日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○ 集団的自衛権の憲法解釈変更問題―2

日本国憲法の「自衛権」について、前号では、憲法制定時から昭和34年12月に最高裁が砂川事件について「駐留米軍は憲法9条に抵触せず」との見解で「伊達判決」を破棄し、東京地裁に差し戻したことまでを説明した。本号では、その後の展開を紹介する。

1)岸政権の「安保条約改定」で何が変わったか
昭和34年3月に、第一審とはいえ「日米安保条約は違憲だ」との判決は、翌35年に安保条約の改定を政治生命とする岸首相にとっては重大問題であった。検察は直ちに跳躍上告し、同年12月には最高裁が破棄し差し戻した判決を、田中耕太郎最高裁長官が、事前に米国側と協議したことが米国の公文書公開でわかり、国民の批判を受けた。

岸首相の「安保条約改定」は、条約の片務性を改定して、日本に、より積極的な軍事活動ができるようにすることであった。
しかし、片務性の本質に変更はなかった。米ソ冷戦が激化するなか、国民の反対運動は戦後最大の騒ぎとなり、30万人のデモ隊が連日国会を取り囲む状態が続き、社・共両党を中心に国会でも激論が展開され、物理的抵抗や強行審議となる。結局、衆議院で強行採決したものの参議院では十分な審議ができず、自然成立するという異常事態となった。
この歴史に残る「60年安保騒動」が残したものは、岸首相が辞任し「寛容と忍耐」の池田政権に交代する。岸政権の憲法改正・再軍備の政治方向は後退したものの、安全保障の米国への依存度が高くなったことだ。そして、日本の社会主義化を目指して活動してきた革新勢力は挫折し、戦略の変更をせざるを得なくなる。共産党は日本独自路線となる。民社党が分裂した社会党は、ソ連や中国から選挙のための援助を受けながら、国会で憲法改正を阻止する3分の1以上の勢力維持を政治目的とするようになる。

池田政権の所得倍増政策が成功し、高度経済成長による豊かな社会が実現するにつれて、革新勢力も生活条件の向上に目標を置くようになり、野党は政権を獲る意欲を失う。「自衛権論議」も、生活条件闘争の手段となる。この見解には異論があろうが、60年安保騒動の前年に衆議院事務局に奉職し、以後、55年体制による政治の裏側で生きてきた私の実感である。

2)政府の「集団的自衛権」憲法解釈の限界
ベトナム戦争が、昭和35年に始まり、同50年に終わる。米韓軍事同盟の関係で「集団的自衛権」の行使として韓国は出兵する。その影響もあって、国会論議となったのが、日米安保第5条であった。論点は、「日本の施政領域下で、いずれか一方の締結国への攻撃を、共通の危険として対処するよう行動する」ことが、個別的自衛権か、集団的自衛権もあり得るかという論争であった。

この時期、東アジアでの緊張は少なかった。国会での自衛権論争も政治論議としては切迫していなかった。与党も野党も、個人的で自由な意見を述べていた。砂川事件での最高裁判決の「憲法は決して無防備、無抵抗を定めたものではなく、主権国家としての固有の個別的自衛権は持つ」との意味を、与党のみならず野党もそれなりに理解していた。ただ、政府側では、台湾問題でしばしば米国から提起される集団的自衛権の行使について苦慮していた。砂川事件の最高裁判決が、憲法解釈の限界と内閣法制局は拘り、それ以上のことは、憲法の改正が必要だという考えであった。

昭和56年5月、鈴木内閣は国会から出された質問主意書に対する答弁書で「自衛権の行使は必要最小限度にとどめるべきで、自国が攻撃を受けていない状態で武力を使う集団的自衛権は、その範囲を超えるため憲法上許されない」という憲法解釈を示し、これが固定した。
平成期に入って、この憲法解釈では対応できない事態が発生した。平成元年暮れに米ソ冷戦が終結し、翌2年にイラクがクェートに侵攻して、国連安保理の決議が行われ、国連加盟国でクェートを救援することになる。珍しく国連が機能するのだ。日本には、国際社会から人的・資金的・物質的支援を求めてきた。他国の戦争に参加するわけだから、憲法九条に関わる問題である。ところが、政府も与野党とも、自衛権論議から抜け出すことができず、海部政権は窮地に陥った。

この時、小沢一郎幹事長と衆議院事務局委員部長の職にあった私で考えたのが、憲法制定時に南原東大総長が主張し、伊達判決にある「国連による集団安全保障論」である。PKO活動もこの理念からのものである。この時、違憲論のあった資金的援助は一部の野党の協力で実現した。内閣法制局は「自衛隊の派遣」に憲法に抵触すると主張して抵抗した。
この理論は自民党の「小沢調査会」で、国際社会における日本の役割としてPKO法に実現する。これらの非公式協議で、土井たか子社会党委員長から「自衛隊を国権の発動でない」別組織なら賛成すると、私にメモが届き、小沢幹事長は同調したが、政府与党が理解しなかった。「集団的自衛権」の解釈変更とはまったく性格の異なる問題である。          (この項続く)
○「万次郎とユニテリアン思想」(草案)

3、土佐南学とユニテリアン思想
(「土佐南学」とは何か―民衆側から)

民衆側に「土佐南学」はあったのか。文献や資料があるはずだが手元にはない。私が子どもの頃、聞き覚えのある話が、西東玄氏の『ジョン万次郎―幕末日本の開国を助けた漂流少年』(明治図書出版)のなかにある。

土佐では江戸時代、15才以上の男子を、夜は「若者組」で共同生活をさせて、「土佐南学」の規律を教えた。現代文にして掲
載していたので、代表的なものを転載する。

(家事)早寝、早起きして家業に励み、暇な時は読み書き算盤を習え。万事倹約し、衣類、服装は質素にせよ。

(長幼の定め)親には孝をつくし、兄弟姉妹は仲良くせよ。物事を実行するには、万事、年長者の言いつけを守れ。年長者には必ず挨拶せよ。重い労働は若者が進んで引き受け、年長者にはさせるな。子供や雇い人をいじめてはならない。

(服装・態度)手ぬぐいを肩にかけたり、腰に下げて歩いてはならぬ。ふところ手、鼻歌はつつしめ。会議の席であくび、雑談、私語をしてはならぬ。

(人のと交際)道で人に会ったら挨拶せよ。他人の悪口を言うな。人にぞんざいな言葉づかいはしない。喧嘩、口論をしてはならない。他人の家に長居をしたり旅人に無礼な行いをしてはならない。

(勝負事・酒・煙草)博打、勝負事をしてはならない。寄り合いの席では、長居、深酒をしてはならぬ。村役人や目上の人がいる席では、お茶、たばこはつつしめ。たばこは二十五才から、くわえ煙草をして歩くな。

(男女関係)夜遊び、女狂いの悪戯をしてはならない。
(以下省略)

足摺岬の近くの中浜村に生まれた万次郎は、9才で父・悦助を亡くし、母・志をは、5人の子供を育てることに苦労する。兄・時蔵が病弱なため、万次郎が母を助け、近所に奉公に出ることで家計を助ける。寺子屋に行けない万次郎を母・志をはしっかりと育てる。その中には民衆の中に生きる「土佐南学」があった。
ある時、万次郎は奉公に出た家で米を石臼でついているとき、小石を入れると早く仕上がることを発見、注意されても止めない。古老の話だと、叱られて中浜村を逃げ出し、隣の大浜村の漁港に停泊していた漁船に泳いで助けを求めた。その漁船が宇佐浦(現・土佐市)の船で、船主は徳右衛門であった。その縁で万次郎は、徳右衛門の下で漁師の見習いとなり、年令が足りなかったが徳右衛門の配慮で「若者組」に入る。

土佐南学の民衆版といえる「若者組」に類似した組織と規律が、実は米国のフェアヘブンに残っていた。メイフラワー号で米国のプリムスに上陸したピューリタンの子孫たちの生活習慣である。この人たちが米国のユニテリアンのルーツであり、草の根デモクラシーの原点で、自由と規律を共存させようとした人たちであった。
万次郎がフェアヘブンの社会に馴染み、人々から好感をもって育てられた背景には、少年期の故里土佐で民衆に土着した「土佐南学」の文化を身につけたことによるものといえる。万次郎にとって、ユニテリアン信仰も、草の根デモクラシーも理解するに困難ではなかった。人間にとっての普遍的原理は、世界に共通しているからだ。

歴史に「もしも」が許されるなら、捕鯨船のホイット・フィールド船長が救助した少年が、土佐で生まれ育った万次郎でなかったなら、日本の近代史はどうなっていただろうか。日本の開国は遅れ、列強国の植民地になった可能性がある、と私は思っている。歴史を動かすのは「神の配剤」といえるが、配剤の基準は「人間に普遍する原理」ではなかろうか。     (この項、続く)

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