【10】エピローグー周辺的辺境地帯革命史としての日本と東アジア共同体

天武天皇の時代(天武朝、白鳳時代)になって日本列島史上初めて、天皇(スメラミコト)、日本が誕生する。これまで見てきたように、これは、弥生時代以降、日本独自の手になるものではない。古代朝鮮、特に加耶諸国(任那)の影響に絶大なるものがあった。やはり、現代の日本の古代史家によって闇に葬りされるようとしているが、ウェーバー=大塚史学の「辺境革命論」を適用すると、江上の言う騎馬民族征服王朝説は正しいと見られるのである。

この点に関して、「日本古代史と朝鮮」が引用している、昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人でありながら、東アジア規模でみた日本の古代史研究家としても有名な坂口安吾の「安吾史譚(あんごしたん)」は興味深い。

====文献引用始め====
国史以前に、コクリ(高句麗)、クダラ(百済)、シラギ(新羅)等の三韓や大陸南洋方面から絶え間なく氏族的な移住が行われ、すでに奥州の辺土(へんど)や伊豆七島に至るまで土着を見、まだ日本という国名も統一もない時だから、何国人でもなくただの集落民もしくは氏族として多くの種族が入りまじって生存していたろうと思う。そのうちに彼らの中から有力な豪族が現れたり、海外からの氏族の来着があったりして、次第に中央政権が争われるに至ったと思うが、特に目と鼻の三韓からの移住土着者(注:日本列島に新天新地を求めてやってきた渡来人)が豪族を代表する主要なものであったに相違なく、彼らはコクリ(高句麗)、クダラ(百済)、シラギ(新羅)等の母国と結んだり、また母国の政争を受けて日本に政変があったりしたこともあっただろう。
====文献引用終わり====

この引用箇所は、江上の大和朝廷の実態は騎馬民族征服王朝だったとする説の肯定に他ならない。恐らく、古代朝鮮南部の加耶諸国から渡来した扶余系の遊牧騎馬民族が弥生時代に成立した邪馬台国のような豪族集団を征服し、大和朝廷の基礎を形成し、これが本格的な倭国大和政権になり、最終的に天武朝時代に天武天皇(スメラミコト)の親政による古代律令国家としての日本が正式に誕生したのであろう。

ただし、日本は玄界灘で古代中国や朝鮮半島とは一線を画したため、中国の冊封体制に組み入れられることなく天武朝以降、独自の発展を遂げた。その核となったのが、奈良時代に成立した三世一身の法や墾田永年私有法などによる古代律令国家の崩壊過程で、合理的な資質を有して出現した武士と彼らによるイエ社会・国家の形成・経営(西欧に似た封建制度の確立)であろう。そして、日本で易姓革命は起こることなく、「万世一系の天皇」の権威と武士勢力の中心で権力を保持した「(征夷大)将軍」の権力というように、西欧の法王(教皇)と国王の「楕円型支配構造」が成立した。これが、「近代天皇制」として明治維新以降統合され、ともかくもアジア諸国で初めて西欧型の近代化に成功した。

【※補遺:2018年3月5日水曜日、中学・高校の歴史教科書でもお馴染みの三世一身法、墾田永年私財法、荘園だが、ここではWikipediaによる】
①三世一身の法
奈良時代前期の養老7年4月17日(723年5月25日)に発布された格(律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため開墾者から三世代(または本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。当時は養老七年格とも呼ばれた。ただし、三代過ぎると古代律令国家に開梱した田畑を返納しなければならないので、農民は創意・工夫のやる気をなくすとともに、不満が強くなった。このため、三世一身法から20年後の743年に(743年)に墾田永年私財法に変更された。

②墾田永年私財法
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)は、奈良時代中期の聖武天皇の治世の天平15年5月27日(743年6月23日)に発布された勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令である。古くは墾田永世私有法と呼称した。荘園発生の基礎となった法令である。

③荘園
日本の荘園は、朝廷が奈良時代に律令制下で農地増加を図るために有力者が新たに開墾した土地の私有(墾田私有)を認めたことに始まる。平安時代には、まず小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し、その後、皇室や摂関家・大寺社など権力者へ免税のために寄進する寄進地系荘園が主流を占めた。鎌倉時代には、守護・地頭による荘園支配権の簒奪(さんだつ)が目立ち始めた。室町時代にも荘園は存続したが、中央貴族・寺社・武士・在地領主などの権利・義務が重層的かつ複雑にからむ状況が生まれる一方、自立的に発生した村落=惣村による自治が出現し、荘園は緩やかに解体への道を歩み始めた。

こうして、日本では古代律令国家=古代社会主義国家(マックス・ウエーバー=林道義)が解体し、武士による事実上の田畑の私的所有地が認められ、私的所有地での農業(当時の基幹産業)の合理的経営を基盤とした日本型中世封建社会(封建制度)が始まった。これは、日本が玄界灘を隔てて、大陸王朝・朝鮮半島王朝国家からは周辺的ではあるが辺境地帯(周辺的辺境地帯、マックス・ウェバー=大塚史学=内田芳明)であったためである。こうした歴史が、日本にいわゆる唯物史観(史的唯物論)が妥当するかのような形になった。

これに対して、中国では易姓革命(王朝の交代)が起こり続け、朝鮮半島でも統一新羅と高麗・渤海、朝鮮という流れでの易姓革命が続き、最終的には科挙制度の下、文官と武官からなる両班(やんぱん)支配体制が築かれた。このため、ついに中国、朝鮮ともに近代合理的な文明を受けいれることができず、近代化への道が遮断された。ウェーバー=大塚史学の説いた「辺境革命論」で、江上の「大和朝廷=騎馬民族征服王朝説」の正しさと、その後の日本の歴史十二分に説明できる。

マクロの歴史社会学(歴史発展論)から、「東アジア共同体」への道を模索すべきである。

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