【10】周辺的辺境革命としての古代律令国家の形成

1)大化の改新(乙巳のクーデター)と古代朝鮮南部興隆国・新羅の影響

飛鳥時代の最高権力者だった蘇我馬子が死去したのは622年であり、翌々年の624年には推古女帝が崩御する。同時にこの年、推古女帝(当時はまだ倭国大王)の後継が見込まれていた厩戸王子も死去する。当然、推古女帝の後継問題が起きる。当然、倭国大王の後継問題が起きる。有力候補としては、蘇我氏の系統ではない押坂彦人大兄皇子だったが、妃に蘇我氏の血統を迎えた彼の息子・田村皇子と蘇我氏の征討系統を引き、厩戸皇子(聖徳太子)の息子の山背大兄皇子であった。結局、馬子の跡を継いだ蘇我蝦夷は田村皇子をかつぎ、後の

「大王から天皇へ」の210頁

舒明天皇を擁立した。これに対して、山背大兄皇子は反発する。その後、蘇我蝦夷とその息子である入鹿の専横が目立つようになり、特に入鹿は山背大兄皇子を追い込み結局、同皇子は妃はもちろん支持勢力とともに法隆寺に立てこもらざるを得なくなり、最後に自害する。入鹿の父、蝦夷は入鹿を激しく叱責するが、時は既に遅かった。

これに反発した王族や大和朝廷の重臣らは645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが首謀して、古代倭国最大のクーデターである乙巳のクーデター(いわゆる、大化の改新で蘇我蝦夷・入鹿親子の暗殺、「大王から天皇へ」では、目撃したように著述されているので、ホントかウソかは墓別にして面白い)を断行した。明治以降の「皇国史観」では、蘇我氏の悪行ぶりが強調されるが、「大王から天皇へ」ではそれは平面的な見方であり、それまでの倭国の政治体制に限界が生じていたこと(特に氏=ウジ、世界史の至るところで見られた王の中央集権体制が確立される前の大土地所有豪族または貴族による政治への干渉=)を重視する。

====文献引用開始====
乙巳のクーデター後に結成された新政権の急務は、国内的には、さまざまな弊害を生み出していた諸氏族(大和朝廷の重臣=マックス・ウェーバー「支配の社会学」の家産官僚でありながら、大土地所有豪族として政治に関与=)によるカキ(私有民、奴婢)の分割領有地体制である部民制を解体し、それに代わってすべての民を公民(おおみたから)として支配する一元的な支配体制を創出することであり、体外的には、支配僧(大土地所有豪族・貴族であるとともに大王を補佐する家産官僚)の権力を一元的に集中して風雲急を告げてきた(朝鮮)半島情勢に即応できるような体制を作り上げることであった。これらの目標は、要するに、支配層内部の君臣関係と王権による全国支配の体制とをともに一本化し、大王を中核とした支配体制を構築することに集約できる。これが、「公地公民」制をとよばれる支配体制の形成がめざされる歴史的要因であった。
====文献引用終わり====

つまり、乙巳のクーデター(大化の改新)「公地公民」と「版田収受の法」、「租・調・庸・雑徭」などを課し,さらに良・賤の身分の別を定め、これらを経済基盤とした古代律令国家(ウェーバー=林道義の古代社会主義国家)への第一歩を踏み出すものであった。ところで、この乙巳のクーデターの理論的支柱となったのが、「古代日本と朝鮮」に記載されている中国(唐の時代)留学の途上、新羅に長期間立ち寄って帰国した高向玄理(たかむこのくろまろ)や南淵請安(みなぶちのしょうあん)、僧・旻(みん)ら新羅系のブレーンだった。この点について、「大王から天皇へ」では言及がなく、やはり、「皇国史観」から抜けきれないでいる。

乙巳のクーデター直後、新羅の真骨(チンゴル)で善徳女王、真徳女王時代の新羅の最小になり、唐と結んだ国際的な外交家の金春秋(キム・チュンチュ、後の新羅の武烈王)が「人質」として来日したこともよく知られているところだ。韓国ドラマの「大王たちの夢」でも、乙巳のクーデターと金春秋の来日が描かれている。なお、加耶が新羅に滅ぼされ、投稿した王族の子孫である金廋信(キム・ユシン、母は新羅の王族)が三国統一の軍事的立役者であったことを付け加えておく。彼は、朝鮮史上有名な黄山伐(ファンサンソボル)の戦いで、妻子を殺害し決死の覚悟で臨んだ階伯(ケベク)百済の決死隊との戦いに勝利し、百済を滅亡に陥れた。

この新羅が古代律令国家の青写真を描いたとも言えるが、このことに鈍感だった中大兄皇子は悲惨な結末を迎えることに成る。取り敢えず、「大王から天皇へ」に従い、乙巳のクーデター以降の遷都状況を記しておく。一時続く的に難波に遷都したものの、斉明女帝が夫の孝徳天皇を無視して中大兄皇子らを連れて飛鳥地方に帰ったため、政(まつりごと)飛鳥で行われる。

飛鳥岡本宮(舒明朝)→飛鳥板蓋宮(皇極朝)→→難波遷都(孝徳朝)→後飛鳥岡本宮(斉明朝)→→近江遷都(天智朝)→飛鳥浄御宮→→藤原京遷都(天武・持統朝)

上記は、乙巳のクーデター以降、律令国家形成を目指した大和王朝の治天下大王が政(まつりごと)を行った中心地域の移り変わりをしめしている。さて、中大兄皇子(後の天智天皇)の悲惨な結末について述べる。660年百済が唐・新羅連合軍に敗退すると、百済の残党が、同国の再興のために大和朝廷に「人質」として来日、滞在していた百済の王子・余豊璋(よほうしょう)を盟主にして戦うとして、倭国大和朝廷に支援を要請してきた。この時、倭国大和朝廷の大王だった女帝の斉明天皇(中大兄皇子と大海皇子両兄弟の母親)は、百済支援に全精力を傾けた。これは、当時の大帝国唐が百済滅亡の背後にいるという国際情勢に「無知」であったことの証左とされることが多い。

しかし、これは推測であるが、江上によると古代朝鮮に誕生した高句麗と百済、新羅、加耶諸国は同じ扶余国(中国東北地方、満州と呼ばれていた)の系列であり、中でも加耶諸国と百済は同じ流れを組み、かつ、新羅よりも近い関係にあったこともあり、あえて、百済支援に全精力を傾けたものとも見ておかしくはない。もっとも、本人は百済への遠征中に客死し、遠征隊もまた663年白村江(はくすきのえ)の戦い(海戦)で、金廋信率いる羅唐軍船の待ち伏せに遭い、倭国軍は数万に上る水軍を破られ、大敗北を喫する。

このため、斉明女帝に従った中大兄皇子はその威信を失墜し、暫くの間、倭国大王につけなかった。中大兄皇子が倭国大王に天智天皇として即位したのは、668年のこと。前年の667年には王都を畿内からより東部の琵琶湖周辺の近江に移し、倭国の防衛に努めた。ただし、天智天皇は敗戦を逆手にとって、乙巳のクーデターの改革理念(統一律令国家体制)実現に着手した。これには、「古代日本と朝鮮」に下記のようにかかれている。

続く

====文献引用開始====
この近江朝において、はじめて「庚午年籍」といわれる最初の全国的な戸籍がつくられるなど、いわばこにいたって、ようやく統一的古代国家としての体裁がととの整えられたわけです。岡田英弘氏の「倭国とは何か」にもあるように、「日本という国号と、天皇という王号が始めて採用された」のも、みなこの近江朝になってからですが、こうしてみると日本は全国力を傾注して朝鮮で敗退したにもかかわらず、なおいっそうの発展がそれからもたらされたといわなくてはならない。これはまた、いったいどういうことであったか。
簡単に言うと、それは百済がほろびたことによってもたらされたものにほかならなかったのです。百済がほろびるに当たって、日本には、さきに渡来し土着していた百済系氏族のうえに、さらにまた多くの百済の遺臣・遺民が渡来して重なったということです。別の言い方をすれば、朝鮮ではほろびた百済国がそのまま日本の天智朝にきて重なった、と言ってもそれは決して過言ではないと思います。
====文献引用終わり====

「古代朝鮮と日本」ではこの箇所のあと、大量の百済渡来人が大和朝廷に押し寄せ、文明発展(古代律令国家の形成)に大きな役割を果たしたと述べている。ただし、渡来百済人が文明の発展に貢献したことはたしかだったであろうが、「天皇(すみらみこと)」と「日本国」の誕生は、もっと後の天武天皇治下のことと言うのが、「大王から天皇へ」の主張であり、サイト管理者はそちらが正しいとおもう。

だが、そのためには、天智天皇死後の大和朝廷大王の即位をめぐった古代日本最大の内選であった壬申の乱(672年)を待たねばならなかった。

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