(3)厩戸皇子(うまやどのおうじ、後に「聖徳太子」)の登場・外交政策ー飛鳥時代とは

最初に留意しておきたいことがある。それは、6世紀後半から7世紀前半の飛鳥時代に朝鮮半島で重要な出来事が発生したことである。その出来事とは562年、加耶諸国が勢力を増してきた新羅によって侵攻され、滅亡の憂き目にあったことである。これを皇国史観流に言えば、「任那日本府」が滅んだということである。これは、加耶諸国(恐らく、中でも金官加耶)の王族が出自である倭国大王の権威と権力も弱体化せざるを得なかったことを意味する。このため、飛鳥時代には朝鮮半島での対立、つまり、高句麗・百済・新羅の対立抗争が反映されるようになったことを留意しておかねばならない。亀井勝一郎が「飛鳥路」で見抜いたたように、天皇家と百済系の蘇我氏が同一視されたのも、こうした朝鮮半島の激変が反映されている。

なお、参考程度だが韓国のテレビドラマである「鉄の王・キムスロ」や「善徳女王」、「大王たちの夢」、百済の滅亡を描いた「階伯(けべく)」は面白く、参考になる。新羅の三韓統一を描いた「大王たちの夢」では、主人公の金春秋(キム・チュンチュ)が来日する場面や、大化の改新が描かれている。

厩戸皇子(聖徳太子)が飛鳥に建立した法隆寺(火事で消失した同寺を再建)

話をもとにもどすと、現代の日本古代史(学界)では「皇国史観」が否定されたかに見えており、その「皇国史観」と表裏一体の「帰化人説」も「渡来人説」に置き換えられている。ただし、本論考の結論を先走って言えば日本の古代史家から(そのため、現代日本人から)完全に「皇国史観」が完全に超克されているとは言い難い。そのことをこれから解き明かしていきたいが、まずは飛鳥時代の地理的拠点であった奈良県の飛鳥(明日香)を誰が支配し、かつ、どんな人物群像が居住していたか、ということである。これについて、「帰化人説」を早くから批判していた在日朝鮮人の金達寿(注:金は韓国史学界の研究には頼っていない。文献はすべて日本人の古代史研究家のものにすることを日本古代史研究の方法論の基礎に置いており、金の現地紀行文書で自説の補強を行っている)の「日本古代史と朝鮮」は次のように記している。

====文献引用開始====
いわゆる「大和朝廷」のあった(奈良県)飛鳥(明日香)の地を含む高市郡全体が(百済系の)漢(あや)氏族と、その彼らによって率いられてきた「十七の県の人夫」とのよって占められていたのです。そしてそれがどう繁行(はんえい)したかもさきにみましたが、ところで、高市郡はもとより、飛鳥のいわゆる「帰化人」にしても、百済系とみられている漢氏族や、蘇我氏族のそれだけではなかったのです。
漢氏族の中心根拠地であった檜隈(ひのくま)の近くに、いま栗原というところがありますが、ここはかつて呉原(くれはら)といったところです。「日本書紀」雄略十四年の条に、「即ち呉人を檜隈野におらしむ。よりて呉原と名づく」というのがそれで、いまもこの栗原には、そのことを物語る呉津彦神社や呉原寺跡があります。
====文献引用終わり====

この呉(クレ)について、「日本古代史と朝鮮」は、百済・新羅とともに古代朝鮮三国の一つだった高句麗からきたものであるとし、その証拠に「高句麗は朝鮮語でコクレといいますが、高は高句麗の国姓であり、美称であるから、それをとるとクレ(句麗)となるのです」と述べている。そのうえで、

====文献引用開始====
その高句麗系のものがどうして、百済系とみられている漢氏族の中心根拠地であった檜隈(ひのくま)の近くにいたかというと、その答えは簡単です。高句麗系、百済系とはいっても、百済はもとより高句麗から南下したものが建国したもので、その支配層は同じ扶余族(いわゆる騎馬族)でしたから、日本に渡来した彼らはある次期までは、だいたい同じ歩調をとっていたのではなかったか。蘇我氏族(注:ここでの氏族は古代世界の豪族=土地所有貴族=と同じ意味)の氏寺だった飛鳥寺(元興寺=法興寺)が建立された当初の住持(じゅうじ)は高句麗僧の恵慈(えじ)と百済系の恵聡(えそう)との二人であったということにも、そのことはよくあらわれています。
いわゆる「大和朝廷」のあった飛鳥はこのように、百済系・高句麗系連合のちであったが、しかしながら、ここにはまた新羅系のものも来ていた。たとえば門脇禎二氏の「飛鳥」をみると、飛鳥の地にのこっている酒船石(さかふねいし)だの猿石(さるいし)、亀石だのと言われている石造遺物は、新羅系渡来人の手によってつくられたものではないかとなっています。
(中略)
こうしてみると、どういうことになるか。「皇国史観」と表裏の関係にある「帰化人史観」の人々が後生大事にかつぎまわっている「大和朝廷」のあった飛鳥の地には、いわゆる「帰化人」(皮肉を込めた言い方)のほかには誰もいなかったということが分かります。少なくとも、さきにみた坂上田村麻呂の「上奏文」が書かれた時点、すなわち宝亀(ほうき)三年(772年)、八世紀後半まではそのような状態であったといわなくてはならない。(大和朝廷の基盤であった飛鳥地方)それはみな百済系・高句麗系・新羅系の渡来人によって占められていたのです。
====文献引用終わり====

なお、古代朝鮮模様の彩色壁画が発見され、八世紀初めに造営されたとされている高松塚古墳もこの地にある。要するに、「日本古代史と朝鮮」は江上の大和朝廷=古代南部朝鮮からの騎馬民族征服王朝説を支持しているのである。このことをさらに明確にするため、江上の「騎馬民族国家改訂版」を引用する。

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