浅学非才、経験皆無的不足を省みず、「釈迦に説法」の批判を覚悟で、サイト管理者が愛読する「月刊日本6月号」に掲載された平野貞夫氏の「民主主義の崩壊招く解釈改憲」(インタビュー記事)の中の「吉田茂擁護論」に疑問を呈したい。
ただし、「解釈改憲」なるものによって「民主主義を放棄するわけにはいかない」という平野氏の主張には全面的に支持する。
敢えて、平野氏の「吉田茂擁護論」に疑問を呈するのは、孫崎享氏の著書「戦後史の正体」(創元社)により説得力を感じるからである。本書は戦後日本の政治・外交史の本質を「対米独立派」と「対米従属派」の対立・抗争の観点から捉えており、極めて示唆に富むからである。
吉田茂はサイト管理者の郷土の偉大な先輩であり、確か、サイト管理者が中学生の頃だったか、1967年10月20日に逝去された。この時、サイト管理者は学校での体育祭の練習をしていたが、体育祭の指導教官の「郷土の偉大な先輩である吉田茂元総理に黙祷捧げ」の号令で、黙祷を捧げたことをよく覚えている。 吉田茂の最大の功績は朝鮮動乱の勃発という非常事態に対して、日本を共産革命から守るために「柔軟に対応した」ことであろう。すなわち、日本国憲法の制約にもかかわらず、日本国占領軍総司令部の占領政策の転換のため、占領政策を転換せしめた米国の要請に応じて警察予備隊(後の自衛隊)を創設(1950年6月25日の挑戦動乱勃発後)するとともに同国と旧日米安全保障条約(国会で批准されたことはないから、条約の名に値しない)に調印したことにあろう(1951年9月8日作成)。
しかし、米国の言うことを「素直に聞く(受け入れる)」ことで、対米従属路線の原型を作り、日本の自主独立の道を事実上塞いでしまったことは否定できないのではないか。サイト管理者は良好な日米関係の構築を否定したりはしない。ただし、そのためにも「言うべきことは言う」という姿勢の確立こそが「真の意味での正しい日米関係」構築の原点になるべきと信じる。 さて、旧日米安全保障条約だが、これは次のようなものである。
- 第一条 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じよう{前3文字強調}を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。
- 第二条 第一条に掲げる権利が行使される間は、日本国は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして、基地、基地における若しくは基地に関する権利、権力若しくは権能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通過の権利を第三国に許与しない。
- 第三条 アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する。
- 第四条 この条約は、国際連合又はその他による日本区域における国際の平和と安全の維持のため充分な定をする国際連合の措置又はこれに代る個別的若しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと日本国及びアメリカ合衆国の政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする。
- 第五条この条約は、日本国及びアメリカ合衆国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が両国によつてワシントンで交換された時に効力を生ずる。
この旧日米安全保障条約(旧安保)の本質は、米国が日本に対し、同国の世界戦略遂行のために何時でも、好きな場所に在日米軍基地を提供させることを申し渡した第一条と、在日米軍基地の治外法権を認める日米行政協定(現日米地位協定、思いやり予算含む)の締結を指令した第四条である。
何か、日本の防衛のためのような印象を与える第一条だが、「使用することができる」という外交上の「隠語」は米国側に「義務」を課したものでは、全くない。 要するに、「使用することができな」くても全く問題はないのである。 旧安保条約は、日本における対米抗議行動の鎮圧を含む米国の世界戦略に従って、同国が必要なときに必要な場所に米軍基地を建設し、いつでも使うことができるように定めた「条約」なのである。この条約ほど、日本の自主独立を踏みにじった条約はない。 しかし、この条約は、48カ国の代表がサンフランシスコのオペラ・ハウスで、日本と日本の独立を認めたとされるサンフランシスコ講和条約に調印した1951年9月8日、その後に米国陸軍第六軍下士官クラブで、調印された。そして調印したのは、米国側がアチソン国務長官、ダレス国務省顧問など四人であったのには、日本側は吉田茂首相その人ただ一人であった。
平野インタビュー記事は、旧安保条約が最悪の内容になったことに吉田茂が憤慨し、「俺はサンフランシスコ講和条約に行かん」と言い出したため、「最終的には昭和天皇が直々に説得に当たられて、吉田茂は忸怩たる思いでサンフランシスコに行き、講和条約、(旧)日米安保条約に調印したのです」とある。
これは、事実とのことだが、ならば第一に、昭和天皇は日本国憲法に違反したことになる。既に、象徴天皇制を定めた日本国憲法は1946年11月3日公布、1947年5月3日施行され、すでに天皇の(広い意味での)国事行為には、内閣の助言と承認が必要になっていたからだ。まことに驚くべきことであるが、対米従属路線は、日本の共産化による天皇家の断絶を恐れた昭和天皇と吉田茂によって敷かれたものである。
【追記】上記については、「戦後史の正体」の87ページに記載されている進藤栄一・筑波大学助教授(1979年)が発掘した昭和天皇の側近・寺崎英成の次の文書を参考にされたい。
「マッカーサー元帥のための覚書」(1947年9月20日)
(マッカーサー元帥の司令部最高顧問シーボルト)
天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する天皇の考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束した上で訪ねてきた。寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると言明した。(略)
さらに、天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだと考えている。
第二に、吉田茂が旧安保条約に憤慨していたならば、本人自身もしくはその後継者を通して、その改定に取り組んだはずだが、どうもその形跡は見えない。孫崎氏の著書によると、米側はむしろ、日本の再軍備化により熱心だった鳩山一郎を後継首相にして、吉田茂を失脚させた公算が大きい。
第三に、米軍の駐留については常時駐留と有事駐留と大きく分けて二つの選択肢がある。吉田茂は当時の「リアル・ポリティックス」から常時駐留を選択した。その延長線上に、今日の解釈改憲➤自衛隊の手弁当方式米軍尖兵化➤徴兵制という流れがあることを忘れては行けない。しかし、有事駐留もひとつの選択肢である。生活の党の小沢一郎代表の「米軍のプレゼンスは第七艦隊だけで良い」、日本は国際協調主義の一環として国際連合のPKO活動に参加すべきである旨の発言は、後者の選択肢の中から生まれたものと考える。
旧安保を改定しようとしたのは、「昭和の妖怪」とされる岸信介(のぶすけ)である。岸は1957年6月に訪米、21日に次のような共同声明を発表した。
- 安保条約を検討するため政府間の委員会を設置する。
- 安保条約にもとづくすべての措置が、国連憲章の原則に合致することを保証するための協議を行う。
- 1951年の条約(旧安保条約)は暫定的なものとして作成されたものであり、永続的に存続することを意図したものではない。
- 陸上部隊の速やかな撤退を含む大幅な削減を行う。
この共同声明は日米安保条約が国連憲章に合致すること、つまり、同条約が国際協調主義の枠内のものであるべきこと、在日米軍基地の大幅な縮小を求めたものである。岸はさらに、日米行政協定の改定にまで踏み込もうとしたが、自由民主党内の対米追随派(池田勇人、三木武夫ら)に邪魔され、米国が仕組んだ安保騒動(全学連への資金提供は経済同友会系の財界=右翼活動家の田中清玄がブント系全学連に紹介=が行ったが、この経済同友会は米国が育て、岸打倒を指示した)で失脚した。なお、1960年に締結された日米安保条約の主たる条項は以下である。
- 第一条 締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によつて国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。 締約国は、他の平和愛好国と協同して、国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が一層効果的に遂行されるように国際連合を強化することに努力する。
- 第五条 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。 前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
- 第六条 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。 前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(改正を含む。)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。
一応、第一条において国際連合憲章に沿うことがうたわれているが、イラク戦争でも明らかになったように今の米国が国連憲章に忠実かは甚だ疑問である。第五条は共同防衛の「義務」を課したものと理解されがちだが、両国とも「自国の憲法上の規定および手続きに従う」というしばりがあり、米国に対して「即時的軍事行動」の義務を課したものではない。 新安保条約の要は日本に対して基地の使用を指令した第六条であり、かつ、治外法権を認めた日米行政協定に代わる日米地位協定+思いやり予算である。
かくして、昭和天皇と吉田茂によって敷かれた対米従属路線を克服することなくして、日本の独立と民主主義の確立はない、というのが平野インタビュー記事を拝読したサイト管理者の現在の認識である(昭和天皇が沖縄県のみご巡行なさらなかったのには、理由がある)。その真の克服のためには、世界史の中心史と日本史の解読が必要となろう。