【9】周辺的辺境革命としての古代律令国家の形成

(1)ヤマト王権による周辺的辺境革命としての「日本国家」創設の序章

日本列島に朝鮮半島南部から日本列島にやってきた渡来人が技術革新を中心に文明革新を行った5世紀の後半、雄略天皇の冊封を求めた対中外交が失敗に終わり、倭政権=ヤマト政権は次第に独自の国家観を形成、倭政権=ヤマト政権はその建設に向けて体制の整備に乗り出す。その重要な契機になったのが、527年に九州・筑紫地方で起こった磐井の乱である。

これは、古代朝鮮半島の強国に成長してきた新羅や百済、特に新羅が朝鮮半島南部の弁韓で形成されていた加耶諸国を圧迫(侵攻)し始めたことに由来する。本投稿記事は江上の騎馬民族征服王朝説をマックス・ウェーバー=大塚史学の観点(文明の中心地帯・周辺地帯=中心文明の圧政やその限界から、これを超克する思想・理念など主な文化が創造され、技術革新もなされる=・辺境地帯(周辺地帯で創造された宗教・思想などの文化を受容し、技術革新も受け入れ、新たな文明を形成、その中心になる)のダイナミックな変動から、歴史の変革・発展が行われる、という観点)から再評価している。このため概ね、古代朝鮮当時の文明の中心は古代扶余系の高句麗・百済・唐と結んだ新興新羅であり、加耶諸国は周辺地帯=特に、鉄器文明で栄える=、日本列島はその周辺的辺境地帯と位置づけられる。

これを江上の「騎馬民族国家改訂版」(中公新書1994年)の「あとがき(初版を補強した内容)」から図式化してみると、次のようになる。

扶余民族(中国東北地方牡丹江流域)→→辰王家(南部朝鮮)→→百済王家(南部朝鮮)
→→高句麗王家(北部朝鮮)
の系統と
扶余民族(中国東北地方牡丹江流域)→→加耶(任那)(南部朝鮮)→→倭国王家(日本列島)
→→高句麗王家(北部朝鮮)
の系統になる。つまり、百済や新羅と対立した高句麗は扶余族のながれであり、加耶諸国の王族と倭国の王族、百済の王族は深い関係にあったということである。

要するに、古代朝鮮と古代日本は民族的に同一で、日本の天皇家の出自は加耶諸国の王族だということである。余談で申し訳ないが、この辺りを韓国のKBSなどが時代考証の上、テレビドラマ化したものが、高句麗・百済の建設物語「朱蒙」とその続編「風の国」であり、百済の興亡盛衰を描いたのが「近肖古王」「階伯(けべく)」であり、とても、興味がありかつ面白い。また、新羅による三国統一のドラマは、「幻の王女チャミンゴ」を抜く高視聴率となった「善徳女王」、「大王たちの戦い」である。「日本放送協会」(NHK)の「大河ドラマ」とは、そのスケールの大きさとストーリーの面白さで比べ物にならない。
なおこの機会に言えば、NHKでドラマとか歌謡番組を放映する必要はない。国会本会議、衆参各委員会の完全中継と正確なニュース、政党各党の公平な討論会、気象情報、国内外の災害への対処報道を放送すれば良い。現在は、安倍晋三政権の「政策」(実は、とても政策とは言い難い)を忖度した「報道」やドラマは排除すべき。放送法こそ、予想される新政権の改革の第一弾とならなければならない。

なお、「近肖古王」では邪馬台国の姫が登場、主人公の第二王妃の長男と結婚して、日本列島の統一国家形成に寄与したとしているが、併せて、日本にも現存している百済と古代日本の友好関係を示す「七支刀」の由来もドラマ化されている。山川出版の「日本史」は邪馬台国がヤマト朝廷、古代律令国家の母胎になったと明記している。七支刀は奈良県天理市石神神社に保存され、国宝になっている。

奈良県天理市石上神社の保存され国宝になっている七支刀

つまり、加耶諸国・百済・日本はそれぞれの王族を通じて、極めて緊密な関係にあったということである。磐井の乱や古代東アジアの趨勢を決定づけた白村江の戦い(663年、645年の大化の改新の後に起こった)もここから来ている。

話を「磐井の乱」に戻すと、これは日本書紀に詳細が記載されている。記紀を単に、政治的な思惑で記された「ニセの歴史書(古代日本国家の正当性を記した単なる物語)」とのみ理解するのは行き過ぎというのが、最近の学説である。「大王から天皇へ」やWikipediaなどによると、真興王(しんこうおう、チヌン大帝534年 – 576年)の時代に強国化した新羅から圧迫を受け続けていた加耶諸国=任那を支援するため、倭政権は527年(継体21年)、倭政権は近江毛野率いる軍を九州・筑紫地方から南部朝鮮に派兵しようとしたが、筑紫国造(くにのみやつこ、地方豪族)がはばんだため、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱。Wikipediaでは、「この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡るヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと見られている」と記載されている。

いずれにしても、磐井の乱と倭政権が後年の白村江の戦いを起こしたことも考えると、倭政権(天皇)の出自が加耶諸国(中でも金官加耶国)にあったとする江上説の有力な根拠になる。それはさておき、この磐井の乱以降、倭政権は「治天下大王」の理念の下に、大王の集権体制確立を急ぎ、氏制度(うじせいど、大王を補佐する家産官僚体制)、部民(べのたみ、氏に所有を認め民=奴婢)、屯倉(みやけ、大王の直轄領地で王族の資金を調達するための資金源)、国造(くにのみやつこ、倭の大王のもとに地方を統率する地方長官)などの制度を強化した。

こうした倭国大王の政治制度改革で台頭してきた第一級の家産官僚が、蘇我氏と物部氏である。両氏は6世紀前半に百済よりもたらされた世界宗教のひとつである仏教を巡っていわゆる「崇仏・排仏論争」を展開、最終的には、仏教を「政治的に」受容した曾我氏が勝利を治めるとともに、倭政権は邪馬台国以来の神聖政治から、「護国仏教」の段階ではあったが、高等宗教を取り入れた統治理念のより高度な政治体制を確立するようになっていく。

(2)「崇仏・排仏論争」の帰結と蘇我氏による実権の掌握

崇仏・排仏論争について述べる前に、勝利して倭王権での実質的な権力者になる蘇我氏の出自などについて述べておく必要がある。曾我氏の出自について、、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説があったが、証拠不十分として現在の段階では支持されていない。しかし、「大王から天皇へ」では次のように記載されており、出自が渡来人であった可能性は小さくない。

====文献引用開始====
(蘇我)馬子とともに草創期の仏教にかかわった人々は、ほとんどが渡来系の人々であった。半島からやってきた渡来人は、もともと外来の宗教である仏教を受け入れやすい素地をもっていたのである。
曾我氏は、元来、渡来氏族と密接な関係を持つ氏族であった。稲目(馬子の父)は、553年(欽明14年)に百済系渡来人の王辰爾(おうしんに)を派遣して船にかける税を算定させているし、555年から翌年にかけては、吉備国の白猪屯倉(しらいのみやけ)や大和国高市郡の韓人大身屯倉(からふとのおおむさみやけ)・高麗人小身狭屯倉(こまひとのおむさみやけ)を設置しているが、これらの屯倉(みやけ)はいずれもその経営に渡来人がかかわっていた。とくに倭漢人(やまとのあやひと)氏は長年にわたって蘇我氏と密接な関係にあり、その私的武力となっている。また蘇我氏のヤケ(屯倉)はヤマトの飛鳥周辺ばかりでなく、河内の石川流域(大阪市富田林周辺)にも分布していたが、石川流域は渡来人が移住しているところで、これまた蘇我氏と渡来人の密接な関係をうかがわせるものである。

蘇我氏はおそらく稲目以前の段階から、多数の渡来人を配下におき、かられの技能を使って朝廷の財政部門を掌握したり、先進的な屯倉経営をおこなったりしていた。この渡来人との関係が、蘇我氏の解明的、改革派的性格の源泉となり、それによって王権内の高い地位も維持していたのである。稲目がいちはやく崇仏の態度を表明したのは、個人的な信仰心ももちろんあっただろうが、もう一方では渡来人の人心掌握には仏教が得策だという政治的判断もはたらいたと思われる。
====文献引用終わり====

また、Wikipediaには、「満智の子は韓子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高麗(こま)という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっているが、水谷千秋は「蘇我氏渡来人説」が広く受け入れられた背景を蘇我氏を逆賊とする史観と適合していたからではないかと述べている。また、韓子は『日本書紀』継体天皇24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生為韓子也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)を娶りて生めるを韓子とす)とされているように、外国人との混血児の通称であり、満智韓子は混血児であることを示す」とあり、蘇我氏一族が渡来人の流れを組んでいたことの傍証になる。

なお、漢人(あやひと、漢氏)は、大和(飛鳥)の檜隈(ひのくま)を中心根拠地としていた百済系渡来人集団の東漢氏・漢人のことと思われる。「大王から天皇」は、日本列島土着の豪族が倭国(のちの日本国)の主体、渡来人が主体の補佐役ということで貫かれているが、江上の騎馬民族征服王朝説はその反対である。だから、高位の官職を得た蘇我氏がここまで渡来人を重要視したのは、蘇我氏がまさに南部朝鮮からの渡来人だったと推測してもおかしくはないだろう。それに、江上が指摘したように、加耶諸国と倭国王族、百済王族は密接なつながりがあった。

蘇我馬子が建立した法興寺(飛鳥寺)ーイラスト
蘇我馬子が建立した法興寺(飛鳥寺)ー写真
法興寺(飛鳥寺)の大仏像

次に、崇仏・廃物論争の簡潔な紹介を行いたい。.高等宗教である仏教の伝来は百済によるものだが、伝来年は欽明天皇(540ー571年)治世下の538年と552年の二説がある。いずれにしても、その衝撃は大きかった。「大王から天皇へ」では、仏教の伝来の意義について、次のように記している。

====文献引用開始====
仏教の列島への伝来の意義は宗教上、政治上の問題にとどまらなかった。競技内容が普遍性をもつ仏教は、列島社会の伝統的で閉鎖的な社会構造、意識形態を変革する力をもっていたし、漢字で書かれた教義の理解、瓦葺(かわらぶき)・礎石建ちの寺院の造営、金銅仏の製作などには、いままでの列島社会にはない高度な知識と技術が必要とされた。仏教は、世界宗教であるばかりでなく、一個の高度な文化複合でもあったわけで、その本格的な受容は、列島社会に大きな変革をもたらすことになっていくのである。
====文献引用終わり====

さて、「大王から天皇へ」によると、欽明天皇(実際はまだ倭国大王)は仏教を受け入れるかどうかを、高級官僚に下問した。これに対して蘇我稲目は積極的な受け入れを主張したが、物部尾輿(おこし)と中臣鎌子が反対したため、欽明天皇は仏像を稲目に渡し、仏教は蘇我氏の私的な信仰の対象として受容されることになった。しかし、稲目の息子の蘇我馬子の代になって、欽明天皇のあと第四子の大兄皇子が即位した。用明天皇である。その母は、馬子の後押しで稲目の娘・堅塩姫(きたしひめ)であったから、物部尾輿の息子であった物部守屋は危機意識を深め、欽明妃小姉君(おあねのきみ)の三男穴穂部皇子(あなほべのおうじの)擁立を画策する。

しかし、仏教を受容している蘇我氏が後見の用明天皇は587年、新嘗祭(にいなめさい)の当日に病(天然痘と言われる)にかかり、余命いくばくもない状態に陥ったため、重臣たちを招集して仏教への帰依を表明した。天皇(大王)の即位という政治問題と崇仏・排仏の思想的対立がここにきて決定的となり、陽明天皇の死後、蘇我馬子を中心とした蘇我氏と物部守屋を柱とした蘇我氏と物部氏の間で戦闘の火蓋が切って落とされ、馬子は穴穂部皇子を殺害した後、守屋陣営を攻撃。結局、物部守屋は蘇我氏陣営の手で射殺され、ここに物部氏は断絶。物部氏に協力した大伴氏も権力を失い、蘇我氏が実権を握るようになった。そして、587年に崇峻天皇が即位したが、崇峻天皇と蘇我馬子が対立するようになり、馬子は崇峻天皇を暗殺するようになった。

このため、次期天皇(倭国大王)を誰にするかが重大な問題になった。天皇(当時は倭国大王)の即位順位としては敏達天皇の息子の押坂彦人皇子が最有力であったが、蘇我氏の血統をではない。このため、蘇我氏の血統を受け継いだ推古女帝が即位し、厩戸皇子(うまやどのおうじ)後に聖徳太子として神話化される)がその摂政になった。593年のことである。要するに、「日本古代史と朝鮮」が亀井勝一郎の「飛鳥路」を引用して指摘しているように、「政治の実権は蘇我馬子の掌中にあった。この頃の天皇家とは蘇我家のことである」。江上の騎馬民族征服王朝説からすれば、やはり、蘇我氏も渡来人だったのであろう。こうして、蘇我馬子=推古天皇=厩戸皇子(後の聖徳太子)の連携で、飛鳥時代が始まる。この飛鳥時代こそ、江上の騎馬民族征服王朝説を裏付けるものなのである。

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