【3】高句麗・公開土王碑の真相

古代4世紀の日本は、中国の文書から古代日本に関する記録がなくこれまで、「謎の4世紀」とされてきた。講談社学術文庫「大王から天皇へ」によると、この4世紀は、古代朝鮮で大きな変動があった。古代朝鮮三国のうち、最有力国であった高句麗が342年、中国・五胡十六国時代の前燕に大敗、その後の371年、高句麗の故国原王が百済の近肖古王との平壌城との戦いで死亡するなど、国運が大きく傾いた。その高句麗を再建し、領土を広げたのが、公開土大王である。その公開土大王の活躍を歴史に残したのが、鴨緑江北岸、中国吉林省の集安(高句麗の旧都・国内城)に建てられた広開土王碑である。この広開土王碑に百済と軍事同盟を結んだ古代日本の・倭国が、高句麗と戦った記録が記されている。

※韓国ドラマ・「朱蒙(チュモン)」は扶余の王子であった朱蒙が、召西奴(ソソノ)=正室ではないが、ヒロイン=とともに卒本を基盤に高句麗を建設、後漢の植民地であった玄菟(ひょんと)郡や遼東郡の太守を追い出し、高句麗を強大化する様子を描いた大河ドラマで、伝説を中心にしながらも、史実も踏まえて制作されており、大きな人気を得た。なお、百済は最終的に政略結婚をした召西奴(ソソノ)が、死亡したと思われていた正室イェソヤと彼の息子ユリが出現したため、息子の沸流(ピリュ)と温祚(オンジュ)とともに南下し、温祚が馬韓の部族国家を興し、百済を建国したと伝えられる。なお、新羅は辰韓を統一して成立したが、成立直後は高句麗や百済と劣勢であった。
なお、韓国ドラマではこの時代を史実をもとにドラマ化した「近肖古王」や「公開土大王」があり、フィクションだとしても参考にはなるし、相当面白い。NHKの「大河ドラマ」などは比べ物にならない。

その広開土王碑には、辛卯(しんぼう)年条と呼ばれる倭国と戦争をした記録を残した箇所がある。その大要は次のとおりである。
①百済、新羅は属民(属国)であって、由来、(高句麗に)朝貢す。
②しかるに、倭国が辛卯の年(391年)に海を渡って百済・新羅を破り、もって臣民(倭の属国)となす。
③而して、丙申(396)年をもって、広開土王みずから水軍を率いて、百済(とともに倭国軍)を討伐す。

日本では1971年に近代史家の中塚明氏が、従来の広開土王碑の研究が歪んだものであったことを指摘するまでは、広開土王碑の②のみが注目されて、倭国が百済や新羅を属国にするなど、古代朝鮮を支配した証拠とされ、「皇国史観」を裏付けるものとされた。しかし、中塚氏の指摘以降、広開土王碑の再研究が本格的に進められた。

その結果、(1)広開土王碑の日本への紹介は、参謀本部のスパイであった酒匂景信砲兵大尉が持ち帰った「拓本」によるもので、②のみを強調したこの拓本は著しく歪められたものであった(2)総合的に解釈すると、①もともと、百済・新羅は高句麗の「属民(属国)」で、高句麗に朝貢してきていた②ところが、倭国が辛卯年以来、しばしば海を渡ってきて、百済を破り、新羅を??して、両国を倭国の臣民(属国)にしてしまった③そこで、広開土王は396年に自ら水軍を率いて、倭国の「臣民」となった百済を討伐したーということで、広開土王碑のこの箇所は同王の業績を讃えたものだーということになっている。

年表にすれば
391年〜 倭国がしばしば海を渡って半島にやってきて、百済・新羅を「臣民」とする。
396年  広開土王、自ら倭の「臣民」となって百済を討つ。
399年  百済が倭国と和通したので、広開土王は平壌まで南下、百済戦に備える。
399年  新羅国内に倭国兵が侵入したという訴えに、新羅救援を約束する。
400年  新羅救援のため5万の兵を派遣し、逃げる倭兵を任那加羅(金官国)まで追撃
404年  倭国水軍、半島西沿いに北上、帯方界(ソウル)まで侵入。広開土王自ら水軍を率いて倭軍に壊滅的打撃を与える。

となる。もっとも、この広開土王碑が完全に事実とは言い切れない。しかし、倭国(古代日本)が金官加耶(昔は、任那日本府と呼ばれていた)を拠点に、古代朝鮮半島との深い関係(文物交流や戦争)を持っていたことは歴史的事実と見られているし、サイト管理者もそのように理解している。それでは如何にして、金官加耶と倭国(古代日本)は「深い関係」を持っていたのであろうか。ここに、江上の騎馬民族説と接点が浮かび上がる。

【4】任那日本府と古代南朝鮮・加耶国

日本の古代史研究では、古代朝鮮時代に対立した高句麗・百済・新羅との国際関係よりも、百済と新羅によって分割統治された弁韓に成立した加耶諸国との外交関係が重要視されている。任那日本府というのは、金官加耶国など加耶諸国に存在していたと考えられる。「日本古代史と朝鮮」で紹介されている、1983年1月に8版33刷となった坂本太郎監修の「日本史小辞典」紹介されているところによると、任那、任那日本府とは、

「四世紀半ばごろ」「国内統一を終えた大和朝廷は大規模な出兵を行い、洛東江流域を攻略してここを任那とす」る。

「四世紀ころから六世紀半ばまで約250年間における日本の朝鮮支配の軍政府。(後)漢の滅亡後朝鮮ではいわゆる三国時代が形成されるが、その対立関係に乗じ、日本は南端の弁辰地(弁韓と辰韓)に任那日本府を設け、百済を服属せしめて最初は高句麗と、後には新羅と長期に争い、562年新羅に任那を併呑されるまで南朝鮮一帯を支配した。日本書紀に内宮家・日本国の宮家・日本府・任那日本府と書かれ、別に安羅日本府というのもみえる」

しかし、高句麗は紀元前に成立した。また、馬韓を母体に百済は四世紀、新羅の前身であり、辰韓を統一した斯盧国も同じ四世紀中に成立して、時を置かず新羅と国名を変更している。このため、三国の対立関係に乗じて日本の古代統一国家が任那日本府を設けた、というのは合点がいかない。そもそも、四世紀半ばに日本に古代統一国家が成立したというのは、韓国の全斗煥大統領が1984年9月に来日した際の昭和天皇の「お言葉」によって否定されている。

「顧みれば、貴国と我が国とは、一衣帯水の隣国にあり、その間には、古くより様々の分野において密接な交流が行われて参りました。我が国は、貴国との交流によって多くのことを学びました。例えば、紀元六、七世紀の我が国の国家形成の時代には、多数の貴国人が渡来し、学問、文化、技術等を教えたという重要な事実があります。永い歴史にわたり、両国は深い隣人関係にあったのであります。このような関係にもかかわらず、今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」(1984年9月7日付毎日新聞)

この「お言葉」は当時の日本の古代史研究の最先端の結果を踏まえてのものであることは明らかである。ということは、日本古代の本格的な統一国家の形成は紀元6世紀以降ということになる。ただし、広開土王碑にあるように、倭国が大陸に進出したことは確かである。では、この「倭国」というものは、何であったかということが問題になる。

ここで問題になるのが、古代朝鮮の中の弁韓である。弁韓は金官加耶国など加耶諸国連合を形成したものの、結局、百済や新羅のような統一国家を形成することができず、百済や新羅によって分割統治された。その最終形態が、紀元562年の新羅による加耶諸国の吸収・合併である。と同時に、任那日本府は滅ぶ。

さて、皇国史観のもとになったのは、奈良時代の紀元8世紀に編纂された「日本書紀」だが、「日本古代史と朝鮮」によると、その日本書紀欽明天皇二十三年条に、「任那」のことを「我が黎民(おほみたから)」とか「我が百姓(おほみたから)」と繰り返し記しており、最後に「『君父(きみかぞ)の仇(あだ)を報ゆるに能はずは、死(みはまか)るとも臣子(やっこらまこども)の道の成らざることを恨むること有らむ』とのたまう」とある。つまり、欽明天皇にとって任那は、「君夫」のいたところ、すなわちその君主の国であったということである。

その裏付けとして、「日本古代史と朝鮮」は1963年に出版された亀井孝・大藤時彦・山田俊雄編「日本語の歴史」(1)「民族のことばの誕生」の中から次の箇所を引用している。

「任那は、任那加羅とも書き、(古代)南朝鮮の弁韓の一国であった。日本ではミマナと読むが、これはおそらく朝鮮における原音ないしそのなまりをあらわしたものであろう。すでに、朝鮮語の研究者、鮎貝房之進が、ミマナは朝鮮語のnim(主君、王の意)ya(国の意)の転訛であるといっているし、東洋史学者の白鳥庫吉も、任那はnimraで、王または君主をあらわすnimという語にraという助詞が加わったものだろうと指摘している。いずれにしても、任那、すなわちミマナの語幹はミマで、そのミマはnimの転訛であろうというのが共通した見解である」

つまり、四世紀半ばに成立した古代日本の統一国家が古代朝鮮南部の加耶に日本府という軍事拠点を設置したというのは全く逆の話で、事実は、高句麗、百済、新羅の強国の圧迫を逃れるため、加耶諸国の王族の一部が新天新地を求めて壱岐・対馬を渡り、九州は筑紫に上陸、北上して畿内に強力な基盤を形成したということである。ここに騎馬遊牧民族の征服王朝説の土台がある。「大王から天皇へ」でも、騎馬遊牧民族征服王朝については全く言及がないけれども、「ヤマト」と「カラ」の出会いが、高句麗による「倭国」撃破後の紀元五世紀前半からの技術革新から社会革新を導いたと指摘している。

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