「日本一新運動」の原点(246)−健全な議会制民主政治実現のために考えること

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○ 健全な議会民主政治実現のため考えること!

敗戦の焦土から日本国を再生したのは、国民挙げて血の滲む思いの努力であった。それを支えた思想は「共に生きよう、共に幸せになろう」という日本的共生の信条であった。それが世界史の奇跡といわれる戦後復興を促進させ、経済成長を成功させ、敗戦からわずか20年後の昭和40年代には世界第2の経済大国をつくりあげた。


この時代の国会は、さまざまな問題で紛糾し、不詳事件を重ね国民から批判を受けたが、議会政治としては、多数派に抵抗する少数派を、社会の木鐸たるマスコミが時々に支援し、時代に合った国民的合意を形つくってきたといえる。この背後には、政治家が与野党を超えて「天は等しからざるを憂う」という、東洋の人間愛の精神を共有していた。戦後の日本の議会政治は曲がりなりにもそれを実現してきた。

ここ数年、率直に言って我が国の議会民主政治は、与野党とも政治的詐欺に等しいことを繰り返している。賢明な読者諸兄には、具体的事例を改めて示すこともないだろう。その不信が暮れの総選挙での、現憲法下では最低投票率の原因である。有権者総数の4分の1の獲得票で、憲法改正が可能な衆議院3分の2以上の議席を得るという現象を、単に選挙制度の不備にその責を求めるのは卑怯である。制度とはすべからく非もあると同時に是もあるのだ。地球上には議会制度をもつ国が約190ヶ国あり、52%という投票率は160位前後に位置する。北欧の国々は等しく90%前後をカウントしているから、我が国の低投票率は、議会民主政治に対する、日本民族の感性を根本から問うべき問題である。

「トリクル・ダウン」という、資本主義の最も堕落した思想でつくられた「アベノミクス」を「この道しかない」と絶叫する安倍首相には、これが日本民族や国の崩壊をもたらすものであることを知る能力は期待できない。「トリクル・ダウン」とは、富裕層からの「おこぼれ頂戴」と同義語ではないか。これでは、国民の積極性、健全な信条が生まれるはずもない。

確か、谷垣幹事長は2年前の総裁時代に、「人間の絆」という保守本流の理念を政治信条としていた。これを真逆にした「アベノミクス」の推進者になるとは政治家としての資質だけではなく、人間として失格者である。

さらに問題なのは、自公政治の民主政治ならぬ「詐欺政治」の危険さを感知せず、目をつり上げて自己の地位保全のみにこだわっている、野党の指導者たちである。小沢一郎氏が自己を犠牲にして、野党の結集を口酸っぱく訴えたが聞く耳を持たなかった。総選挙結果における、日本議会の瀕死事態の戦術的原因はここにある。

日本一新の会の本年の役割は、野党の結集という現実問題への論調だけに終わるのではなく、現代の日本人、なかでも有識者は「議会民主政治」を本当に理解しているのかを採り上げてみたい。

○ 消費税制度物語  (5)

昭和54年秋、自民党の「40日抗争」は、翌年の第91回通常国会の会期末、大平内閣不信任案の可決という後遺症が出ることになる。自民党の反主流派である三木派と福田派が欠席したためだ。大平首相は衆議院を解散する。この年6月に参議院の通常選挙が予定されていたので、総選挙はその日と重なり6月22日、史上初の衆参同日選挙となった。

参議院公示の5月30日夜大平首相が心筋梗塞で倒れ6月12日に死去。10日後の投票では衆参で自民党が圧勝して、両院での与野党伯仲は解消した。自民党は党首が存在せず首相臨時代理に伊東正義氏を擁しての闘いであった。後継総裁候補を決めるための、最高顧問会議が開かれることになる。

前年の総選挙で落選し引退を決意していた前尾元衆議院議長は、昭和天皇のお気持ちもあり、病身を推して立候補し当選した。総裁候補選びの最高顧問会議に最も信頼する宮沢喜一氏を推すべく出席したが、大平派と田中派の談合で鈴木善幸氏に固まっていた。前尾元議長はその直後「幕が開く前に芝居は終わっていた」と、名言を吐いて自民党の談合政治を皮肉っていた。鈴木首相は宮沢喜一氏を官房長官とし政権を担当することになる。第93回臨時国会の昭和55年10月3日、初の所信表明で「あらゆる角度から行政を見直し、簡素で効率的な行政を実現する」とし、「増税なき財政再建」を基本方針とした。その方策として土光敏夫氏を会長とする「臨時行政調査会」を、昭和56年3月に発足させた。

「増税なき財政再建」は鈴木内閣のキャッチフレーズとなった。第91回国会(昭和5412月21日)の「財政再建に関する国会決議」の手順を踏まえたものであった。これに対し、税の神様」といわれた前尾元主税局長・元衆議院議長は激怒し、私に「宮沢官房長官に伝えろ。政権を担うとは、非常事態に国民の生命を守ることだ。政権は絶対に〝増税しない〟と宣言してはならない。何が起きるかわからない事態にどう対処するのか。宮沢は今でも官僚の発想のままだ。政治家ではない」と。その後、私は宮沢氏といろいろとつきあいが深かったが、前尾元議長の怒りを伝えなかった。

この直後の昭和56年7月23日、前尾元議長は京都市内の自宅で逝去された。比叡山延暦寺で開かれた「第10回京都青年研修会」で、生涯最後の講演を行った5日後だった。「高度経済成長が低成長にならざるを得ない時代が来る。その壁がどういうものか、十分な認識を持たねばならん。低成長に対して、どういう対策を採っていくのかを考えなければならんという時代だ。福祉社会を続けるのに苦労することになる。それをいろんなところで提言しているが、残念ながら指導者たちにその認識ができていない」と。

実は、逝去される16日前の7月7日、神田の割烹〝もと宮〟で前尾元議長と会食したところ、重要な話をいくつか聞いた。そのとき、昭和天皇との秘話とともに、ご自分の政治活動について「私の引退について君にも問い合わせがあると思う。前尾は死ぬまで衆議院議員を続ける。後継者は有権者が決めることと言っていた、と伝えておけ。君に頼みたいことは、いずれ国民の福祉のための消費税制度を導入する時期が来る。その時に、しっかりとした制度をつくるよう衆議院事務局の立場(政治的中立の意味?)を超えてやってくれ」と語った。これが私への遺言となった。

余談だが、前尾先生が逝去された直後、宮沢喜一官房長官から私に「ご遺体を東京に移すよう未亡人と後援会を説得するよう」指示があったが、失敗した。宮沢官房長官は遺体と会えず、遺骨で東京の自宅に帰ったとき、私は大叱責を受けた。「政の心」がわからない人物だ。このままでは総理には無理だと感じた。

昭和57年10月、鈴木首相は行財政改革の中途であったが、突然に退陣を表明した。第97回臨時国会で中曽根康弘氏が首相に選ばれ、行財政改革の仕上げをやることになる。「土光臨調」の政府宣言が続く中、消費税制度導入に繋がる税制改革論は言い出せる状況ではなくなっていく。 
(続く)

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