日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○ 集団的自衛権の憲法解釈変更問題―1

米国大統領が国賓として訪日したのは18年ぶりで、2泊3日ということだが、1泊目は両首脳が「寿司」を食べただけだ。TPPや尖閣諸島問題が目立っていたが、安倍首相だけが「大統領は(集団的自衛権の検討を)歓迎し、支持する立場を示された」と発言したが、オバマ大統領の真意は「検討=勉強するのはどうぞご勝手に」という程度であった。

大統領の訪日直前に来日した元国務長官、リチャード・アーミテージは、石破茂自民党幹事長に対して「集団的自衛権の憲法解釈変更は、急がないほうがよい」と進言している。アーミテージ氏といえば、「Show the FLAG」や、イラク戦争開戦時には、「Boots on the ground」 などと、日本にもっとも強く「集団的自衛権の行使」を強要してきた日米安保マフィアの親玉である。

そのアーミテージ氏が「急がないほうがよい」といった背景には、ワシントンでは、東アジアの直近の緊張が「北朝鮮問題よりも、尖閣諸島問題=日中関係」にあるとの見方が大勢であるからだ。連休明けの国会で安倍首相は閣議での「憲法解釈変更」を図っており、この論議がクライマックスになるだろう。そこで日本国憲法の「自衛権」について、これまでの議論を整理しておこう。

1)現行憲法制定時の議論
元首相の幣原喜重郎は、憲法9条を絶対平和だとし、あらゆる意味で武力行使を禁止されていると主張した。憲法制定責任者の吉田茂首相は「自衛権の武力行使は禁止されている」と議会で答弁した。当時の日本共産党だけが「自衛権の武力行使は禁止すべきでない」と主張した。

ところが、東大総長の南原繁貴族院議員は、「第二次大戦で日本は世界中に迷惑をかけた。日本が国連に加盟し、国連軍などが結成され、世界平和のため活動するときには、他の加盟国と同じように日本も血と汗を流すべきだ」と追求したとき、吉田首相は答弁に窮し「その時点で憲法を改正するか、国連中心主義の主旨で国会が判断するかだ」と発言した。これは集団的自衛権のことではなく、「国連集団安全保障論」で自衛権とは別の問題である。

2)米ソ冷戦や朝鮮戦争による憲法解釈の変更
現行憲法施行時期の昭和22年頃から、戦勝国内で米ソの対立が生じそれが冷戦となる。東アジアでは中国共産党の勝利(昭和24年)、朝鮮戦争(昭和25年)と、戦後の混乱が続く。米国は日本に憲法改正による再軍備を要求する。吉田首相は復興と国民生活が大事と抵抗した、講和条約など、対米交渉の中で、憲法解釈の枠内で警察予備隊、保安隊などを設ける。

昭和29年に違憲の議論がある自衛隊を発足させ「お玉杓子(自衛隊)は、蛙の子(軍隊)ではない」と、吉田首相は迷憲法解釈答弁で逃げる。日本が国際社会に復帰する講和条約は、昭和27年4月に発効するが、同時に日米安保条約が締結され、独立後の日本の安全は米国が片務的に守ることになる。この安保条約が憲法違反かどうか大論争になったのは昭和32年の立川基地拡張反対運動の砂川事件裁判であった。

3)砂川事件の東京地裁と最高裁判決の本質
砂川事件の東京地裁の判決は、伊達裁判長の名をとって「伊達判決」と呼ばれた。これは、日米安保条約は憲法違反として全員を無罪とした。判決文の中で日本の安全保障は誰が守るのかの問題にふれ、「国連憲章と日本国憲法の制定経過からして、日本が侵略される時は国連の安全保障理事会に責任がある」とした。この論は「国連による集団安全保障」のことである。

この判決の理想主義は評価されたが、米ソ冷戦下の、現実の国際社会で通用できるものではなかった。検察は直ちに跳躍上告し、最高裁の田中耕太郎裁判長は伊達判決を一審に差し戻した。日米安保条約を合憲とし、日本の自衛隊について「憲法は、わが国が主権国家として持つ固有の自衛権は何ら否定したものではなく、平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」と、一定の自衛権があることを認めた。

話は突然、現代に飛ぶ。集団的自衛権の行使に拘る安倍首相が、自民党内の反対論や公明党の慎重論を説得するため、悪知恵を出すように頼んだのが弁護士で自民党副総裁の高村正彦氏であった。彼は、砂川事件・最高裁判決の「固有の自衛権を否定していない」を悪用して、「限定的集団的自衛権なら憲法の解釈変更で可能だ」と、破廉恥な事を言いだした。

これらの問題について、私は衆議院事務局に在籍中から議論に加わり、かつ著作でも縷々述べている。政治の世界では、就中、安全保障問題での「食言」は国家としての信頼を失う。わが国が戦後最大の岐路に立つ今、もう一度整理しておきたいことがあり、それを次号で述べる。

○「万次郎とユニテリアン思想」(草案)
3、土佐南学とユニテリアン思想
万次郎は1843年(天保14年)5月から、1846年(弘化3年)5月まで、約3年間、米国のフェアヘブンで教育をうけることになる。16才から19才までの人間として、最も感性が敏感な時期である。オックスフォード小学校の基礎教育から始まって、スコンチカツレネック・スクールを経て、バレット・アカデミーで航海学など専門教育をうけることになる。

そして1846年5月に、捕鯨船フランクリン号の船員としてニューペットフォード港を出港する。万次郎にとっては、1841年(天保12年)6月にジョン・ハウランド号に救助され、約2年間の捕鯨船で働いた体験を持っていた。2度目の捕鯨船生活は、航海術・測量術・高等数学など専門教育を受けた航海士としての活動であった。万次郎は21才で副船長となり、翌49年にニューベットフォードに帰宅し、捕鯨活動を終える。

万次郎の信条や思想が出来上がるのは、5年2ヵ月に及ぶ「捕鯨船」の生活と、約三年間のフェアヘブンでの生活である。捕鯨船といえば、当時では「海に浮かぶヤクザ社会」で、「さまざまな人種と文化的背景を持つ人間が集まった、国連を海に浮かべたような職場であり、肌の色よりも仕事が出来るかどうかで評価が決まる社会」だった(北代淳二氏・前述論文)。捕鯨船での想像できない過酷な生活は、万次郎にとって、人間を学ぶ最高の大学であった。

一方、3年という短い期間であったフェアヘブンなどの生活は、万次郎にとって知識や技術を学ぶ機会だけではない。前述したように、当時のフェアヘブン周辺はユニテリアン運動にもとづく、草の根デモクラシーの花が咲いていた時期であった。青春期の万次郎がタウンミーティングを見学し、自由と寛容、そして隣人愛や人類愛の社会に憧れたことは、容易に推測できる。

漁師の見習いとして漂流する14才まで、土佐で暮らしていた万次郎は、貧しい漁夫の家に生まれ、九才で父を亡くし奉公に出るという極貧の生活をしていた。同時に、健康で頭が良く闊達な性格であったことで知られている。そこで検証したいのは、万次郎が過酷な「捕鯨船生活」に適応し、さらに異国の正統派ではない宗教の教義を理解して実践できた原因は何かという問題である。万次郎が生まれ育った土佐の土着文化の中に、解明の鍵があると思う。

(「土佐南学」とは何か!) 俗説による「土佐南学」とは、周防国(山口県)の南村梅軒から始まる朱子学と禅学を融合させたもので、長宗我部を経て山内土佐藩政で、野中兼山や谷泰山らへと受け継がれた仁義忠孝の学問といわれている。これは権力者側の支配の学問といえるものだ。これを批判するのではないがその背後にある土佐の歴史と風土の検証が必要である。

わが国で黒潮が直岸する唯一の土佐には、縄文時代から黒潮スンダランド文化があった。これが土佐南学の起点である。自然と神を一体とし先祖を崇拝して絶対の自由を求め、俗権力を嫌う原始アーナキズムが古代土佐人の原点である。ユニテリアンに通じるものだ。

その上に空海の宗教文化、流人落人文化、そして鎌倉時代の禅宗の高僧・夢窓国師が土佐に来訪して蒔いた種が、土佐の血を持つ義堂・絶海の二人の僧によって磨かれ、戦国時代の末期に儒学者・南村梅軒によって体系化されたのが、土佐学としての真の土佐南学である。

その特長は、時代の状況によって頑固な論理となったり「知行合一」で知られる実践行動となる。朱子学で体系化された土佐南学が、幕末には陽明学化して明治維新のイデオロギーとなる柔軟性がある。江戸時代に「多目多聴」、「相互扶助」、「奉仕勤倹」として、土佐藩の指針となった。現代にも通じる。
(この項、続く)

(追伸) 4月27日(日)に行われた鹿児島2区の補欠選挙と、沖縄市長選挙で、いずれも自公与党の推薦候補が当選した。自民党は消費税増税、TPP、集団的自衛権などの山積する問題のなかで、政権への信頼を得たと有頂天になっている。

とんでもないことで、実態は鹿児島2区では一応の野党共闘ができたが、選挙戦最終日の4月26日(土)に、維新と結いの党は合併を決めるための執行役員会を開くなど、原発問題などとともにその足並みが乱れていた。沖縄市長選では、自・公推薦、民主・維新が支持した候補が勝った。要するに、民主党政権の悪政に始まる、国民の政治不信を反映した選挙であった。ロシアが武力で固めて、住民投票で併合したのがクリミアなら、自民党がカネと利権で当選させたのが二つの選挙であった。これが民主主義か!。

 

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