「日本一新運動」の原点(269)ー戦争法案を廃案にする「死角」(4)

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○安全保障法制関連法案を廃案にする〝死角〟がありますよ!4

6月4日(木)国会に激震が走った。衆議院憲法審査会で各党の推薦で参考人3名を招いて「立憲主義や制定過程」をテーマとした審議が行われた。議論は特別委員会で審議中の「安全保障法制関連法案」をめぐる、即ち「違憲性」の問題となった。

立法過程の本筋論から言えば「安全保障法制関連法案」の提出前に違憲論議があってしかるべきだ。それがなく国会にすんなり提出され、それが国会の審議権や表決権まで侵害する暴挙ともいえる提出の仕方だった。それは性格の異なる10本の提案を1本に括った提出のことだ。当然撤回論があってしかるべきだ。

憲法審査会では、何と自公推薦の参考人・長谷部恭男早大教授が「集団的自衛権の行使が許されるというのは憲法違反」などと発言。また、小林節慶大名誉教授(民主推薦)、笹田栄司早大教授(維新推薦)も同じく違憲と断じた。ようやく民主党から撤回論が出始めたが、まだ本気度が感じられない。

そこで『廃案への秘策』第4弾として、第2次世界大戦後の、「戦争」のほとんどが「集団的自衛権」の名の下で行われ、私利私欲の戦争であったことを証明しておきたい。それは「民主化の弾圧・冷戦の代理戦争・旧植民地利権確保」などだった。

(集団的自衛権行使の実態―これでも憲法9条に違反しないのか!)

以下に例示する資料は、衆議院調査局安全保障調査室が作成した『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会報告書』を参考として、私の責任で整理したものである。

1)ソ連によるハンガリー政府支援 1956年、ハンガリーの反政府デモにソ連軍が介入 (民主化運動の弾圧)

2)米国によるレバノン政府に対する支援 1958年、レバノンに内乱発生。国連監視団の報告に不満なレバノン政府は、米国に軍事介入を要請 (中東利権と冷戦の影響)

3)英国によるヨルダンに対する支援 1958年、イラクで共和国樹立、ヨルダンはアラブ共和国連邦の脅威に対し、英国に軍事支援を求め、派兵が行われる。(旧植民地中東利権)

4)英国による南アラビア連邦に対する支援 1962年頃からイエメンと南アラビア連邦の紛争続く。英国はイエメンに警告していたが止まらないため、イエメンの軍事施設を攻撃。(旧植民地中東利権)

5)米国などによるベトナム共和国(南ベトナム)に対する支援 1964年、トンキン湾事件(米艦と北ベトナム艦の交戦)の後、米議会が国連憲章や東南アジア集団防衛条約により、あらゆる手段を採る旨決議。翌年、米国は北爆を開始、以後地上戦となる。韓国・豪州・タイ・フィリピンが参戦。(冷戦の代理戦争)

6)ソ連によるチェコスロバキア政府に対する支援 1968年、チェコスロバキアにおける改革運動に対し、ソ連や東欧諸国がワルシャワ条約を編成し軍事介入、自由化運動を弾圧。(民主化運動への弾圧)

7)ソ連によるアフガニスタン政府に対する支援 1978年、アフガニスタンで親ソ政権ができ、ソ連との友好条約を結ぶ。革命路線に反発する地主やイスラム指導者らが反乱。1979年、ソ連は軍事介入。(冷戦と内乱)

8)キューバによるアンゴラ解放人民運動に対する支援 1975年、ソ連の支援で独立政権をつくったアンゴラ解放人民運動に対し、アンゴラ独立民族同盟のゲリラ勢力が武力闘争を起こし、それを支援する南アフリカ軍に対しキューバ軍、解放人民側で参戦。(冷戦)

9)仏国によるチャド政府に対する支援など  
イ、1975年、チャドではグクーニ・ウェディを大統領と する暫定政権が樹立、翌年イッセン・ハブレ国防相が首都を制圧。グクーニ政権の要請でリビアがチャドに軍事介入。
ロ、1982年、スーダンなどに逃れていたハブレが再び首都を制圧し、大統領となる。翌年リビアの支援を受けたグクーニが反撃を始め内戦激化。ハブレ政権は仏国軍に介入を要請。
ハ、1986年、チャドで再び内戦が激化し、政府軍が仏国空軍の支援でグクーニ派反政府軍に反撃。
(イ、についても、集団的自衛権行使との説あり)  (内乱)

10)米国によるホンジュラス政府に対する支援 1981年、米国はレーガン政権発足後に社会主義化したニカラグアに反発し、反政府武力勢力コントラを支援。軍事・資金援助、重要施設への攻撃を行う。米国はニカラグアによるホンジュラスなどへの武力攻撃に対する集団的自衛権行使を主張して対応。(冷戦)

11)米国、英国などによるペルシャ湾地域への兵力展開 1990年、イラクがクウェートに侵攻、併合を宣言。国連安保理はイラク軍の即時無条件撤退を要求する決議を採択。米英・西欧・アラブ諸国は、クウェート、サウジアラビア政府の要請を受け、個別的及び集団的自衛権を行使し国連決議に違反する船舶の通行を阻止すると安保理に報告。なお安保理は加盟国に対し「国際の平和及び安全を回復するため必要なあらゆる手段をとる権限を与える決議」を行い、多国籍軍が結成され、イラクを撃退した。(国連決議による収拾)

12)ロシアによるタジキスタン政府に対する支援 1991年、ソ連が崩壊し独立したタジキスタンで内戦が起こり、翌年ロシアとウズベキスタンの軍事支援を受けた共産党勢力が政権をとる。反政府勢力はアフガニスタンに逃れ政府軍を攻撃。ロシアはその攻撃をロシアとタジキスタンに対する侵略と見なし、CIS集団安保条約と集団的自衛権行使として反撃。 (内乱)

13)ジンバブエ、アンゴラ及びナミビアによる、コンゴ民主共和国に対する支援 1997年、コンゴ民主共和国(旧ザイール)が成立。翌年同国東部で反政府勢力が蜂起し、ウガンダ・ルワンダが支援した。これに対しジンバブエ・アンゴラなどがコンゴ民主共和国をつくったカピラ政権を支援のため派兵、国際紛争となる。(内乱)

14)英国・仏国・豪州などによる米国に対する支援 2001年、米国で発生した同時多発テロ(9・11)に対し、国連決議では「あらゆる措置を執る準備がある」ことを表明。米国などは、テロ組織及び同組織を援助するアフガニスタンのタリバン政権に対し、個別的または集団的自衛権に基づく軍事行動を開始した。(国連決議に基づく行為)

以上は加盟国が、国連憲章第51条による自衛権の行使にあたってとった措置で安保理に報告された「集団的自衛権行使」の主な例である。

この資料からわかることは、11と14の2例は国連の安保理の決議に基づいて行使されたもので、国連の機能が正常に発揮されたと理解してよい。11の湾岸紛争・戦争では日本も資金提供を中心に協力を行って解決した。14については、9・11事件を原因とするもので、日本も石油提供などで協力した。両件とも集団的自衛権だけでなく、国連の集団安全保障という発想も決議に入れられていた。

さて、他の12件をよく思い出して欲しい。「国連の集団的自衛権」という名を悪用した、米ソ冷戦の代理戦争であり、民主化運動の弾圧であり、旧植民地利権の確保であり、内戦という権力闘争への関わりであった。

歴代の日本政府が憲法第9条を楯に「権利は持つが、行使はできない」というわかりにくい説明をした理由は、集団的自衛権行使の実態を見ればよく理解できるのではないか。これからの国際情勢を見るに、通常の国際紛争に重なり、高度で複雑化したテロ事件や「ISL」による異常事態など、想定できないことが起こり得る。そのためには国連を中心にした体制整備を緊急に行うべきである。事実上、米国の軍事力を補完する、米国のための集団的自衛権の行使への道は、選ぶべきことではない。日米両国は国連ではない。

ほとんど知られていないが、日本政府が「集団的自衛権行使を憲法上できない」と初めて表明したのは、下田武三条約局長で(第19回国会衆議院外務委員会)、その国会で自衛隊法や日米相互防衛援助協定(MSA)が成立した時であった。それを判断したのは退陣間近の吉田茂首相であった。

吉田茂首相は、自衛隊の生みの親であるが故に集団的自衛権行使に参加することを徹底的に嫌った。それは憲法第九条のみならず、当時、一部保守勢力(岸戦犯グループ)が台頭した「憲法を改正して再軍備を行い、戦前の軍事国家に回帰することを阻止」するためであった。それが戦後一貫して続けてきた〝自民党の良心〟であった。これを否定することは、自民党を否定することだ。谷垣幹事長は、保守本流としてそれを忘れている。

もう一つ秘話を紹介しておく。吉田首相は、対日講和条約交渉で再軍備を迫るダレス特使に、

1)経済復興のため再軍備の負担に耐えない 
2)日本には軍国主義復活の危険がある 
3)憲法上困難がある 
4)日本の再軍備は、近隣諸国が容認するようになってからだ、

と突っぱねている。(出典・昭和35年8月10日、憲法調査会第3委員会での西村熊雄元条約局長の発言) 
(続く)

(「平成の日本の政治改革の原点」は休みました)

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