分析した」と書かれていました。間違ってはいませんが、政治現象を深層心理学で解読する方法論を確立されたことが最大の功績です。眼に見えないもの、文字にならないもの、数字にならないものを如何に正確に認識するか、深層心理学者のユング博士の「集団無意識論」により、日本の政治の本質を分析したのが、名著『日本の政治』(東大出版会)で、この学術書が発売3ヶ月で2万部を超えて売れたことで話題となりました。私もこの本の執筆に協力したことが、衆議院事務局時代の大きな思い出です。
そこで今夜は京極先生の「深層心理政治学」の方法で、次の3つのテーマについてお話しします。《幡多地域の人々の近代史での功績をどう考えるか》、《憲法九条の根本をどう考えるか》、《そして選挙のことをどう考えるか》です。
《幡多地域の人々の近代史での功績をどう考えるか》
ひと言でいって「自由民権運動による国会開設」を成功させたことです。これは明治10年代の話ですが、幡多地域の人々の活躍が原動力となっていることを、今の幡多地域の人々たちはほとんど知っていません。私たちの祖先の活動を正確に知って貰い、瀕死状態にある立憲主義や議会民主政治の再生を、この幡多の地から、高知勝手連からスタートさせようではありませんか。
明治維新以来、さまざまな権力闘争が行われ、明治天皇による「国会開設の詔勅」が宣布されたのが明治14年10月でした。民衆側の国会開設要求が大きな原動力でした。そのことを、まず数字で説明しましょう。「国会開設の詔勅」が宣布される前年の明治13年2月に、2府22県の自由民権運動家が大阪に集まり「国会開設期成同盟」が結成されます。
そこでは、約87・000人の署名済の請願書を天皇に提出することを決めます。政府は「すわ一大事」と、集会条例を制定して民衆の政治活動を弾圧します。この弾圧の中で国会開設運動がクライマックスを迎えます。大事なことは、この87・000人の請願書の中味です。高知県で48・601人、その中で幡多郡だけで39・895人が署名運動に参加しています。
これを全国との比率で見ますと、高知県だけで約56%、旧幡多郡だけで約46%になります。参考のためにこの時代の人口を調べてみましたが、全国の人口が約3・576万人、高知県が約118万人、幡多郡が約9万4千人ですから驚異的な数字です。幡多郡では、人口の約42%が署名していることになります。現在のような少子化時代ではないことを考えますと、大人の約65%、3分の2の民衆が自由民権・国会開設運動に関わっていたことになります。
私の主張は、数字を前提とした単純な見方ですから、単純に評価する訳にはいかないと思います。
当時の村落共同体意識など、特殊な状況を考えてもこの幡多郡の民衆の政治意識は異常といえます。実は、京極先生もこのことに関心を持っていて、何度が議論しましたが結論は得ていません。『自由党史』(岩波文庫)には、明治10年2月に、西郷隆盛の西南戦役が始まり、9月には西郷の自刃で終わる。土佐の林有造(林譲治の父)・竹内綱(吉田茂の父)。大江卓ら、自由民権・国会開設論者が西郷に呼応して、専制政府を顛覆して立憲政体を設立しようとする。その時、銃器数千挺を購入して、大阪で挙兵しようとしたとして逮捕されています。
翌11年8月に、林有造と大江卓が禁錮10年、竹内綱が禁錮1年で盛岡監獄に収監されます。国会開設運動は民衆への啓蒙運動に進化し請願署名運動が行われることになります。幡多郡から出た指導者の林有造・竹内綱・大江卓らが収監される中、署名運動が展開されたのです。四万十川・足摺岬・宿毛湾という日本最果ての幡多地域は、縄文時代のアミニズムと原始アーナキズムを残し、歴史的には落人と流人を先祖とする反権力の「いごっそ」の生息地です。ここに驚異的、かつ異常と思える「国会開設」への請願署名運動が成功した要因があると思います。
さて問題は、国会開設運動を啓蒙する思想です。請願文は長文であり、私が最も重要と思われる部分は次の一文です。
「国家の原素たる者は人民にして、国は民に由りて立つ者なれば、人民に自主自治の精神なく、人民に人民たる権利を有すること無ければ、国家は能く不羈(ふき)独立する可きことなく、克く国権を張ることを得べからざるの理なれば、今先づ国会を興さざる可き也」
短い文章ですが国家と人民と国会の役割を明確に示しています。幡多地域の先祖たちは、国会開設運動を通じてこの思想の洗礼を受けていることを忘れてはなりません。さて、明治13年から132年を経て、自由民権運動をルーツとする『自由民主党』は平成24年に『憲法改正草案』を発表しました。その前文を要約すると「(日本は)天皇を戴く国家であり、国家を末永く子孫に継承するために憲法を制定する」とあります。この地球上で、デモクラシーを標榜する国々にこのような国家至上主義を憲法の理念とする国はありません。現在の自民党の理念・知性・歴史観は言語では言い表せない程に劣化しました。
東大や京大で憲法を学んだ人たちが自民党国会議員に多勢います。彼らはどんな教育を受けたでしょうか。安倍首相は任期中の憲法改正に意欲を燃やしていますが、こんな自民党が憲法を論じるのは狂気の沙汰だとは思いませんか。今や自民党の存在そのものが日本にとっての「非常事態」です。
(続く)