江上は改訂版のあとがきで、江上の騎馬民族征服王朝の正しさを裏付ける新たな証拠の三番目として、高松塚古墳の彩色画とともに、推古天皇時代に厩戸皇子(聖徳太子)が遣わした遣隋使・小野妹子(おののいもこ)が倭国に帰国する際、同行した隋使の袁世清の日本紀行記を紹介している。

厩戸皇子=聖徳太子

その前に、隋王朝の成立を述べておく。中国の南北朝時代は581年に建国した隋が589年には南朝の陳を併合して南北王朝の統一に成功する。この年、後漢以来の中国の分裂・抗争に終止符が打たれ、随王朝が正式に発足する。この東アジアの激変に、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅は朝貢外交を行い、中国中心の冊封体制に組み込まれる。ただし、随と高句麗は裏では対立を深め、随は高句麗征伐に出兵するが失敗。これによる財政負担で随の社会経済的混乱が全国各地で起こるようになるが、煬帝は酒色に溺れ、見限った重臣の宇文化及らが618年に謀反を起こし、唐帝国を建国する。

やや先走ったが、随による中国の統一王朝建設は倭国にも影響を及ぼした。すなわち、遣隋使の派遣(600年ー614年)である。ただし、「大王から天皇へ」によると、遣隋使は随にとって評判が良くなかった。最初の遣隋使は600年に派遣されたが、倭国の使者は、「倭王は天を兄とし、日を弟としている」などと述べ、自ら天子を自称している高祖文帝を痛く傷つけ、倭国を単なる野蛮国扱いにしたという。

高祖文帝の逆鱗に触れ、野蛮国の烙印を押された倭国、すなわち推古天皇ー厩戸皇子体制はこれにあわて、「小墾田の造営、冠位十二階、憲法十七条の制定、朝礼(朝廷での礼儀作法)の改定など、王権の政務・儀礼形態の全面的な改正を急速に進めた」という。しかし、これらの政治体制の改革は単に随に認められるためのものではなかったとサイト管理者は思う。何故なら、小野妹子を大使とした607年(推古15年)にも、有名な「日出づる所の天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや」云々の推古ー厩戸皇子(聖徳太子)の国書を手渡したからである。これは、当時の倭国が中国の冊封体制から離脱し、独自の国家観を形成しつつあったことを物語る。周辺的辺境地帯ならではの新文明創出である。

もちろん、高祖文帝の後を継いだ煬帝を起こらせたが、対高句麗外交上、倭国を取り込む必要があり、そのため小野妹子らの遣隋使を裴世清(はいせいせい)とともに倭国に送り返した。もっとも、裴世清の官職は従八品と極めて低かった。江上はその裴世清の日本紀行文に着目する。

飛鳥(明日香)地方

====文献引用開始====
聖徳太子は周知のように、小野妹子を遣隋使として中国に遣わしたが、その(国)書に「日出づるところの天子、日没するところの天子に書を致す。云々」とあったように、けっして中国に対して卑下せず、中国は大国かも知れないが、日本も中国を宗主国とする東アジアの諸国とは違う、完全な独立国だという意識を持っており、そうして自分たち天皇家の出自は、南部朝鮮を全体的に支配した騎馬民族の辰王国だ、という認識があったのに相違ない。小野妹子に従って日本に来た随使の裴世清は、飛鳥の都のことを秦王(辰王)の国と謂っており、当時まだ天皇家を辰王朝として、その都を秦王(辰王)国と言っていたことが知られるのである。
(中略)
聖徳太子が対中国のそのような立場から、朝廷の官位の制を定めるにあたっても、中国の随のそれを採用せず、朝鮮式のーすなわち辰王国風のー従来の衣冠の制をそのまま正式に取り入れたのに相違ないのである。
====文献引用終わり====

江上はこのように述べ、高松塚古墳彩色壁画の意義について、「高松塚古墳は都が飛鳥の藤原京から平城京(奈良)に遷る直前のもので、奈良朝になると日本は仏教を国教とし、いっさいの制度・文物がいよいよ唐風の色彩の強いものになっていったが、しかし、藤原京の時代までは、宮廷においては朝鮮式すなわち辰王国風の文化伝統がなお根強く残っていたことを実証する高松塚古墳の(彩色)壁画は、貴重な考古・歴史資料というべきであろう」とその歴史的意義を述べている。

なお、江上によると倭国での「秦」の字は、中国側の記録ではつねに「辰」の字で現されており、そのことは倭の五王の上奏で、三韓のなかの辰韓が例外なく秦韓と記されている事例からも明らかで、したがって倭国王の都した大和の国を「秦王国」というのは、三韓時代の辰王朝が倭国に移動してきて都した国の国という意味に解するのが至当(至極当然)としている。

ただし、弁韓の加耶諸国は新羅が562年に滅ぼしているから、大和朝廷はその独自性を志向しつつも、加耶諸国を滅ぼした新羅と加耶諸国と交流のあった百済との影響を受けざるを得ない。「日本古代史と朝鮮」は、飛鳥時代に起こった日本古代史の大変動、つまり大化の改新、天智天皇の即位と壬申の乱、天武天皇の即位(天武朝)は、その背後に新羅と百済が関与した古代朝鮮絡みの大政変と見ている。以下、このことを説明して「日本国の誕生」と「天皇(すめらみこと)の誕生とその権威の確立」について紹介し、本投稿記事をまとめる。

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