日本一新の会・代表/平野 貞夫妙観
参議院選挙は終盤戦となり、各地で激戦が繰り広げられている。私は、地元の千葉を中心に新潟、広島と「国民の生活が第一」を実現する応援をしている。また、全国の会員さんが、それぞれのブログで知恵を絞りながら支援されていることは、事務局からの報告で承知している。
そんなことも含めて、選挙が終わったところで総括をするが、まずは「参議院のあり方」の連載を終えておきたい。
〇 参議院のあり方を考える!(4)
新憲法の施行を昭和22年5月3日に控え、四月20日に参議院通常選挙が行われた。史上初めてのことである。定員は全国区100人、地方区150人を選出して、その半数を3年ごとに改選することになっていた。この選挙で当選した得票数の多い議員半数を6年の任期とし、少ない半数を3年の任期とした。当時、私は小学校6年生で、この選挙を憶えている。任期を6年と3年に分けた理由が、得票数であったことが納得いかなくて、父親に「クジ引きで決めるべきだ」と主張して困らせた。
第1回参議院通常選挙の結果は、各派に属さない議員108人、社会党47人、自由党29人、民主党29人、協同党10人、共産党4人、諸派13人であった。5月17日には各派に属しない議員92人が緑風会を結成し、第1会派となる。5月20日には第1回特別国会が召集され、会派に移動があった。緑風会92人、新政倶楽部44人(26日、日本自由党に改称)、民主党42人、無所属懇談会20人、各派に属しない議員1人となる。社会党と共産党は変わらなかった。
(「良識の府」といわれた昭和20年代)
新憲法や参議院議員選挙法の帝国議会の審議で、2院制にふさわしい参議院の構成を制度として整備できなかったことは、前号で述べたとおりだ。議会も政府も、もっぱら有権者と選ばれた議員に、参議院を良識の府とすることを期待した。当時のわが国の有権者は見事にそれを実現したわけだ。それは、政党の立場にとらわれず、参議院を「良識の府」にしようとする立場の人が多数当選し、緑風会を結成したことである。
緑風会に参加したのは、山本有三(作家)、田中耕太郎(元東大教授)、奥むめお(婦人運動家)、佐藤尚武(元外交官・外務大臣)、高瀬荘太朗(東京商大学長)、等々であった。初代の参議院議長には緑風会の佐藤尚武氏が就任した。
新憲法による国会の第2院の第1会派が、「参議院を良識の府に」を目標に、92人(6年任期44人、3年任期48人)という勢力で活動を始めたことは、わが国の議会史には画期的なことであった。このグループの特徴は、「参議院の良識」を念頭にして、採決においても会派拘束を行わず、他党との協力や判断も個人の責任でということであった。第1次吉田内閣の農林大臣であった和田博雄は、国会になって参議院議員となり、緑風会に所属し、片山内閣の国務大臣として経済安定を担当している。
昭和22年5月20日から始まった新憲法による国会は、紛糾に紛糾を続けた。衆議院総選挙で過半数を得た政党がなく、吉田首相の率いる自由党は132議席と、社会党の144議席に第1会派を譲った。社会党・民主党・国民協同党で片山哲(社)連立政権を樹立したものの、社会党内の10ヶ月目に総辞職する。後継に芦田均(民)連立政権となったが、これも不詳事件が続き、8ヶ月ともたなかった。第3回臨時国会の昭和23年10月13日に吉田茂(自)が首班に選ばれ、第2次吉田自由党内閣が少数与党で発足し、その後長期保守政権として、昭和29年12月10日まで約6年間続くことになる。
この間、戦後復興をはじめ朝鮮動乱、講話・独立問題等々の課題に国会は取り組んでいくことになる。衆議院では重要法案についての強行採決や解散権の乱用など、数多くの混乱があったが、参議院では緑風会の活躍で混乱は少なかった。重要法案についても昭和23年から28年の6年間に、衆参両議院の両院協議会で調整し修正した法律が24件にのぼっている。緑風会が示した参議院の良識といえる。
緑風会は第2回通常選挙(昭和25年6月)には63人を当選させ、第8回臨時国会では107人の会派となる。第3回通常選挙(昭和28年4月)には16人と当選を激減させ、第16回特別国会には48人の会派となる。第4回通常選挙(昭和31年7月)に当選は5人となり、第25回臨時国会では29人の会派となる。保守合同などで会派の変更があった。その後、議席数を減じ昭和35年1月30日に緑風会は参議院同志会と会派名を変更した。
緑風会は昭和20年代、参議院の良識を確立させた。しかし、戦後復興が経済成長へと変わり、講和条約独立と日米安保体制の中で、政党の整理合同が行われるようになる昭和35年代になると、その波に呑み込まれていく。社会党の左右両派が統合され、保守合同により自由民主党の結成は、いずれも昭和30年であった。「参議院の良識」という言葉は、国民の期待の中で残ったが、それを担保する政治勢力は消えていく。そして「良識」を確保する制度の改革は忘れ去れたままだった。
(自社55年体制が参議院を劣化させた)
1955年(昭和30年)に、左派と右派の社会党の統一と保守合同による自由民主党が結成され、自社「55年体制」の時代となる。昭和30年11月22日に自由民主党の単独政権が成立(第3次鳩山内閣)し、平成5年8月7日まで37年8ヶ月余続くことになる。この間、参議院の政党化が進み、第2院としての機能を劣化させていく。そのプロセスは次のとおり。
1)自民党派閥化の弊害 保守合同は派閥政治をつくった。衆議院で単独過半数をとり、政権を続ける自民党総裁が総理大臣となる。総裁は自民党の衆参両議員によって選ばれる仕組みであった。派閥化は衆議院で強く、参議院では弱かったが、参議院では自民党議員がまとまることで、総裁選出のイニシアチブを握った。となると参議院での自民党実力者が、党内で力を持つことになる。その好例が、7年間続いた佐藤長期政権である。主役は参議院議長を9年続けた重宗雄三氏であった。衆議院議員が入閣運動のため、重宗議長に陳情するという珍事が頻発していた。
2)政権交代を放棄した社会党の劣化 高度経済成長により豊かな社会が実現すると、野党の中核である社会党は、議会政治の根本である政権交代への理念を放棄する。自民党政権に対して労組側の経済的要求を実現させることを政治活動の中心とするようになる。国会が労使交渉のような場となる。社会党所属国会議員に巨大労組幹部数が増加する。参議院でその傾向がつよくなり、政党の活動が変質し、利益要求集団となる。
3)衆議院のコピー化する参議院 昭和49年の通常選挙で、参議院は与野党が伯仲となる。自民党が数名の差で過半数状況となり、国会運営に苦慮することになる。その時代には民社党・公明党・共産党の存在で野党は多党化する。政府と与党自民党は、衆議院で徹底した話し合いを行い、政党間で参議院の審議を踏まえた妥協を行った。その結果、衆議院で合意された重要議案は、参議院で形だけの審議となる。それを参議院のコピー化といわれ、参議院のあり方が問題となる。
4)参議院改革の限界 これらの参議院の動きにたいして、改革すべしとの声が当然に起きた。昭和46年の通常選挙の後、重宗議長の後継をめぐって自民党内で対立が始まる。参議院改革を訴える書簡を全議員に発信した河野謙三議員が、野党の支持で議長に当選した。
河野議長は自民党籍を離脱、私的諮問機関として「参議院問題懇話会」を設置した。しかし、この動きの背景には、ポスト佐藤をめぐる田中角栄と福田赳夫の対立があり、田中派と連携する不浄なものがあった。
河野議長の叫びで始まった「参議院改革」は、さまざまな分野にわたって高い評価を受けた。当時、衆議院事務局に在籍していた私は、河野改革の衆議院側の窓口であった。私の感想は、ひたすら参議院の権限を拡大して衆議院に対抗する制度づくりであり、2院制の機能を適切に発揮させるための根本的改革といえるものはなかった。その後の歴代議長による参議院改革も、同質のものである。
現在の参議院問題は、議会政治の根本から論じなければならない。適切な人材が枯渇していることが最大の問題である。参議院選挙で考慮すべきことだと思う。