(2)壬申の乱と「天皇」概念の誕生・「日本国」の形成

乙巳のクーデター(大化の改新)後に、大規模な難波宮が造営(653年)され、倭国大和朝廷の遷都が行われ新羅系の理念に基づいて孝徳朝による乙巳クーデターの理念(古代律令国家の完成)の実現に向かうが、ここでその実現は頓挫する。というのも、孝徳天皇(=大王)の妻であった皇祖母尊が飛鳥地方へ戻ることに固執し、その息子であった乙巳のクーデターの立役者・中大兄皇子らもこれに賛同したからである。これにショックを受けた孝徳天皇(大王)は654年10月、病でわびしく崩御。跡を継いだのは、皇極女帝を務めた皇祖母尊(ちめみおやのみこと)であり、飛鳥板蓋宮で再祚(さいそ、一旦退いた大王=天皇が再度、即位すること)した斉明女帝である。

これとともに657年、孝徳天皇の王子であった有間皇子が中大兄皇子の謀略にはまり、「謀反の罪」で絞首刑に処せられる(有間皇子の変)。ところが、唐・新羅連合軍によって660年百済が滅亡、斉明女帝が百済の残党から再興のための支援を要請されたため百済滅亡の背後に当時の世界帝国唐が存在することを知りながら、百済再興のための支援を強行したものの、白村江の戦い(663年)で大敗、その過程で斉明女帝も客死する。このため、唐・新羅から倭国を守るという国防上の理由もあって、中大兄皇子は百済滅亡後に倭国に亡命(渡来)してきた百済高官・専門技術職にあった百済人とともに近江に遷都し、7年間に及ぶ称制(古代日本で天皇が在位していないときに、皇后・皇太子などが臨時に政務を行うこと。白村江の戦いの責任があったため斉明天皇の崩御後に即、即位するわけには行かなかった)に終止符を打って668年、やっと天智天皇=倭国治天下大王として即位する(天智朝)。

大海皇子が一時避難した吉野地方

乙巳クーデター=大化の改新の理念の実現が中座する中、天智朝の末期になって皇位継承問題が勃発する。もともとは、天智天皇の弟であった大海皇子が有力候補であったが、天智天皇の王子である大友皇子が台頭してきたのである。天智天皇としては当然、後継者として大友皇子を選びたく成る。そこで、「大王から天皇へ」によると、病床にあった天智天皇は大海皇子を呼び、「後事をすべてお前に任せたい」と(「謀反への誘い水」)をかけた。

これに対して、海千山千の天智天皇を知る大海皇子は「私は病をかかえた身で、とても天下の政を執ることはできません。王位は大后の倭姫(やまとひめ)さまにお譲りになり、そのもとで大友皇子が太子に立たれて、政務をお執りになるのがよろしいでしょう。私は、今日にでも出家して陛下のために仏道にはげみたいと存じます」と言葉巧みに答え、吉野の仏寺に駆け込んだ。もちろん、大海皇子も天智天皇の意図を知っていたから、吉野に逃げ込むとともに、吉野から脱出の機会を狙っていた。ここに、古代日本最大の内乱である壬申の乱が開始される。672年のことである。最も注目しなければならないのは、この年は、唐と組んで三韓統一を果たした新羅が文武王(武烈王の長子)のもと、7年戦争で朝鮮半島から唐を駆逐し、勝利した年だったということである。

この壬申の乱は、「古代日本と朝鮮」によると、高柳光寿・竹内理三篇の「日本史辞典」に次のように記載されている。
====文献引用開始====
672年(弘文一・天武一、壬申の年六月、天智天皇の子大友皇子と実弟大海皇子の間の皇位継承をめぐる約一カ月に及ぶ内乱。吉野宮に隠棲していた大海皇子は、天智天皇の死後、伊賀・伊勢を経て美濃に入り、東国を押さえ、ついで別働隊は倭古宮(やまときょう)を占拠、近江瀬多で大友皇子の軍を大破し、皇子を自害させ、翌年即位して天武天皇となった。以後、強力に(大化の)改新政治を推進した。
====文献引用終わり====

壬申の乱の主要舞台

壬申の乱の一部始終については、実際にみてきたかのように「大王から天皇へ」で実に詳細に描かれている。しかし、同署では大海皇子の戦略・戦術が功を奏したことのみに力点が置かれている。これに対して、「古代日本と朝鮮」では、その背景に新羅の影響があったことを強調している。乙巳の乱=大化の改新の青写真を描いたのが、新羅から来た政治顧問たちであったことの関係からである。その証拠に、「古代日本と朝鮮」では、次の二点を強調している。

(1)伊賀や伊勢・美濃は新羅からの渡来人からの拠点
====文献引用開始====
要するに「壬申の乱」にあっては美濃というものが重要な要素になっているということで、大海皇子のその「軍事計略」がどんなに優れたものであったとしても、その「計略」自体だけでは結局なにもならなかったはずです。してみると、大海皇子が「伊賀・伊勢を経て美濃に走った」その美濃には当然、それに呼応する勢力がなくてはならなかったはずです。
いま私が「なかなかおもしろいことだ」といったのはこのことだったのです。というのは、美濃というところは、大海皇子がそこを「経て」行ったという伊賀や伊勢とともに、新羅系遺跡の濃厚なところだったのです。
(中略)
さて、「壬申の乱」の重要な要素となっている美濃であるが、ここはさきにもいったように百済や高句麗系の遺跡がミックスしているわけでもなく、新羅系のそれ(遺跡)のみが濃厚なわけです。「続日本記(しょくにほんき)」にもあるように、美濃は「壬申の乱」後の715年、尾張にいた新羅系のものたち(渡来人)がここに移って、席田郡を建置しているが、それ以前から、ここは新羅系渡来人が根を張っていたところであります。
====文献引用終わり====
つまり、大海皇子は新羅系渡来人を傘下に置き、大友皇子の勢力を一掃したということである。

(2)天武朝の時代に遣唐使は中断し、遣新羅使は10回に渡っており、天武朝と新羅の関係の強さを示す
====文献引用開始====
それからもうひとつ(壬申の乱で大海皇子が新羅勢力の支援で内乱に勝利したことの証拠のひとつ)決定的なことは、669年の天智八年、壬申の乱の直前まで続いていた遣唐使の派遣が、「壬申の乱」後からぴたりと途絶えてしまったということです。それから約三十年後の702年、大宝二年になってやっと再開されることになるが、これは天武が亡くなり、文武朝となってからです。
では、天武朝のときはどうであったかというと、このあいだに遣唐使がなくなったかわり、遣新羅使は十回ほども行っている。そしていっぽう、新羅からはその使節が実に何と二十四回も来ており、日本からの入唐学問僧なども新羅使にしたがって往還(おうかん)しております。
これはいったい、どういうことを意味していたのだろうか。これは「壬申の乱」をひきおこしたでできた天武朝はもっぱら新羅一辺倒であった、といってことばがすぎるとすれば、少なくともそのあいだがらは最も密接であった、ということをものがたっているものにほかなりません。
====文献引用開始====

かくして、壬申の乱の翌年の673年、大海皇子は日本列島史上はじめて「天武天皇(スメラミコト)」として即位し、「日本国」が誕生する。「大王から天皇へ」の「エピローグ 『天皇』の出現」には、次のように記載されている。

「万葉集」には、「壬申の乱平定(しづ)まりにし以降の歌」として、
①「大王は 神にしませば赤駒の 腹這ふ田居を 京師(きょうし)となしつつ」(巻19ー4260)
②「大王は 神にしませば 水鳥の すだく水沼(みぬま)を 皇都(みやこ)となしつつ」

である。これは、「倭国大王」→「倭国治天下大王」→「天皇(すめらみこと)」と発展した古代倭国・日本国家の最高権力者の呼称の最終形態である。「大王から天皇へ」では、「天皇」という言葉自身は「道教」に初出であるが、「要するに『天皇』という二文字に込められた理念は、天つ神の系譜を引く神で、皇帝に準じる格を持った君主ということになる。基本的には固有の神話観念(天武朝期に編纂が開始された古事記、日本書紀につづられた建国神話に基づく神話観念)に裏打ちされた称号であって、ここに道教の影響を明確な形で見いだすことは困難である」。そして同書は、天武朝時代に、「天皇」という概念だけでなく、日神=天照大神の子孫である「日の御子」の統治する国という意味で「日本」という国号が定められ、「日神」の真下にある「国」という意味の「世界の中心にあるということで、王権神話に裏打ちされた日本的中華思想」の産物として、これを捉えている。

古代律令国家「日本」とその統治者である「天皇」の概念の出現である。これを「文明の中心地(中華帝国)ー文明の周辺地帯(朝鮮半島)ー(玄界灘を隔てた)文明の周辺的辺境地帯」という図式で再考察し、「東アジア共同体」の基礎について触れるとともに、日本が何故、「唯物史観(経済学批判序文)」に説く「アジア的生産様式→古代ギリシア・ローマ的生産様式→中世封建的生産様式→近代資本主義的生産様式」に似た発展を遂げ、欧米文明圏以外で初めて近代化に成功したのか、私見を述べてみたい。…(続く)

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