◎「日本一新運動」の原点(253)ー「国民の生活が第一」の原点

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○『国民の生活が第一』の思想の原点を考える!
1月31日(土)、48年ぶりに安房勝浦を訪ねた。宇和島生まれで、勝浦で暮らす、水口修氏(元国際武道大学教授・フランス外交史専攻)が創立した『勝浦歴史文化研究所』主催の講演会に招かれてのことだ。私の演題は、事前に「市長が出席して挨拶する予定なので政治の話は抑えるように」との注文があったことから、「勝浦の歴史と文化を考える」としていた。ところが、会場に着くと、市長が講師の名前を聞いて別の用件をつくったようなので、大いに政治の話をしてくれと注文内容を変更。「歴史と文化」の題は変えずに、存分に政治の話をしてきた。

 (「国民の生活が第一」の思想の原点)

「国民の生活が第一」という政治理念は、小沢一郎という政治家が民主党代表に就任して、平成19年に参議院選挙のキャッチフレーズとしたことから国民に知られるようになった。参議院選挙で民主党が勝利し、平成21年8月の衆議院選挙で、わが国で初めて民衆が自らの意思で選択した政権交代が実現した。民衆は、「国民の生活が第一」の政治が展開されると期待したが、3年3ヶ月で民主党政権は自己崩壊した。そして「金持ちと大企業の利益が第一」という、安部自公政権に戻った。

その平成21年にNHKの大河ドラマ『龍馬伝』。楽しみにしていたが龍馬の精神や思想が無視されていた。〝龍馬研究家〟としては看過できず、出版社に『龍馬の思想と行動』の本を出したいと持ち込んだ。「それでは売れない。貴兄がお得意の〝女〟の話を入れてくれ」とのこと。そこで執筆したのが『坂本龍馬の十人の女と謎の信仰』(幻冬舎)である。ところが、執筆中に全く知らない人や場所から、次々と龍馬と信仰についての情報が送られてくるという不思議な現象が起こった。それを『謎の信仰』と出版社の要請で名づけた。龍馬の活力の原点は、武道の北辰一刀流とともに、「北辰妙見思想」であったことがわかった。

江戸留学中に許嫁の千葉佐那から教えてもらったものだ。それは「民衆の福寿が国の安寧の原点」という考えで、星(北極星や北斗七星)を「妙見菩薩」として信仰することである。実は龍馬の先祖は、宇和島の和霊神社を屋敷神として分祀して星信仰を続けていた。和霊神社とは宇和島伊達家の家老で、民衆を大切にしたことで知られた、山家清兵衛(やんべせいべえ)を祀ったものだ。伊達家は妙見信仰で知られており、関ヶ原の後、徳川家康が奥州の伊達政宗の勢力を分断するため、長男の秀宗を宇和島に封じることになる。家康にはいろんな見方がある。大名には厳しかったが、民衆を大事にする思想をもっていた。それを教えたのが安房勝浦で育った家康の側室、お万の方であった。

安房勝浦のすぐ近くが日蓮の生地で天津小湊だ。法華経に帰依したお万の方は、特別に妙見菩薩を信仰した。安房国は妙見信仰の遺跡がたくさんあった。徳川300年の思想の基盤は、お万の方と天台宗天海僧正の妙見信仰にあるといわれている。

そこで安房勝浦―宇和島―高知が、妙見北辰信仰で結ばれる。民衆の福寿→国民の生活が第一という思想は勝浦・宇和島・高知を歴史的に原点としている。勝浦のこれからの発展は「お万の方」の活躍を世に出すことから始まるのではないか、と講演を結んだ。

(日本の歴史を動かす背後に妙見思想あり!)
日本が政治・社会などの国家体制を確立したのは鎌倉時代である。平安時代までは中国文化のコピーであった。鎌倉幕府を開いた源頼朝を支えたのは千葉常胤の北辰妙見信仰であった。24代目にあたる千葉吉胤妙星なる人が、柏市で「月辰会」をつくり、活躍している。彼らの先祖は今でも民衆に慕われている平将門である。戦国時代を収拾した徳川家康が、国を治める理念の一つにしたのが妙見思想であった。

徳川幕藩体制も300年近くたてば官僚腐敗政治となる。徳川体制のなかには勝海舟や松平春嶽など、妙見信仰の賢者がいた。江戸の千葉北辰妙見道場は徳川体制改革の秘密結社であった。そのなかで坂本龍馬が活躍した。龍馬にとって、「民衆の福寿」はジョン万次郎から教わった「草の根デモクラシー」と同根であった。明治維新でそれを実現しようとして暗殺された。明治新国家は軍事国家となり崩壊した。敗戦後民主憲法となったが、「真の民衆の福寿」は未だ実現していない。平成時代になって、父が奥州で、母が千葉の妙見DNAをもつ小沢一郎が、「国民の生活が第一」を実現しようとしたが、激しい妨害により、道半ばである。龍馬の「明治維新は、まだ終わっていないぞ」との声が私には聞こえる。

○ 消費税制度物語
(12)(竹下内閣で始まった消費税の本格論争) 昭和62年11月6日に成立した竹下内閣は、税制改革・消費税導入の主要人事として宮澤喜一氏が副総理兼大蔵大臣に就任、内閣官房長官に小渕恵三、同副長官に小沢一郎を起用した。閣僚経験者が官房副長官に格下げ就任するのは第二次佐藤内閣の木村俊夫以来、20年ぶりの異例人事であった。

重要法案を国会で成立させるためには、国会運営と政策に通じた敏腕の政治家の表裏での活躍が必要だからだ。宮澤大蔵大臣は、私の恩師、前尾繁三郎元衆議院議長の一番弟子である。前尾先生が逝去する2週間前「消費税制度を導入する以外に、社会保障や国民生活を安定させる方法はない。そのときは立場を超えて協力してやってくれ」という遺言があった。私は運命的なものを感じ、鳥肌がたった。

第111回臨時国会の昭和62年11月27日召集日、竹下首相は所信表明で「先の国会で税制改革の第一歩を踏み出し、さらに、広範な議論を通じ、所得・消費・資産等の間で均衡がとれた安定的な税体系の構築に努める」と、税制の抜本改革を宣言した。この国会で議論になったのは、中曽根政権時代の政府統一見解をめぐってであった。

それは『多段階・包括的・網羅的・普遍的で大規模な消費税を投網をかけるようなやり方はとらない』というもので、「タ(多)ホ(包)モ(網)フ(普)ト(投)」の統一見解と呼ばれていた。野党は「この統一見解は、中曽根個人の見解ではなく、政府の共同責任だ」として、竹下内閣として守るべきものだと主張した。この臨時国会での論議の成果は「今後の高齢化社会や経済の国際化を展望すると、統一見解を超えて、抜本的税制改革の実現は避けて通れない」ことについて、国民的理解を深めたことである。「統一見解」は事実上白紙化した。

12月28日御用納めの日、第1112回常会が召集された。この常会で消費税関係法案を提出するかどうかの重要な政治判断が迫られていた。そんな中、竹下首相の要請で『第112回常会の開幕にあたって』のメモを届けた。

ポイントの要旨を記しておく。「先の臨時国会では新政権への野党のご祝儀もあって成功したが、次の常会は簡単ではない。国会運営責任者のコミュニケーションが不足だ。渡部国対委員長と三塚衆院議運委員長は相互に牽制しあって、反りが合わない。小沢副長官は三塚氏が苦手だといっている。小泉国対副委員長と村岡議運筆頭理事は国会運営を一次方程式程度にしか考えない頭脳だ。これがコミュニケーション不足の原因。総理はこの六人を招き、指導しないと目的は果たせない。浜田幸一氏を予算委委員長に起用したことのデメリットに注意すべきで、政策論争で話題が少ないとき、運営でトラブルが起こり得る」。

年が明けて昭和63年1月25日、第112回常会常会が再開され、本格的消費税論議が期待された。私が暮れに竹下首相に進言した「国会運営責任者6名のコミュニケーションは良好になったが、もうひとつの浜幸予算委員長問題は、心配したことが勃発する。当時、私は衆議院事務局委員部副部長で、総予算とか消費税法案とか重要案件の委員会審議で、運営事務の総括責任者であった。竹下首相からも、浜幸さんからも「よろしく補佐してくれ」と頼まれていた。浜幸さんには予算委委員長の心構えなどを教育していた。

その甲斐があって予算委員会は、5年ぶりに難関の総括質疑を、2月6日(土)までに消化できる予定となった。ところが最後の質疑者で事件が起きた。正森成二委員(共)の質疑中、浜幸委員長が「昭和8年12月24日、宮本顕治ほか数名により、当時の財政部長小畑達夫を股間に……針金で絞め、リンチで殺した・・」と突然の暴言。そのとき、私は弥富事務総長と総長公邸で酒を飲んでおり、現場に行けず問題となった。野党は一斉に審議を拒否した。浜幸予算委委員長の辞任でこの問題を終着するのに10日間の時間を要した。

奥田敬和氏が予算委委員長の後任に就任し、総予算の修正要求が野党から出る2月末になると、予算委員会で税制改革論議が本格化する。政府サイドからこの常会で消費税関連法案の国会提出は無理となった。各野党も消費税を巡って、本格的論争に応じるようになる。
(続く)

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