【7】治天下大王から天皇へー古代律令国家日本の誕生と冊封体制からの離脱(その1)

あまり学術的権威はないが、Wikipediaによると、1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する(新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1978年9月)。その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定され、2年後の1983年には国宝に指定された。この事実は古代史日本の研究書なら、どの研究書にも載っている。

この剣の115文字の大量の記録は、同じくWikipediaによると、次のような内容である。

====文献引用開始====
銘文の内容
(表)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

書かれている文字に読点を打って解釈すると、
「辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表) 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ[3]。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))の大王の寺[4]、シキの宮に在る時、吾[5]、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」
====文献引用終わり====

剣の副葬品としての埋葬年代は5世紀後半で、記載内容の意味を述べると、①稲荷山鉄剣を作らせたオワケは当時の倭国大王であった「ワカタケル」を補佐して、自ら倭国の統治に与った②オワケの祖先は、オホヒコであるということーである。

江上「騎馬民族国家」の改訂版あとがきによると、オオヒコは、崇神朝の四道将軍の一人であり、阿部氏の血統であり、代々倭国大王(天皇、日本という言葉が日本史上初めて使われたのは、672年の壬申の乱で645年のクーデター・大化の改新の首謀者であった中大兄皇子=後の天智天皇=の息子であった大友皇子を破り、古代律令国家の基礎を築いた大海人皇子が天武天皇として即位した673年)の近衛兵の隊長であった。その子孫のオワケ一族は倭国大王に使える二つの重要な役職ー近衛職と大膳職(倭国大王の飲食を奉供する重要役職)ーを世襲しており、倭国大王側近中の重職の家柄である。また、稲荷山古墳鉄剣とともに熊本県江田船古墳からもワカタケルの名と解明された鉄剣が出土されている。

つまり、ワカタケル大王の名前を記載した鉄剣が関東と九州両地方で発見されたことは、既に五世紀後半には倭国大王の政権=ヤマト朝廷の実質的な支配権が少なくとも西日本から関東地方全土に及んでいたことが分かる。また、ワカタケル大王とは実は記紀に記載されている雄略天皇であったことが明確になり、これは、雄略天皇が冊封体制への組み入れを求め、中国南朝(後漢の滅亡後、中国は魏・呉・蜀の三国時代になり、最終的には魏が統一して普が立つがその後、五胡十六国の分裂構想時代に突入。その後、東普の南朝と北魏の北朝という南北王朝時代を迎えるが、その南朝の有力国が宋であり、宋時代に編纂された「宋書」に有名な「倭の五王」の記述がある)に贈った上奏文とも合致する。

稲荷山古墳からの鉄剣碑文の解明以降、五世紀後半の事実上の日本列島統一のみが重要視されるが、江上はこれに対して、これこそ倭国政権=ヤマト朝廷が、実は騎馬民族征服王朝だった証拠だとして、次のように述べている。

====文献引用開始====
しかし、この稲荷山古墳鉄剣銘でもっとも重要な事柄は、その系譜そのものの書き方、在り方であるが、そのことについては古代史家によっても、国語学・国文学者によっても、ほとんど問題にされなかったことに対し、江上は、この系譜のように、住所・本貫については一言も触れず、すべて親から子への名前の連続による単純な男系の系譜を示すものは、ほとんどすべてアジアの東西の騎馬民族のあいだのみにおこなわれた系譜の様式であることを、ユダヤ、アラブ、モンゴル、チベットなどの実例を惹いて証明した。

そうしてこれによって稲荷山古墳鉄剣の、オワケの一族が、騎馬民族特有の系譜の保持者であり、また彼ら一族を歴代近衛兵の隊長、大膳職に一任したのは、ユーラシアの遊牧騎馬民族のあいだに広く見られる君主と杖刀人、盃棒持者との特別親縁な関係と全く同じで、それによって天皇家(ヤマト政権大王)もまたオワケ一族と同体不離な関係にあった騎馬民族であることが傍証されることを、江上は論じたのである。
====文献引用終わり====

さて、次に雄略天皇の冊封外交の失敗と離脱(これは、やはり大局的に見ると日本列島が大陸とは海によって各節していた「周辺的辺境国家」であることからくるものである)、治天下大王概念の確立=天皇(スメラミコト)概念の芽生えについて、「大王から天皇へ」をもとに論じる。

【8】治天下大王から天皇へー古代律令国家日本の誕生と冊封体制からの離脱(その2)

中国で581年に隋が成立する前は南北朝時代で、南朝の「宋書」に倭の五王(讃・珍・済・興・武)が邪馬台国の卑弥呼以降、二度目の対中外交を展開したことが記されている。南朝の冊封体制に自ら進んで入ることを選んだもので、半島ルートとは別に大陸・中国ルートを開拓しようとしたものだ。倭の五王のうち、武は稲荷山古墳で発見された鉄剣の碑文に記されていたワカタケル大王であり、記紀に記載の雄略天皇(何度も繰り返すが、天皇、日本の概念は天武朝の時代に初めて確立される)である。

宋書によると、雄略天皇(正確には倭国大王)は紀元478年、南朝の宋に上奏文を送り、古代朝鮮の強国であり、南部朝鮮の加耶を拠点に倭国が抗争したものの失敗した高句麗に対抗するため、官爵を求めた。しかし、百済や新羅をも支配下に置いたということを意味する官爵(高句麗と同等の開府儀同三司)は受けることができずに、「安東大将軍」の爵位のみ認められる。これは、「大王から天皇へ」では、このことについて次のように記している。

====文献引用開始====
百済は一度だけ北魏に朝貢して救援を要請したことがあるが、おおむね南朝と友好関係にあった。また、南北王朝に両属外交を展開していた高句麗も(同国が)強国だけに宋の北魏包囲網からはずすわけにはいかなかった。そこに反高句麗勢力の盟主を自任する倭王武が、高句麗征討をぶちあげて、百済における軍政権と、高句麗と同等の開府儀同三司を要求してきたのである。これが、宋の外交政策の基本方針と相いれないものであることは明白であろう。もともと宋朝がさほど重要視していなかった倭王である。わずかに大将軍に昇叙して、お茶をにごすにとどまったのも当然であった。
====文献引用終わり====

ということで、倭国大王(雄略天皇)対中国南朝冊封体制入りを求めた外交政策は失敗に終わる。もっとも、紀元5世紀に入ってからの高度な文化・文明をもった南部朝鮮加耶諸国からの大量の渡来人の渡航に伴い、倭国は次第に高度な文明国に進化しつつあった。その意味で、宿敵・高句麗に対抗できる爵位が与えられなかったとしても、それにこだわる必要はない。むしろ、倭王武=雄略天皇は、新たな技術革新のもとに、中国の冊封体制とは異なる新たな国家観を形成しつつあった。その辺りの状況について、「大王から天皇へ」では、次のように記している。

====文献引用開始====
倭王権が、このように、ことと次第によっては、中国王朝との断行も辞さないと考えるようになった背景には、倭王権の外交にみあった官爵がいっこうに得られないことにつよい不満と焦燥があったことに加えて、倭王武の地位が強化され、独自の権威が備わってきたことがあったと考えられる。
倭王が国内で「治天下大王」という称号を用い始めるのもちょうどこのころである。冊封体制からの離脱と「治天下大王」号の成立が密接に関連していることを鋭く見抜いたのは、西嶋定生氏である。独自の君主号を国内で用い始めたということは、倭王権に固有の権威が備わってきて、中国王朝の権威をかりなくても列島の支配を安定的におこなうことができるようになったことを示すものと考えられる。
====文献引用終わり====

これは、五世紀以降、日本列島で周辺的辺境革命が開始されたことを物語る。その延長上に、高等宗教である仏教の受容=曾我氏時代、飛鳥時代、大化の改新、壬申の乱を経て、古代律令国家の完成(天武朝)がある。ただし、「大王から天皇へ」では、この周辺的辺境革命の意義が分かっていない。それは、推古天皇の摂政になった厩戸皇子(うまやどのおうじ、後に聖徳太子として記紀において神話化される)の対隋外交の記述が混乱していることからわかる。この点について、次に述べる。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう