【6】騎馬民族征服王朝を裏付ける考古学的資料

マックス・ウェーバーの名著「古代ユダヤ教」の翻訳・研究で有名な内田芳明は、日本を周辺的辺境地帯と位置付けている。ウェーバーの歴史社会学の「公式」は、文明の発展は、文明の中心地の周辺地帯で創造的な理念(とりわけ、世界的な高等宗教)が創造され、そこでの技術革新とともに、文明の辺境地帯に旧い文明を超克する新文明が具体的に日の目を見るというものである。

古代朝鮮半島はその意味で、中華文明の周辺地帯だったとみてよいだろう。古代日本はその古代朝鮮と切り離せない。いや、江上の騎馬民族説は、ウェーバーの言う「辺境革命」とも言うべき内容を持つ。ただし、古代専制国家→古代ギリシア・ローマ帝国→中世西欧封建制度(アルプス山脈以北、今のフランス・ドイツのガリア地域中心に生成)→英国の近代資本主義→米国の現代資本主義(注:唯物史観の真の姿)と世界史発展の原動力になった辺境革命とはやや異なる。内田の指摘するように、古代朝鮮と古代日本は玄界灘をはさんで、一衣帯水の位置(地理的状況)にあったからである。この意味で、日本は周辺的辺境地帯と言って良いだろう。

さて、江上は「騎馬民族国家」(中公新書)の改訂版のあとがきで、「ミッシング・リンク」となっていた南部朝鮮(任那=加羅・加耶)から、北九州への東北アジアの騎馬民族の渡来を実証する考古学的資料が発見されたことを述べている。

====文献引用開始====
私の予想通り、しかもすこぶる完全な形で発見されて、南部朝鮮の加羅(任那)と、北九州の筑紫が一本につながって、加羅・対馬・壱岐・筑紫を連合した、最初の韓倭連合王国が、朝鮮側資料に見える「日本」にあたり、その都が金官加羅か意富加羅(おおから)に在ったとされる「日本府」にほかならない、という新しい推定を生むことになったのである。
まず、南部朝鮮では、かつての金官加羅の地の、釜山市東福泉洞古墳群などで四世紀末ないし五世紀初めに年代が比定される、大きな平石を長手の矩形の墓の上に敷き並べて蓋石とした、いわゆる石蓋墓が多数群在して発見され、そこに鉄製の甲冑、馬具、馬面、金銅の冠、鉄製の刀剣・矛・鎧などの武器、農具・工具や、青銅の七鈴付円錐型装飾品、鉄製・金銅製の服飾品など、豊富な副葬品が発掘された。また、これらの加羅の石蓋墓からは、非常に堅い焼成の土器で、器形もすこぶる整った各種の壺・高拝・器台などのいわゆる加耶式土器が出土し、大形の立派な器が少なくないことも注目を惹いた。(中略)なお、加羅における騎馬民族的文化の系統が一方では中国の東北地区から内蒙古方面に連なり、他方では、日本の古墳時代後期の騎馬民族文化に続くものであることは、出土遺物から一見明瞭であった。
そうしてそのような連続性は、かつての筑紫の地の、福岡県の各地、とくに福岡市老司と同県甘木市池の上で見事に実証されたのである。そこでは加羅の石蓋墓とその副葬品とすべての点でほとんど区別できないほど一致した内容の古墳群が見出され、そこから加耶式土器の立派なものが多数出土した。これらの加耶式土器から、筑紫の石蓋墓と加羅のそれが年代的にほぼ並行し、また一般には弥生時代後期や古墳時代前期の、副葬品に多い漢鏡類を老司古墳が含んでいることから、その年代が五世紀前半にさかのぼること、またその文化が加羅系にまちがいないことが実証されることになった。
(中略)
こうして日本の古墳文化時代後期の騎馬民族文化が、直接的には南部朝鮮の加羅(任那)から、そこを根拠にした騎馬民族ー東北アジアの扶余系の辰王朝のそれーによって、五世紀初めごろまず北九州(筑紫)までもたらされ、さらにその後、瀬戸内・畿内方面に広がっていったことがほぼ明確になったのである。
====文献引用終わり====

加羅(加耶)諸国と北九州筑紫地方の類似性は、双方をともに紀行した金達寿の「日本古代史と朝鮮」に所収の「加耶から見た古代日本」詳しい。サイト管理者が特に的を射たと感じたのは、朝鮮の壇君建国神話、六加耶の建国神話と、記紀に記載されている日本の建国神話がほとんど類似しているということである。金達寿は朝鮮半島を訪れた時の亀旨の峰(クジポン)と筑紫の地理的状況を比較しながら、三笠宮崇仁編「日本のあけぼの」の中の「日本民族の形成」に記された次の箇所を引用している。

====文献引用開始====
天孫ニニギノミコトが、イツトモノオを従え、三種の神器をたずさえて、高千穂のクシフルの峰、またはソホリの峰に降下したという日本の開国神話は、天神(あまつかみ)がその子に、三種の宝器をもち(もたせ)、三神を伴って、山上のまゆみという木のかたわらに降下させ、朝鮮の国を開いたという壇君神話や、六加耶の祖がキシ(亀旨)という峰に天降ったという古代朝鮮の建国神話とまったく同系統のもので、クシフルのクシはキシと、ソホリは朝鮮語で都を意味するソフまたはソフリと同一の語である。
====文献引用終わり====

ここに、「朝鮮語で都を意味するソフまたはソフリ」というのは、古事記の「久士布流多気(くじふるたけ)」であり、「日本書紀」の「くし(木ヘンに思う)触峰(くしふるたけ)」であり、朝鮮南部(釜山市に近い慶州南道)に位置している亀旨峰(くじぽん)山のこととされている。

さらに、「日本語の歴史」(1)「民族のことばの誕生」からの次の引用が、大きな意味を持つ。

====文献引用開始====
また、ニニギノミコトが筑紫の日向(ひむか)の高千穂に天降ったことを述べた古事記の一節に、「寔に詔りたまひらく」、『此の地は韓国(からくに)に向かひ、笠沙(かささ)の御前に真木(まき)造りて、朝日の直刺(たださ)す』国、夕日の日照る国なり、故、此の地ぞ甚吉(いとよ)き地』と詔りたまひて、底つ石根(いわね)に宮柱ふとしり、高天原に氷ぎ(ひぎ)たかしりて坐しましき…』とある。ここにいう韓国(からくに)は、もちろん南朝鮮のことで、そこに天つ神の故郷と解することが、文意にかなったもっとも自然な読み方である。そういう意味で、天つ神=外来民族が南朝鮮、とくに任那(加耶諸国で六加耶)方面と深い関係にあり、そこから北九州に渡来したであろうことをもっとも明確に示しているのは、ニニギノミコトの高千穂の降臨説話そのものにほかならない。
この点については、すでに東洋史学者の三品彰英が論証したところである。彼は、「駕洛国記」が伝える六伽耶国の建国伝説と記紀による日本の建国伝説とをくらべ、その内容の重要な点では、二つの建国神話がまったく一致していることを指摘した。
====文献引用終わり====

このように、考古学的資料に基づく推論、加耶諸国と記紀の日本建国神話が一致していることから、加耶(加羅=任那)が四世紀後半の高句麗公開土王の領土拡張戦争によって朝鮮半島に激変が生じた時代に、加耶諸国の一部王族が日本列島に新天新地を求めて進出し、鉄器文明を中心とした高度な文化・文明によって土着の古代豪族を支配し征服王朝を樹立したという江上の「古代ユーラシア騎馬民族説」は概ね、正しいことが立証されていると言える。

なお、森浩一同志社大学教授は、1979年1月に日新聞社主催で開かれた「古代史シンポジウム国家成立の謎」(司会・松本清張、井上光貞・直木孝次郎・西嶋定生・杉山二郎・大塚初重・森浩一氏ら当代一流の歴史学者、考古学者が参加)でなお、事実上皇国史観を展開する井上氏に対して、次のように反論している。

====文献引用開始====
井上先生のお話を伺っておりますと、任那というのが非常にはっきりとあるようになっているようですが、考古学資料、特に遺跡ですが、遺跡の上からいうとなかなかそれは言えないわけなのですね。これは私が言えないというだけでなくて、日韓併合の直後に朝鮮総督府が最初にやった仕事は、任那日本府を証明せよということで、加耶の金海あたりで大発掘をやった。そして遺物はいっぱい出たけれども、さっぱり肝心のことを証明する資料がなかったので、報告書は二ページほどで、いつどこへ行ってどこを掘ったという簡単なもので、まだその学術報告書は出せていないのです。これはやはりその当時、(四世紀に成立した古代統一日本国家が南部朝鮮に進出、そこを拠点に朝鮮侵略をおこなったという皇国史観を裏付ける)何か出るだろうという期待で調査をやったけれども、出てくるのは南朝鮮的なものであって、日本の支配を証明するものは出なかったのですね。このことはその後の資料を加えても、ほとんど結論は変わっていないと思うのです。
====文献引用終わり====

この発言に関連して、「日本古代史と朝鮮」、「で、その反対はどうか。これはもう言うまでもないでしょう。いわゆる大和朝廷のあった大和(奈良県)はもとより、日本各地の遺跡から出土している古代(南部)朝鮮からの遺跡は、何万何千(本当は、何千何万)と数え切れないのです」と追加している。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する高松塚古墳は、単なるその一例だが、極彩色の宮女の服装が古代朝鮮の服装(高句麗との説もある)であったことが注目され、話題になった。

なお、「大王から天皇へ」(初版は2000年で、2008年に講談社学術文庫の「日本の歴史シリーズ」に組み込まれた)では、(その後の)「半島南部には、列島と半島の人々の交流の痕跡が数多く残されている」とある。これは、「近年の金海を中心とした加耶地域の発掘調査の進展によって、倭系遺物に関して興味深い事実が明らかになってきた。それは、列島弥生時代までの倭系遺物は、北部九州のものが大半を占めるが、古墳時代にはいると畿内の遺物が主体となる、という事実である」としている。これは、同書が皇国史観を否定していることから、「三〜四世紀の間に、半島の加耶地域との交流の当事者が、北九州の勢力から畿内の勢力へと急激に転換した結果と考えられる。ヤマトを中心とした勢力(=倭政権)が北九州を含む列島の一定の範囲を政治的に統合し、半島との交流ルートも倭王権が掌握するのである。ヤマトとカラの出会いとは、このことにほかならなかった」とある。

これについては、①古代日本が北九州の豪族部族国家連合にしろ、畿内のヤマト政権にしろ何故、カラ(加羅・加耶)と交流を持つようになったのか②記紀に記録されている「神武天皇の東征神話」記述の政治的考察がないーなどの点で問題点があり、かつ、一貫性がない。日本古代国家の形成に、古代朝鮮南部地方からの文化・文明の伝ばが中心的な役割を果たしたと重要な主張を行っているが、この点はまことに残念である。

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